稲子駅へ出かけよう。
増田朋美
稲子駅へ出かけよう
その日は穏やかに晴れていたが、どこかの県では雷が落ちたそうである。富士市は穏やかに晴れていた。それは良いことなのかもしれないけれど、他の県の人たちには申し訳ないくらいに晴れていた。
その日、杉ちゃんとジョチさんが、買い物から製鉄所に戻ってきたところ、
「そうはいってもですね、あんな遠い寺に一人で墓参りに行くのはちょっと、、、。」
と、水穂さんが話している声がした。
「一体どうしたんかな?」
杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせた。
「おじいちゃんのお墓参りに行きたいんです。駅からすぐ近くだって言うし、それなら私でも行けるんじゃないかって。」
そう言っているのは、線維筋痛症のため車椅子に乗っている松永良子さんという女性であった。一月ほど前から製鉄所に通っているが、来たときには、線維筋痛症のステージ4と診断されていて、歩くなんてもちろんできなかったし、自分の体重のせいで座っていることはできず、寝たきりに近い状態であった。この最近は、車椅子に座っていることもできるようになっているが、どこかへ出かけるのはまだ心配である。血液検査をしても、MRIを撮っても、脳にも体にも異常がないという話だ。それなのに、足が痛くてしょうがない、と口を開けばそれを訴えるのである。
「でも、あんな遠い駅まで一人ではいけませんよ。元々無人駅ですし、切符を買うことだって、できないんですから。」
水穂さんはとても心配そうに言った。
「それでもなくなるまで、心配してくれたおじいちゃんです。私は、病気のせいで、何もできなかった。葬儀にも、四十九日にも出られませんでした。今やっと痛みも小康状態になってきたので、今すぐ謝罪したいんです。」
良子さんは、一生懸命そういった。
「うーん。その気持はわかりますけど、無理なものは、無理ですよ。」
水穂さんがそう言うと、
「何が無理なんですか?」
とジョチさんが言った。
「ええ、何でも一人でお祖父様の墓参りに行きたいと仰っていますが、その駅がものすごい秘境駅で、一人で行くのは無理だと思っているのですが。」
水穂さんがそう応じる。
「なるほど。どこの駅なのか教えてくれる?」
杉ちゃんが言うと、
「身延線の、稲子駅と言うところです。」
良子さんは答えた。
「わかりました、それでは稲子駅まで、介護タクシーを出させましょうか?」
ジョチさんはリーダーらしく言った。
「そうですね。しかし、彼女の場合、線維筋痛症は難病指定でもないわけですし、精神障害者手帳の取得も難しいのですから、介護タクシーを出すとなると、ものすごいお金がかかってしまうのではないでしょうか?」
水穂さんが申し訳無さそうに言った。
「そういえばそうですね。それでは確かにお金がかかります。」
ジョチさんは考え込むように言った。
「だから無理だと言うのです。介護タクシーは優しいビジネスではないですよ。」
水穂さんが言うと、
「私に任せてください。」
いつの間にか、榊原市子さんが、四畳半にやってきた。
「私は太っていますし、力持ちなら自信があります。だからこういうときこそ私のような、太った女性が役に立つと思います。」
「そうですね。確かに市子さんは、力持ちであることが商売のようなものですからね。それならそうしていただきましょうか。松永良子さんと二人で、身延線に乗って稲子駅まで行ってください。駅からお寺まではどのくらいなのかわかりますか?」
ジョチさんがそう言うと、
「歩いて五分くらいのところにある日蓮宗のお寺なんですが。」
と良子さんは言った。
「というと、真光寺のことですね。じゃあ、そこのご住職に車椅子の方が墓参りに行くと、伝えておきますね。よい機会じゃないですか。せっかく外へ行ってみようという気になれたんですから、僕たちはうんと喜んであげること、思いっきり応援してあげることが大事だと思います。あとは市子さんと良子さんの二人で、頑張って行ってきてください。」
ジョチさんがそう言うと、
「でも稲子駅は、一時間に一本どころか、二時間に一本しか電車が走ってないところでもあるんですよ。そんなところでもし乗り遅れたらどうするんです。帰ってこれなくなる可能性もあるわけじゃないですか?」
水穂さんは心配そうに言った。
「そういうことなら、いっそのこと泊まっちゃったらどう?佐野川温泉だっけ?一軒家の温泉旅館が稲子駅の近くにあったよね。そこで一泊して次の日に返ってくるいうのはどうだ?」
温泉マニアとしての顔を持つ杉ちゃんはこういうときには役に立つのであった。確かに佐野川温泉は、あまり有名な温泉ではないけれど、自然豊かな一軒宿の温泉である。
「そういえばありますよね。佐野川温泉であれば、多数の観光客が訪れるというより、病気の治療のために行くような温泉ですから、松永さんにはいいかもしれません。そういうことなら、予約を取りましょう。ぜひお二人で行ってきてください。」
ジョチさんはタブレットを取り出して、佐野川温泉旅館のウェブサイトを出して空室状況を調べ始めた。
「幸い山の中の一軒宿なので、あまり訪れる人も少なく、いつでも空きはあるようです。一泊二日で予約できるみたいですよ。」
「じゃあ善は急げだ。明日と明後日で行って来いや。きっと、墓参りのおじいちゃんも喜んでくれるし、佐野川温泉も自然豊かな癒やしの場所だよ。」
ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんがすぐそういったため、話は決まった。松永良子さんと榊原市子さんで二人揃って温泉旅行だ。行き方は簡単。まず身延線で稲子駅へ行って、真光寺へ行き、その後はタクシーで佐野川温泉旅館まで乗せてもらう。タクシーは山梨県にあるタクシー会社に電話して、真光寺まで来てもらうようにお願いした。
翌日、良子さんと一子さんは富士駅へ向かった。まず初めにエレベーターで身延線に向かう。エレベーターは狭くて、車椅子一台入るのがやっとであった。これではなんのために車いす用のエレベーターがあるのかよくわからないくらいだ。駅員に手伝ってもらいながら、すでに停車している甲府行の電車に乗り込んだ。電車は二両しかなくて、しかも向かい合って座るタイプの座席のものであり、ちょっと車椅子で乗るのは窮屈であった。電車はワンマン運転であるので、駅員が稲子駅まで同乗してくれるのはいいのであるが、稲子駅は無人駅であるので、切符は運転手にわたすことになる。
西富士宮駅を出たあとは、本当に山道という感じになり、スピードも遅くなった。急いでいる人にはじれったくなるようなスピードでもあった。
それでも40分くらいして、電車は無事に稲子駅へ連れて行ってくれた。駅員に礼を言って、二人は稲子駅のホームへ降りる。確かに何もなく、エレベーターもなければ自動改札機もない。二人は運転手に切符を渡した。運転手はよくこんな田舎駅で降りるなあと言う顔をしていた。
幸いなことに、稲子駅には車いす用のスロープはあった。点字ブロックもちゃんとあり、きちんと配慮してあることがわかる。二人は、駅を出て、真光寺へ向かった。駅の周りの道路は坂道が多く、車椅子ではきつい。ときには市子が押してやらないとだめなこともある。歩いて五分ということであるが、それはおそらく歩ける人がカウントして五分だろう。二人がそこへ向かうには、倍以上かかってしまった。
「へえ、立派なお寺ねえ。とても山の中にあるとは思えないなあ。」
市子さんがそう言うほど、寺は立派な建物で、古ぼけた山寺という感じではなかった。二人がそこの山門をくぐると、にこやかな顔をして、住職が現れて、
「ようこそいらっしゃいました。松永良子さんと、榊原市子さんですね。松永正則さんのお墓参りに来られたのですね。お墓はこちらにございます。ご案内しましょう。」
まだ40代くらいの若いご住職であった。墓地はさほど大きなところではないけれど、車椅子でも入れるようになっている。それぞれのお墓にはきれいにお花や置物が置かれていた。中にはお酒が好きな故人もいたのだろうか、お酒の瓶が置いてあるお墓もあった。
「どうしよう。あたしお花も何も持ってこなかったわ。」
不意に良子さんが言った。
「手ぶらで、墓参りに来ちゃうなんて、なんて無礼なのかしら。」
「そんな事ありませんよ。お花を持ってこられなくても、お祖父様は喜びますよ。」
ご住職はにこやかに言った。そして、松永家と書いてある墓石の前で止まった。やっぱり、花が飾ってあったし、塔婆もきれいに置かれていた。
「おじいちゃん。何も持ってこれなくてごめんなさい。そして葬儀にも、法事にも出られなくてごめんなさい。でもあたし、こうして、榊原市子さんの力を借りてここにきました。ごめんなさいだめな孫で。それでもあたし、力の限り生きて行きますから見ていてください。」
良子さんはそう石塔に向かって一生懸命言っていた。
「きっと、とても優しいおじいちゃんだったんですね。」
市子さんが小さな声でいうと、
「ええ。あたしの一番の理解者でした。だってあたしが、大学へ行ったときも、みんなが反対したときも味方になってくれました。父や母は、仕事でいつも不在だったから、おじいちゃんが一番長く遊んでくれたような気がします。だから、どうしても、お墓参りに来たかったんです。」
良子さんは、泣きながらそういうのだった。
「そうですか。じゃあ松永さん、涙はもうサヨナラです。自信はないけど、生きていくのであれば、涙は見せてはいけません。そうしないと、お祖父様は悲しみますよ。」
ご住職がそう言うと、良子さんは、ごめんなさいと小さな声で言った。市子さんが、良子さんにハンカチを貸してくれた。良子さんはそれを受け取って、顔中の涙を丁寧に拭いた。
「今度来るときは、少し体が楽になっているといいですね。お祖父様もそれを願っていると思いますよ。」
ご住職がそう言うと、良子さんは涙をこぼしながら、はいと小さな声で言った。そして、もう一度墓石に向かって車椅子に乗ったまま、頭を下げて、
「おじいちゃんこれからも定期的に来るからね。あたし、ちゃんとやれるから。心配いらないから。」
とにこやかに言った。
「いいですなあ。そうやって、家族に来てもらえるなんて、羨ましい話ですよ。中には遺骨を寺に預けっぱなしで、ずっとその後のことはしないという方もいらっしゃるんですよ。そういう方に比べたら、松永さんの家族は幸せですね。」
ご住職がそう羨ましそうに言った。
「そうなんですか?」
市子さんは思わず言ってしまう。
「ええ。本当にそうなんですよ。中には葬儀をやってやっと肩の荷がおりたなんていう人もいるんですよ。こっちとしてみれば、ホント、可哀想だと思うんですけど、でも、ねえ。ご家族の事情ってこともあるでしょうし、、、。そういう人に限ってですね、なにか悪いことをしたりするもんなんですよ。だから私どもは、定期的に故人に会いに行くという事は必要なんじゃないかなと思うんですよね。そういうふうに、奢ったり、悪事をしたりする前に。あるいは、孤独でどうしようもないと言ってくる人もいる。そういう人にも、私どもは、ここに来ることを勧めています。そうすれば、孤独に悩むこともないと思います。」
ご住職は、静かに言った。
「だからね。そうやって後世の人達が会いに来てくれる、いつまでも覚えていてくれる、これが永遠の命というかね、魂なんじゃないかなと私は思うんです。中には、完璧に忘れられてしまう人もいます。だけど、そうじゃなくて、いつまでも人の記憶に残り続ける人もいます。そういう人が、増えてくれたら、私は、この仕事というか、そういう事をやって、良かったと思うんですよね。そして、そういう生き方に導いていくのも、寺の大事な仕事だと思うんですよ。」
「そうなんですね。素敵だわ。そうやって、後世に残るんだったら。私なんて、きっと、力持ちだけが取り柄のようなものだから、何も残らないでしょうけど、でも、素敵な事をして、後世に残るということができる人は幸せね。」
市子さんは、にこやかに笑ってご住職の話に答えた。それと同時に市子さんのスマートフォンがなった。タクシーが、予約時間の15時になったので、真光寺の近くに到着したというのだ。市子さんは、良子さんにそれを伝えると、
「おじいちゃんまた来るからね。今度は、頑張って一人で来られることを目標に頑張ります。本当に馬鹿げた目標かもしれないけど、それが私には重要なんです。今私は立てません。だから次は立って歩いて、ここへ来られるように頑張ります。」
と良子さんは誓いの言葉を述べた。
「きっとお祖父様も応援してくれてると思いますよ。がんばってください。」
ご住職がそういった。市子さんは、良子さんの車椅子を押してやり、ご住職にもお礼を言って、真光寺の入り口へ行った。優しそうなご住職は、二人がタクシーに乗り込むのを、見守っていた。
二人は、タクシーの運転手に手伝ってもらって、タクシーに乗り込む。タクシーはいわゆるUDタクシーと呼ばれるものである。障害のある人もない人も誰でも乗れるタクシーが少しづつ台数を増やしてくれているから、良子さんのような人も出かけることができるのだった。しばらく自然のある道のりを走る。こんな山奥をと思うくらいの、山道を走り、山の中の小さな家という感じの、佐野川温泉旅館に到着した。
二人がタクシーを降りると、若い女性と、おばあさんの女性が二人を出迎えた。ふたりとも着物がよく似合っていて、とてもきれいな人たちである。
多分、若女将と大女将だとわかった。
「いらっしゃいませ。松永良子様と、榊原市子様ですね。どうぞお入りください。」
大女将の女性が総挨拶すると、一人の男性従業員が出てきて、旅館の石段にスロープを乗せてくれた。それで、車椅子も押してくれたので、良子さんは、すぐに入ることができた。市子さんが、宿帳を書くなど、宿泊の手続きを済ませている間、若女将さんが、良子さんのそばにいてくれた。
二人は、女将さんたちに案内されて、部屋へ通された。畳の部屋だけれど段差は何もないし、ちゃんと車椅子に考慮してくれてある部屋である。お風呂などへ行きたくなったら、若女将が手伝いますよ、と大女将さんは優しく言ってくれた。それでは、早速お風呂に入りたいと、良子さんが言うと、若女将さんが露天風呂のある浴室へ案内してくれた。そして、良子さんの洋服を脱がせたりとか、そういう事も手伝ってくれた。佐野川温泉は元々お湯の温度が低く、温水プールと変わらないくらいの温度であるという。なので、源泉そのものの風呂と、ちょっと加熱して暖かくしてある風呂と二つあった。歩けない良子さんを持ち上げてお風呂に入らせてくれるというのは、市子さんがした。若女将さんは力持ちがいてくれていいですねと言っていた。露天風呂が、外にあったが、それも源泉そのものの風呂、そして、加熱した風呂と二つあった。なんとも風情のある岩風呂だった。幸い他の宿泊客はおらず、二人だけでのんびりと温泉を楽しむことができた。
温泉から出ると、夕食の時間だった。夕食は部屋出しで、内容はイノシシ鍋である。ポン酢とよくあっていて、美味しかった。ふたりとも残すことなく、きれいに完食してしまった。あとは、布団を敷いてもらって、仲良くおしゃべりしたり、テレビを見たりして過ごした。そうこうしているうちに夜になった。
「そういえば、大女将さんが、ここから星が綺麗に見えるって言ってたわね。あたしが手伝うから、外へ出てみない?寒いから、上着を着てね。」
市子さんは、にこやかに言って、良子さんを背負って、部屋のバルコニーへ出た。そこには椅子が二つあって、外を眺められるようになっている。この旅館はカラオケもないし、コンパニオンもいないというが、その代わり、豊かな自然が見ものという話だった。市子さんは良子さんを椅子に座らせた。
「ほら見てよ。すごい綺麗じゃないの。カペラがよく見えるわ。」
市子さんは良子さんに言った。確かにカペラが美しく輝いている星空だった。
「本当ね。」
良子さんは頭上を眺めながらそんな事を言っている。
「カペラに願い事をすると、願いが叶うって言うけど、なにか願いたいことはある?」
市子さんが、にこやかに笑ってそう言うと、
「ええ、もちろん、足の痛みがとれて、立てるようになるってのが一番の願いだわ。あたしが、もう一回立てるようになるのはいつ頃かしら。」
と、良子さんは言った。
「そうよね。立てたら、何よりも幸せよね。当たり前のことができるって幸せなことだわよ。あたしも、容姿が良くないから、それが良くなることを、願っちゃおうかな?」
市子さんがふざけ半分でそう言うと、
「ええ。願いたいことは、まだまだ足りないわ。なんかそういうのも人間の業なのかしら?」
と良子さんが言った。
「まあそうかもね。業というか、人間であれば誰でも思うことでもあるわよ。」
市子さんはにこやかに笑った。
空は、美しい星空で、なんだかもしかしたら、良子さんが立てる日が来るのかもしれないと思わせるような星空だった。そういう風景は、もうこのような山奥へ来ないと見られないというところが問題なのかもしれないが、良子さんと市子さんは、二人でその希望が湧いてくるような星空を眺めていた。
「ほんとにきれい。人にはできない美しさね。」
良子さんがそう言うと、
「そうね。人にできることなんて、ほんとに僅かなことだって、以前言われたことがあるわ。でも、人が人を思う気持ちは、何にも変えられないって、言われたこともあった。あたしなんて力持ちであることだけが取り柄だけど、それをうまく使えたら、こんなに嬉しいことはないわ。今日はあたしのことを使ってくださってありがとうございました。」
市子さんは、良子さんに頭を下げた。
「だから、良子さんだって、あたしにとっては必要なのよ。あなたのお祖父様がそうだったようにね。」
稲子駅へ出かけよう。 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます