8.すいかわり【鶺鴒】

 次の日、朝早くからぼくらはリビングでみんな揃って神妙な顔をしていました。チチチと鳥の声がいかにも平和そうに響きます。

 鶴見さん、という男のひとだけが、場違いにリラックスした様子で椅子に座って全員──かあさん、おねえちゃん、鬼頭さん、かあさんの職場の副所長さんである栗田さん、そしてぼく、の視線を浴びているのでした。

 なんでこのひとがここに。

 そう、このひとこそ、スーパークラガリでぼくらに付き纏ったり、変なチラシを渡してきた変なおじさんなのです(といっても、さすがに白髪混じりの鬼頭さんと並んでいると歳の差がはっきりわかるので、ここではお兄さんといったほうがいいのかもしれません)。

 しばらく全員黙っていましたが、思い出したようにかあさんは「朝ごはんを」と言って働きだしました。ぼくもおねえちゃんを抱えて、台所へ向かったかあさんを追いかけます。おねえちゃんが声をひそめてつぶやきました。

「……おかあさんの職場の利用者さん?」

「そう、先月から入所しとりんさるの。こんなことになるなんて」

 ぼくが朝目を覚ました時から、かあさんはひたすら目を白黒させていました。

「お身体のことはいろいろとわかっとらんことも多いの。お話しとってびっくりするかもしれんけど、おかあさんはふつうのひとやと思っとる。説明するのがむずかしいんやけど……。

 とにかく、鶴見さんは、どうも不思議なひとやって噂になっとって。言うて、とても信じられへん話ばっかりよ。おったはずの場所から一瞬でずっと遠くに移動しとったり、……夜中に額にツノが生えとるやとか。根も葉もない、差別みたいな話でしょう。そんな話を広めちゃあかんやろう? でも、なんていうか……不思議なひとでね」

 そして、話は昨日の夜に遡ります。

「倒れたっていうのは誤報で、正確には鶴見さんが夜中に寝室から居なくなって、公園で寝とりんさったところを誰かが通報したみたいなんやわ。そっから、おかあさんと栗田さんとで鶴見さん起こして、あーやこーや話し合って、あんな時間になってまったのよ。ごめんね、遅なって」

 かあさんとぼくらの親子関係を知った鶴見さんが、どうしてもチラシの件に関してはぼくらに無実を証明したいというので、公園で夜を明かしたのちに、ぼくらの家までやってきたらしいのです。ということは、夜中いちおう帰ってきたらしいかあさんも、朝までろくに眠れていないのでしょう。

「上村さん、大丈夫? 私ついとるで少し休みゃあ」

 台所に顔を覗かせた栗田さんは、かあさんの上司にあたるひとで、すかさずぼくらにも優しく微笑みかけるのでした。かあさんはかたじけなそうに頭を下げました。元気なく、ずっとシンクにもたれたままなのが気にかかります。

「すみません……鶴見さんは?」

「うーん、なんかね、拾史郎くんと喜捨奈ちゃんに話があるって。どうする?」

「キーちゃん、トシくん、かあさんたあが一緒におるで、お話聴いてみる? ぜんぜん断ってもかまわんで」

 気遣いに満ちた大人たちの声色に、ぼくらは顔を見合わせ(正しくは、ぼくがおねえちゃんの顔を覗き込んで目を合わせ)ました。

 三十分後。

 結局ぼくらは、鶴見さんの話す内容があまりよく分かりませんでした。ただ、どうやら鶴見さんにスーパーのチラシを偽造するような手段も知識もないことは確かなようでした。

 ぼくらは、彼の話を分かろうとしなかったのかもしれません。うまく言えないけれど、鶴見さんは嘘などついていなくて、誰にも相手にされなくて、勘違いされやすい。それだけなのではないかと思えました。

 玄関で、鬼頭さんと栗田さんの話し声がします。〈ほんなら、昨夜のことには事件性は無いいうことで、私ぁいちおうこれでご無礼します。またなんぞかんぞございましたらすぐご連絡を──〉〈ご苦労さまです、ありがとうございます──〉

 謎は、スーパークラガリに残ったまま。

 それはそれとして。ぼくは、廊下で鶴見さんとふたりきりになった短い時間を逃すまいと、勇気を出して口を開きました。

「気になってたんですけど、この前、ありがとう助かった、って言いましたよね。あれ、どういう意味なんですか」

「スイカになってみようと思ったことがあってね。拾史郎くんたちのおかげで思い出した。ささやかな記憶だけれども、無いよりは良い。私というものは数が増えすぎてもう追いきれない、本物の唯一の記憶が無いんだ。私は鶴見繁生ではなく、影で、石で、鳥で、誰かの兄だった」

「はあ」

「あれも私だ」

 鶴見さんは窓の外、アスファルトをちょこちょこ歩く小鳥を指します。……あれ。市街の駐車場なんかによく居る鳥じゃないっけ。示し合わせたようにチチチと鳥。

「私の一人がついに店頭に並んだことがある。冬だったし出来が悪くて売れなかったよ。夏に実るスイカの意志は正しいのだね。カボチャだったらよかったかもしれない」

「おねえちゃんは野菜や果物じゃないです」

 なんか、急にムカついてきました。なにを言ってるんだこのひと?

「そうだね。娘さんを買い戻した時の君たちのお母さんの気持ちは、言葉にできないだろう」

「だから犯人をみつけなきゃって! 思ってるんですけどっ……鶴見さんは、なにか知らないんですか」

 ぼくはかあさんの言葉を思い出し、出来る限り声を抑えて尋ねました。鶴見さんは、穏やかな笑みを湛えていました。

「知らない。私はチラシを拾っただけだから。クラガリでも何も見ていない。喜捨奈さんと同じような目に遭ったひとのことは何人か知っているが──簡潔に言えば、割られたスイカは無かった。大事な商品だからね」

「……鶴見さんて、何者ですか?」

「まあ言ってみれば全身が首で、そのほかは幻なんだよな。おれと私は」

 ことばの持つ意味が分かったことにぼく自身おどろいて、思わず鶴見さんを凝視しました。すると。

 そのひとは、ひやっとする薄笑いを浮かべていました。

 どうしてでしょう。首と身体は繋がっているのに、まるで別もののよう。ぼくは、ぴんときてしまいました。直感。おねえちゃんを通して毎日見ている異質な切り取り線への注目。黒スーツのおじさんと同じ顔をした、ぼくら人間と似た気配に近づいた、けれど強烈な、溝鼠の臭い。その首に、接木の跡のようなものは当然見当たりません、ですが、おねえちゃんの弟であるぼくは断言できます。

 彼は、かあさんたちの知る「鶴見さん」とは別のひとだ。

 チチチ。ぼくが目を離せないでいる裂傷みたいな口のかたちは、たった一言こう紡いだのです。

「すりかわり、するかい?」

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