第501話 さえずる娘たち その三

 ペンルの立ち飲み屋というのは、移転前の冒険者ギルドがあった裏通りにある小さな立ち飲み屋で、昼下がりでも薄暗い店内では、ガラの悪い冒険者や人足がたむろしている。

 護衛が必要な身の上でこんな場所に来て大丈夫かなと思わなくもないが、エレンが行けと言うんだから、少なくとも黒竜会絡みのやばいやつは居ないんだろう。

 でも別の意味でやばいのはいそうだけど。

 そもそも、中流商人ぐらいのラフな格好にホロア連れという今日の俺は、ちょっと場違いだったかもしれんが、気にせずカウンターに腰掛けて一杯頼み、


「マスター、チョリちゃんはいるかい?」


 と尋ねると、浅黒いスカーフェイスのいかつい親父は俺をじろりと睨みつける。


「旦那みたいなお人が、なんのようですかい?」

「決まってるじゃないか、かわい子ちゃんをデートに誘いに来たのさ」

「お盛んなこって」


 そう言って奥に目配せすると、しばらくしてチョリちゃんがやってきた。

 鳥打ち帽を目深に被り、ギョロッと大きな目をくりくりさせている。

 ちょっと癖の強い顔だが、まあかわいいな。


「おやまあ、誰のご指名かと思ったら」


 そう言ってオーバーなジェスチャで驚いてみせてから隣に腰掛け、エールを一杯頼みながら、チョリちゃんはいぶかしそうな目で俺を見る。


「なんです旦那さん。あちきに御用って」

「なあに、エレンのいない合間に、デートに誘いに来たのさ」

「そりゃあいいや、ネエサンにはこき使われてばかりで、あちきもたまには美味しい思いをしたいと思ってたんでやんすよ」


 そう言って大きな目をすっと細める。

 鋭い目つきもかわいいな。


「ここじゃ、デートには野暮ってもんだ、奥にいきやしょうか」


 チョリに促されるままに席を立つと、目の前にでかいのが立ちふさがる。

 見上げると、ギアント並にでかい。

 こういうのはどこの街でも、いるところにはいるんだなあ。


「よう、おっさん。そのチビをご指名なら、そっちの美人は余るだろう。俺らに分けてくれや」


 理想的なチンピラ・ムーブだ。

 となると俺にも絵に描いたようなイケメン主人公ムーブが要求されるに違いあるまい。


「やめときな、彼女はお前さんにゃ、荷が重い」


 ニヒルに言い放つと、デカチンピラはたちまち切れて俺の襟元を掴み上げる。

 どうしてこういう連中は沸点が低いんだ、もうちょっとハードボイルドな会話のキャッチボールを楽しんでから切れてもいいじゃないか。

 だが俺も、この程度のチンピラ相手に対抗する手段を持たないわけではない。


「やめろといっただろうに」


 そう言って胸ポケットをぽんと叩くと、中から小さい虫のようなものが這い出してくる。

 小型ガーディアンのクロミちゃんだ。

 クロックロンを手のひらサイズにしたようなクロミちゃんは、のそのそと襟元まで歩くと、細い脚をチンピラの太い指にぶすりと指す。

 次の瞬間、ぎゃあっ、とうめいてひっくり返ってしまった。

 その衝撃が強すぎて、俺まで転びそうになったのは内緒だ。

 それを見た周りの連中もたちまちいきりたつ。


「てめえ、何しやがった」

「かまわねえ、ぶっ飛ばしちまぇ」


 飛びかかってきたノッポのチンピラに、キンザリスが華麗に回し蹴りを決める。

 あとはまあ例のごとく周りを巻き込んで、たちまち乱闘が始まった。

 乱闘になると俺みたいなのは非常に弱いんだけど、そこはキンザリスがちぎっては投げちぎっては投げと、天下無双の大活躍で思わず見とれてしまうほどだった。

 程々のところでスキをみて店から抜け出すが、キンザリスは傷一つ付いてなかった。


「どうもご主人様は絡まれやすのではありません?」

「日頃の行いは、いいつもりなんだけどなあ。やはり隠しても隠しきれない、俺のイケメンオーラがチンピラの癪に障るとみたね」

「自己評価は当てになりませんからね。それはそれとして……」


 そういって俺に腕を絡めながら、


「身を挺して殿方に守っていただくのは、トキメクものですわ」


 などと言って微笑む。

 危険を犯して、カッコつけたかいがあったといえよう。

 トータルでは断然俺のほうが守ってもらったけど。


「ちょいと旦那さん、いちゃつくのも結構ですけど、何ぞ用事がお有りだったんじゃ、ございませんかね?」


 いつの間にか後ろにいたネズミっ子のチョリちゃん。

 こちらも乱闘に巻き込まれていた気配をみじんも感じさせない。

 ちなみに俺は袖を引っ張られてちょっと破れている。


「おっと、そうだった。時間がないので、歩きながら話すか」


 とりあえず方針が立たないので我が家に向かいながら説明する。


「ははぁ、そりゃまた面倒なこって。旦那はいつもそんな面倒なヤマをアネサンに押し付けてるんでやんすか?」

「いつもってことはないが、たまにってことはあるかもしれん」

「ふーん、あの横着者の赤猫ネエサンがねえ、まあよござんす。頼まれたからには、なんとかいたしやしょう」

「助かるよ」


 うちに帰ると、珍しくオービクロンが出迎える。

 ブラウンの色っぽい髪を結い上げ、未来っぽいタイトなスーツをビシッと決めている。


「細かい背後関係はまだですが、情報は揃っております。奥で説明しましょう」


 案内された地下の司令室は、以前よりシンプルになっており、フロントに巨大なスクリーンがある他は、シートが四列ほど並べられているだけだった。

 司令室というよりは、捜査本部や軍隊のブリーフィングルームといった方がイメージが近い。


「では、先にこちらで確認している状況をご説明しましょう」


 どこからともなく取り出したメガネをかけて、同じくどこからともなく取り出した指示棒で正面に置かれた教卓っぽいテーブルをピシャリと叩く。

 やばい、ちょっとゾクゾク来るな。

 俺のツボを抑えた名演技だといえよう。


「事の起こりは昨夜未明。職人通りの金工師サッジ宅に賊が忍び込み、ボールズ家家宝の槍を盗んだことに始まります。盗んだのはゲスク家の嫡男シボン。実際には彼に依頼を受けた盗賊が忍び込み、そのままアルサにあるゲスク家の別宅に保管されています。こちらが現在の様子ですが、厳重な結界に囲まれてるようですね」


 説明と同時に、一連の様子が次々と映像で映し出される。

 盗人が忍び込む様子や、保管されてるところまでバッチリだ。


「ひゅーっ、紳士様が古代文明のすごい力を使うって噂はありやしたが、これがそうなんですかい? まいりやしたね、こりゃあ。盗賊なんておまんまの食いっぱぐれでやんすねえ」


 そこでオービクロンはにやりと笑い、


「残念ながら、これだけでは盗賊の代わりにはならないでしょう。あなたにご依頼したいのは、件のゲスク家の動機、さらに槍の奪還です」

「動機の説明はともかく、槍を盗み返すだけなら、そっちでやったほうが早いんじゃねえですかい? これだけ調べられるんなら楽勝でやんしょ」

「簡単かどうかはお答えしかねますが、盗賊ギルドを立てたと考えていただければ、よろしいかと」

「ふーん、リミットは?」

「今夜八時、ボールズ家のパーティに間に合わせます」

「ひゅー、そりゃ無茶だ。明るいうちから盗みなんて」

「難しいですか?」

「難しいねえ。難しいからこそ、あちきの出番でやんしょう」


 そういってニヤリと笑う。


「では、よろしくお願いします」


 依頼が決まったところで、ついでに犯行のバックボーンに関する情報なども提供してもらう。


「ゲスク家のシボンゆうたら、この街じゃ割と有名なワルやね。二年ほど前から都に仕官して最近は大人しゅうしてたと思うんやけど、帰ってたのかなあ?」


 チョリの解説にオービクロンがフォローを入れる。


「いえ、どうも仮病を使って一時的にこちらに戻っていたようです」

「ふうん、じゃあ、今度のヤマのために戻ったんやろね。それでボールズ家当主ラジカジゆうたら、こちらは逆に公明正大、規律が服を来たような御仁だと評判やね。都で目付の役についてたはずだけど、こちらも半年ほど前に病気療養を理由に職を辞してるよ」

「なるほど、ではラジカジ氏を貶めようと画策した線が濃厚ですね」

「だろうねえ」


 あら、盗まれたほうはクソ貴族だと思ってたのに違ったのかな?

 いやでもほら、普段真面目なやつほど変態だったりするじゃん。


「では、細かい打ち合わせに入りましょう。現地の詳細な地図、および結界を無効化する装置などはこちらでご用意いたします。他に必要な物があれば遠慮なくお申し付けください」

「ひゅう、太っ腹な依頼でやんすね、こいつは失敗できないや」


 そう言って打ち合わせに入ってしまった。

 俺は手持ち無沙汰なんだけどどうしようか悩んでいたら、不意にオービクロンが顔を上げて、


「御主人様はボールズ家に出向いて時間を稼いでください。春のさえずり団の演奏で話題を集め引き伸ばす作戦などが有効です。また試練の様子をお得意の演説でもったいぶって客に話して聞かせるのもよいかと」

「ふむ、まあやってみよう。そっちは任せたぞ。チョリちゃんもよろしくな」


 と声をかけると、鳥打ち帽をひょいと脱いで、


「がってんだ」


 うむ、頼もしい。

 まあ失敗したら、クロックロンでも大量にぶち込んで強引にうばっちまおう。

 などと雑な決意を胸に秘めて上に戻ると、ローンが妹のエンシュームと一緒に戻ってきたところだった。

 俺に気づいたローンが、悪そうな笑みを浮かべる。


「御主人様、ちょうどよいところに。今夜パーティがあるので、私どものエスコートをお願いしたいのですが」

「今夜か、ちょっと野暮用があってだな」

「大丈夫ですよ、目的地は一緒なので」

「え、そうなの?」

「詳細はまだ聞いていませんが、あなたの用事もボールズ家でしょう。本来キッツ家とは立場的に友好的とは言えないのですが、当主のラジカジ卿は叔父の元同僚でして、その伝手ですこし妹の顔を広げておこうかと」

「ははあ、まあよくわからんけど、そういうことならいいかな。ところでつかぬことを聞くんだけど」

「なんです?」

「そのボーなんとか家って、いい人なの?」

「ボールズ家です。いい人かと言われても、子供ではないのですから、簡単に白黒つけられるものではありませんが、当主のラジカジ卿は、一般論としては堅物と言っていいぐらい厳格な人物、個人的な感想としては、見かけによらず人情家、といったところですね。それがなにか?」

「いや、じゃあ、息子は? 息子がいるんだろう」

「いらっしゃいますよ。クライグ殿ですね。私とたしか同年で、豪放かつ愛妻家で知られる、金獅子の中堅騎士の一人です。彼も尊敬に値する人物だと思いますよ」

「まじで、おかしいなあ。次男とか三男に、若い娘を囲い者にするような不埒な男はいないのか?」

「あなたじゃあるまいし、ラジカジ卿に男子は一人だけであったかと。庶子であれば知られていない子もいるかも知れませんが」

「うーん」

「他に子といえば、娘が三人。うち二人はすでに他家に嫁いでおりますが、三女が病弱でもう長くないとか。その娘のために職を辞して家にこもっているそうです」

「いい父ちゃんじゃねえか」

「まあ、政治家として私情を優先するのは難しいところですが、世間の評判は良いですね。それで、なんなんです? かの御仁になにかスキャンダルでも?」

「いや、それがね……」


 と事の次第を説明すると、


「例の楽団を無理矢理囲い者に? ちょっと考えづらいですね。たとえそんな道楽息子が居たとしても、ラジカジ卿が知れば許さぬでしょう」

「うーん、なにか行き違いがあったのかな。とりあえず、さえずり団の面々のところにも顔を出さないと」

「それよりも槍の紛失は一大事ではありませんか。今日はプライベートながらも大物が集まるパーティです。そこで露見すれば隠しきれませんから、最悪の場合、家門断絶となってもおかしくはありません」

「まあ、そっちは一応、手を打ってあるんだけど」

「エレンを遠方に派遣したのは失敗でしたね」

「あいつ他所の国までなにしに行ってるんだ?」

「黒竜会が紳士を狙っているという情報は、数日前につかんではいたのですが、その裏付けのために、騎士団とは別口で動いてもらっていたのです」

「まじかよ、大丈夫か?」

「エレン、コルス、紅の三人ならまず大丈夫でしょう。それに助っ人も居ますし」

「助っ人?」

「潜入捜査などに特化したガーディアンです」

「へえ、かっちょいいな。まあいいや、とにかくそんな感じなんで」

「では、フューエルの屋敷で落ち合いましょう。あなたの支度も必要ですし。そのヨレヨレの格好では散歩もできないでしょう」

「最近モテ過ぎてすぐもみくちゃにされるんだ。じゃあ、そう言う感じで進めるか。エンシュームもそんなわけだから、楽しくパーティとはいかんが……」


 というと、エンシュームは頬を紅潮させて力強くうなずく。


「お任せください、必ずや御主人様の一助となりましょう」


 うーん、頼もしい。

 なんかしでかしそうだけど、まあいいや。




 サーシアちゃんの自宅では、先程までの興奮は収まっていたが、逆に悲壮感が漂っていた。

 俺の姿を認めると、まずペルンジャが駆け寄ってくる。


「御主人様、どうなりました?」

「槍の所在はわかったんだけど、取り戻すのは一筋縄じゃいかんかな。すでに手は打ってあるから、俺はこれからパーティに出向いて時間を稼ぐ。ヘルメちゃん達も演奏で時間を稼いでくれると助かるんだが」


 それを聞いたリーダーのヘルメは、


「やります! それでサーシアが助かるなら! 二人もいいよね?」

「うん!」

「もちろん!」


 などと健気である。


「では、私も参加させてください」


 ペルンジャも健気なことを言う。

 さすがは俺の従者だなあ。

 従者であるペルンジャと同じぐらい健気な残り三人も、やはり俺の従者になるべきじゃないだろうか。

 などと俺が健気なことを考えてる間に話はまとまったようだ。

 支度を終えると一旦フューエルの屋敷でローンと合流し、みんなで例の屋敷に向かう。

 あとは向こうで行き当たりばったりに時間を稼いで、槍を取り戻すのを待つ。

 うむ、これ以上ないぐらい雑な作戦だが、まあ俺のやることだし、こんなもんだろう。

 ボトルネックというか未知数なのがねずみっ子のチョリちゃんの能力だよな。

 エレンが薦めるんだから大丈夫だと思いたいが。


「ところで、例の囲い者にって話、相手はお坊ちゃんてことだけど、どんな男なんだ?」


 どうも辻褄が合わん気がしたので、改めてリーダーのヘルメに確認してみる。


「いえ、どんな方かは知らなくて。ラッグというお子さんのために、彼の部屋でプライベートに演奏しろって」

「ふぬ」

「そういう誘いって、つまり、そういうことだから、その気がないなら気をつけろって、エッシャルバン先生からも釘を差されてたものですから、怖くなって」

「ははあ」


 たしかに男みたいな名前ではあるけど、もしかしてそれが例の病気の娘なんじゃないか?

 と思ったら、例のごとくARメガネの片隅に、ボールズ家三女ラッグ、と情報が出た。

 よしんば同性愛者だったとしても、死にかけの病気で手籠にはしないだろう。

 つまりアイドルに枕を共用するクソ貴族は居なかったんだ、よかったよかった。

 安心したところで、ちょっとやる気が出てきたぞ。

 多分今回の事件のゴールはさえずり団のナンパと見せかけて、その病弱少女を手籠めにする事だとみたね。

 頑張ろう。




 ボールズ家は、貴族屋敷の立ち並ぶ高台の東側、以前バレンタインの劇をやった広場に面したこじんまりとした屋敷だった。

 こじんまりと言っても、日本人の感覚だと十分豪邸だが、先日の騎士団詰め所の屋敷などに比べると半分もない。

 それでも、主人夫婦の暮らすスペースの他に客室も十分にあり、パーティをやるホールや小さな中庭も備わっている。


 四頭立ての立派な馬車で乗り付け、エンシュームとローンの二人を両手に抱える感じでふんぞり返って堂々と表からはいる。

 着飾った四人の演奏家の面々もそれに続く。

 パーティはまだ始まっておらず、控室にはこの街の有力者が集まりはじめており、俺も何人か見覚えがある相手に挨拶しておいた。

 俺もすっかり貴族っぽいな。

 しばらく談笑していると、執事がやってきて、当主が俺に挨拶したいと告げる。

 ちなみに執事はさっきおいおい泣いてた男だった。

 ローンだけを伴い面会すると、相手は開口一番、俺の手を取る。


「おお、これは紳士殿、ご無沙汰です。この度は当家のかかえる問題にご尽力いただいたと聞き、誠に感謝に耐えません」


 あれ、面識あったっけ?

 言われてみると、見たことあるような顔だな。

 と思っていたら、またARメガネに情報が出た。

 当主ラジカジ、どこそこのパーティでフューエルの紹介で挨拶をした、リンツの友人、などと書かれている。

 これってさあ、スポックロンあたりが常時俺の会話なんかをモニターして情報を差し込んできてるんだよな。

 そういうのってどうかと思うんだけど。

 いや実際、たすかってはいるんだけど。


「いえ、元より義父の友人たるあなたのことです。何をおいても手助けするのは当然でしょう」


 とまあこんなふうに調子のいいことも言えるのだ。

 隣でローンが胡散臭い視線を投げかけている気もするが、俺の鋼の心はくじけないのだ。


「それで、状況はどうなっているのでしょう。いかに紳士殿といえども、この短時間では……」

「盗んだ相手はわかっております。ゲスク家のシボンという若者ですが、心当たりは?」

「シボン? ああ、財務官僚の……そうですか、彼が」


 眉間をつまむように指を押し当ててしばし悩む当主のラジカジ。


「彼はいささか、その、不正に関わっておったようで、実家も小さくはありませんので、やんわりとたしなめておいたのですが、どうやら目付であった私が居なくなればとでも考えたのでしょう」

「浅はかな話だ」

「たしかに。たとえ私が失脚しても、彼の不正が許されるわけではないというのに。ですが、私にとって致命的なのは確かなようです」

「なに、先方が非合法な手段に出るのであれば、こちらも手段を選ぶ必要はないでしょう。厳格なあなたにはそぐわぬかも知れませんが、ここはひとつ、ご勘弁願いたい」

「何を仰る。政治であれ信仰であれ、綺麗事だけでは通らぬのが世の道理。それで正義が貫けるのであれば清濁併せ呑むのも度量と言えましょう。しかし、それでもままならぬこともあるようで……」

「お嬢さんのことですね」

「ご存知でしたか」

「噂程度ですが」

「もとより、娘可愛さに大切なお勤めを放り出すような男です。このような仕儀にあいなったのも、いたしかたないのやも」

「まだ諦めるには早いですよ」

「そうでしょうか。むしろ今度の事件で、すべてを諦めて楽になれと、女神に告げられたような気がしたほどです……、まことにもって、ままならぬ……」


 気の毒すぎる。

 ちょっと話題を変えよう。


「ところで、お嬢さんはなぜ春のさえずり団を?」

「例の楽団のことですな。実は先の移動劇、なんでしたかな……、バレ、とかいう」

「ああ、バレンタイン」

「そう、その演劇を、ちょうど窓から見ていたそうで。日ごろ家から出ることもままならぬ娘にとって、素晴らしい体験だったのでしょう。とくにその音楽が気に入ったとかで、調べさせたところ、そのお嬢さんがたが演奏していたとか。どうにかつてをたどって依頼したのですが、これもなかなか」

「大丈夫、今日は彼女たちも一緒に来ております。お嬢さんの体調に問題がなければ、さっそく演奏してみましょう」

「まことですか、それだけでも救われる思いです。さっそく準備させましょう。そうだ、紳士様もぜひあってやってください。あれはあなたのご活躍にも興味津々で、新聞の切り抜きなども集めさせておったのですよ」


 などといって嬉しそうに笑う。


「それでは、お願いしてよろしいでしょうか。その、娘は長い闘病で容姿がやつれておりますので」


 若い娘がそれでは、親としてもつらかろう。

 俺は何も言わずに黙ってうなずくしかなかった。

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