7.けがの素【まわる】

 涙が乾いてドライアイになりそうな空っ風の日。ぼくはいそがしく過ごしていました。というのも、秋といえば文化に芸術に運動に食欲に、あらゆる欲求や意欲をみたすため、課せられる活動も忙しさを増すからです。

「図工で銀杏公園の絵も描かなかんし、歌も練習しなかんし、もうちょいしたらマラソンも始まるし」

「ほーきぇゃー。そらかんなぁ。トシくんも大変てゃぁーへんだ」

 ぼくは下ろしたランドセルをそのままに、玄関先に腰掛けて足をぶらつかせました。一緒に居るのは、駐在さんこと鬼頭さんです。チラシ事件があってからは特にお世話になりっぱなしで、かあさんが仕事から帰るまでの時間、見廻りがてらよく家にも立ち寄ってくれます。ぼくは塾に行く前にいったん家に帰るので、こうして話し相手が居るのはうれしいことでした。マラソンかァ、冬が近こなったなァ、と鬼頭さんの掠れた声。

 おねえちゃんは、マフラーを巻くようになりました。あたたかな薄ピンクともオレンジ色ともとれる絶妙な色合いの毛糸製で、かあさんが買ってきました。手編み、と言いたい気持ちはなんとなくありますが、あいにく、かあさんにはあまり余裕がありません。とうさんが居なくなったことで、お金「は」あるはずです。たぶん。春頃だったでしょうか、近所のひとたちがそう噂していたのをこっそり聞いてしまいましたから。

〈上村さんとこはええ暮らししとらっせるで──〉

 今までお金について考えたこともなかったぼくは、盗み聞きをしながらカッと顔が熱くなったことを覚えています。確かにそう、かあさんが一生懸命働いているとはいえ、ぼくら姉弟、いくつものお稽古事や学習塾に通うには相当なお金が要るはずです。なんて言ったらいいのでしょう、とにかく、その噂話にハッとして顔が熱くなったのです。まちがっても、かあさんやぼくら姉弟自身が、置いていかれただなんて、だから恥ずかしく思ったなんてことはないのですが、とにかくぼくはなんにも知らない。今年はこれまでよりずっと勉強や読書をがんばりました。成績が良くなっているのが自分でも分かるくらいで、通知表が出るのがちょっと楽しみだったりします。本を読むこと自体が楽しくなったのは良いことでした。

「キーちゃんは今日も留守番やな。トシくん、塾行くなら送ってこか」

「ありがとうございます。その前におやつ……豆大福、よかったら」

「やー、ええわええわ。気持ちだけ頂いとくで、トシくん食べやぁせ」

 おねえちゃんをキーちゃん、ぼくをトシくんと呼ぶ鬼頭さんの朗らかな声がくすぐったいです。鬼頭さんはおねえちゃんが首だけになっていることを知っているはずですが、そのことには直接触れたりしません。

 夜、かあさんはいつにも増して慌ただしく帰ってきました。かすかに鬼頭さんとかあさんの話し声が聞こえます。──すみません。職場で利用者さんが倒れたらしくて、私その方の対応があるもんで行ってこんと……──それでもおねえちゃんとぼくを見ると声をかけ、なんでもないような顔をするのが、かあさんというひとでした。

「キーちゃん、トシくん、ただいま」

「おかえりぃ。ねえおかあさん、あったかい、このマフラー」

「ほうやろー、似合うよ。キーちゃんに似合うと思ったんやてぇ」

「家におる時も巻いとっていい?」

「良いよ、寒いんやろう? あったかくしとりゃあ」

 会話だけ聞けばとても普通。ううん、とても恵まれた家族環境かもしれません。何が無くて、誰が居ないか、目を閉じればわからないくらい。おねえちゃんはまるで五体満足のようだし、とうさんもそこに居て見守っているみたい。

 まあ目を開けたら開けたで、そこには、ふだん居るはずのない駐在さんがいるのですけど。

「では、なるたけすぐ戻りますので、子どもたちのこと、どうか」

「大丈夫だて、大丈夫。あんきに行ってりゃあ、怪我でもしたらわやだで慌ててかんよ」

「非番の日にすみません。……じゃ、晩ご飯悪いけど鬼頭さんと一緒に食べとってぇね」

 しんとしたリビングでの夕食。おねえちゃんはご飯や勉強の時は、テーブルの上に座って(?)います。ぼくは味噌煮込みうどんをはさみで切って、おねえちゃんの口に運びます。鬼頭さんは、ごちそうになるのは悪いからとコンビニで買ってきたらしいおにぎりとお茶を手にしていました。

「鬼頭さんも食べませんか」

「うん? いやいやええよ、ありがとう。こういうのはちゃんとしとかんと、自分にまわってくるでな」

 ぼくははあ、と曖昧に相槌を打ちました。鬼頭さんみたいに年配のひとの言い回しは、よく分からないことが多いです。ものをはっきり言わないのです。ぼくは、あまりお世話になっては悪い、というくらいの意味に受け取りました。お風呂に入り、明日の準備まわしをして、鬼頭さんとぽつぽつなんてことない会話をしながらテレビをぼんやり眺め、かあさんの帰りを待ちます。ぼくは結局眠ってしまいましたが、かあさんは日付が変わった頃に帰ってきたようでした。

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