第365話 女神の庭 前編
白いモヤの中。
いつもの夢だな。
今夜は見たいと思っていたので、ちゃんと見られた俺を褒めてやろう。
そんな事を思いながら、足を一歩前に出す。
重い。
雪に取られた足が、鉛のように重く、一歩進むだけで何分もかかる。
目の前の真っ白いものはモヤではなく吹雪だ。
あれはいつのことだっけ、確か学生時代、山岳部の友人と雪中キャンプに行ったときのことだ。
標高千メートルもない低山で油断していたらすごい吹雪に直面して、大変なことになったんだった。
まあ、いっつも大変なことになってたけど。
あのときも、前を歩く友人の背中も見えないレベルでホワイト・アウトして、今みたいにピンチの真っ最中というわけだ。
吹き付ける雪に耐えながら、足を引き抜き、前にある足跡を半分削るように踏み抜く。
そして少し休む。
(あと少しですよ、死にたくなければ急がず止まらず、確実に進みなさい)
聞き慣れた友人の声が、脳に響く。
この吹雪で、よく聞こえるもんだ。
それにしても、眠い。
そろそろ目が覚めてもいいんじゃなかろうか。
女神も面倒なことを押し付けるもんだ。
ああ、荷物が重い。
肩が千切れそうだ。
置いていきたい気持ちが湧き起こるが、これは俺の命より大事なもんだ、そういうわけにはいかない。
(だったら、無駄なことを考えず、先に進みなさい。あと少しですから)
あと少しって、いつもそればっかりだよな。
まったく君ってやつは、昔から……。
ぐっしょりと汗に濡れて布団から飛び起きると、周りではいかがわしい格好の女性陣がゴロゴロと寝ていた。
嫌な夢を見るわけだ。
小屋から出ると、空は少し白んでいるが、足元はまだ暗い。
「おはよう、ハニー。いい夢見られた?」
一緒に寝ていたはずのエディは、一足先に起きていたようだ。
顔を洗ってさっぱりした表情で待ち構えていた。
「まあね、美女にもみくちゃにされて雪山で遭難する夢さ」
「あら、吉夢じゃない?」
「ダーリン、君は見たのかい?」
「ええ、なんかこう、光ってるのが案内してくれるような、あの山小屋のおじいさんと似たような夢ね」
「つまり、女神に選ばれたってわけか。俺の夢は、そんな感じじゃなかったけどなあ」
「そうなの? でもハニーが選ばれないってことがあるのかしら?」
「俺としては何からも選ばれずに怠惰に過ごしたい気持ちでいっぱいだが、まあなんか雪山を歩いてる夢は見たので、概ねそうなんじゃないのかなあ?」
「まあいいわ。他のみんなはどうかしら?」
起きてくるのを待って尋ねてみたが、それっぽい夢を見たものは他にはいなかった。
フューエルは夢の中で俺が無限に焼き続けるケーキを食べすぎて胸焼けがすると言うし、カリスミュウルも、
「貴様がどこぞの人妻に手を出して、大事なところを切り落とされたと泣きついてくる夢を見たな。これも吉夢ではないか?」
「人を夢に出すなら、もうちょっと本人の権利を尊重したほうがいいと思うぞ」
「それは夢の中の自分に言うのだな」
などと言うし、ローンに至っては、
「あなたが屋根の上に登って、空を飛んでみせると言って、こうぴゅーっと真っ逆さまに落ちていったところで目が覚めましたね」
「お前たちは一体、俺のことをどう思ってるんだ?」
「それを聞きたいのはこちらですね。人の夢に出てきて、余計な気を使わせないでもらいたいものです」
まあなんだ、みんな俺の夢ばっかり見てるんだなあ、という結論に至ったところで、該当者は俺とエディだけのようだ。
正直なところ、不甲斐ない俺の護衛を考えるなら、あと二、三人は腕の立つメンツが欲しいところだが、選ばれてない人間を連れて行っても都合が悪いかもしれない。
それに雪山が主体だと考えれば、二人ぐらいのほうが小回りがきいていいという見方もある。
意気込んでいた魔族騎士のラッチルは残念がっていたし、神霊術師として自分の神と出会えるかもしれないと期待していたらしいエームシャーラも、ちょっとがっかりしていたようだ。
同じ神霊術師でもテナなどは年齢分の貫禄があるのか、あまり気にしていない。
「女神とまみえる時が来れば、自ずとそうなるものです。それよりも主人としてしっかりとエンディミュウム様を守るのですよ」
「守られるのは、得意なんだけどな」
「ご主人さまに武勇のそれは期待しておりません。あなたはあなたにしかできぬことをなされば、それでいいのです」
軽めの朝食を取り、再度、装備の確認をする。
最長三泊四日の想定で、必要な食料と野営のためのツェルトと寝袋。
この寝袋がとても高性能でこれぐらいの寒さなら雪の上でも眠ることができる。
さらに非常食が追加で二日分。
水は行動用に水筒に入れた分を除くと現地調達、つまり雪を溶かして水を作る予定だ。
その代わり、燃料を多めに持っている。
あとは各種雪山装備だが、クライミング系の装備はやめておいた。
俺とエディだけではリスクが高いので、氷壁などで進めなくなったら戻ることにしている。
無論、ロープぐらいは持っていくんだけど。
魔物か何かもいるらしいので、エディは武装を中心に荷物を構成している。
そのため、荷物は俺のほうが若干重い。
それでも高性能ハイテク装備のおかげで四十リットルのザックにみっちり詰めても十キロ程なので、雪山装備としては軽いほうだと言える。
確認を終えたら、出発だ。
夢の内容は曖昧だったが、昨日と違って、今日は明確になにかの気配を感じる。
遠くに離れた従者の気配を感じるのと同じようなやつだ。
確信を持ってそちらに向かうと、やがて大きな岩の亀裂に突き当たる。
スポックロンによると、
「なるほど、今、クロックロンたちの調査ログを確認してみましたが、この一帯のデータに異常が見受けられます。ごく僅かですが、場所を限定して調べ直すと、改竄された痕跡がありました。一種の遮蔽装置のようなものでしょうが、我々の技術よりも、数段上のもののようです」
「つまり、女神様のお力というわけか」
「検証できないものに言及するのは避けたいところですが、ひとまずはそう言ってもいいでしょう。その力が、お二人に良いように働くよう、期待するとしましょう」
皆に見送られ、俺とエディは岩の亀裂に分け入った。
多少足元はおぼつかないが、それほど難しい道ではない。
慎重に進むと、やがて盆地に出た。
周りは高い木々に覆われて、見通しが悪い。
地図によると、一キロほど進めば平原に出る。
そこから森と平原の境界に沿ってしばらく進み、途中で平原を横断して反対側の山裾まで行く予定だ。
もっとも、この女神の庭と呼ばれる盆地の、どこがゴールなのかわからないので、明確にルートが決まっているわけではないんだけど。
ザックに固定したスノーシューを取り外して靴に取り付けていると、エディが周りを見渡しながらこう言った。
「ふうん、ここが女神の庭なのね。結界のせいか、少し体がだるいわねえ」
「そんなもんか? 俺はよくわからんが」
「ハニーは魔法がからっきしじゃない、逆に私はいつでも魔力が体を巡ってるから、そういう点で、ちょっと不安ね。少しいいかしら。どれぐらい、力が落ちてるか試しとかないとね」
と言って、剣を抜く。
巨大な剣を軽々と振り回し、剣の型を使う。
セスみたいな侍の型とはだいぶ違うが、騎士の使う剣の型は、カンフーアクションみたいに激しく全身を使ったもので結構見ごたえがある。
その間に、俺も装備の点検を再度しておいた。
俺の武器は、小ぶりの剣と、この日のためにスポックロンに特注しといた火薬式の銃だ。
「うーん、だいぶ重いけど、熊なんかと戦うぐらいなら、どうにかなるかしら。相手も魔法は使えないだろうし」
「いざとなったら、逃げりゃいいさ。別に退治しに来たわけじゃないし」
「それもそうね。そう思って弓とかも持ってきたのよね」
「それよりも、汗をかかないように気をつけろよ。その肌着ならちょっとぐらいは大丈夫だけど」
「そうだったわ、いつもなら魔法で体温上げながら雪道を歩くんだけど、今日はそういうわけにはいかないものね。それにしてもこの服、すごいわねえ」
と言って体を伸ばしたりして服の感触を見る。
「さ、準備はいいわ。行きましょ、久しぶりの二人でデートだし」
そう言って楽しげに笑うエディとともに、俺達は出発したのだった。
足に装着したスノーシューの感触に慣れてきた頃に、森を抜けて雪原に出た。
思った以上に起伏のあるまっ白い大地の向こうに、まっ黒い山がそびえている。
「たいした威容ね、御神体って感じあるんじゃない?」
山を見つめるエディは、そんな事を言うが、たしかに立派なもんだ。
心のなかで拝みつつ、俺達は雪原を進む。
「このスノーシューってのも歩きやすいわねえ、靴とフィットして、負担も少ないし。戦闘だと足を取られそうだけど、こうした装備一式を、将来的には冬山に入る部隊だけでも装備したいわ」
「これがすんだら隠居するんだろう、古巣にちょっかい出し続けるのもどうかと思うぞ」
「組織ってのは隠居してからのほうが、手は動かさずに口だけ出し放題で美味しいものでしょう」
「現役が気の毒だからやめてやれ」
「ハニーはお人好しねえ」
日差しが出てきたのでサングラスを付ける。
サングラス越しの視界は久しぶりだな。
「これってちょっと視界が狭くて不便じゃない?」
というエディに、
「それがないと雪目になるぞ」
「目が痛くなるやつ? それなら勝手に回復……はしないんだったわね。思った以上に自分の体が魔法に依存していることを思い知らされるわ。ちょっと息も上がってきたし」
と言って額を拭う。
「ペースが早いんだろう。もう少しゆっくり行こう」
「ここでは、ハニーの言葉に従ったほうが良さそうね」
「俺を頼れる機会なんてめったに無いぞ、堪能しとけ」
「そうしましょ」
小休憩を挟みながら、雪原を進む。
シャミ特製の完全アナログ腕時計によると、時刻は十時。
ここから雪原を渡るコースに入るのだが、一度大きな休憩を挟んだほうがいいかな。
手頃な木の陰に荷物をおろし、休憩する。
ポットにお湯があるので、ここでは火を起こさない。
お湯を沸かすと楽しいんだけど、ハイキングじゃないので、今日は堅実に行くのだ。
チタンより更に軽くて薄い不思議金属製真空マグに、粉末にした茶葉と砂糖を突っ込んでお湯を注ぐ。
粉ごと飲むとゴミも出ないので楽なんだよな。
それと一緒に、ビスケットをかじる。
こいつは家を出る時にエメオとパロンが作ってくれた自家製だ。
チョコチップが混ぜ込んであって甘くてうまい。
お茶や風景、それに会話を楽しみつつ、三十分ほど休憩して、再び出発する。
地図はコンパスがないので目視と太陽の位置だけが頼りだ。
雪でも降ったら道に迷うことになるよなあ、と空を見上げると、空模様が怪しくなってきた。
スポックロンの天気予報だとあと二日はもつと言っていたが、山の天気はいい加減なもんだ。
特に午後になると急に崩れることが多いので、昼までに雪原を渡りきりたい。
幸い、ここまでのペースから換算すると、遅くとも一時には雪原の反対側に抜けているだろう。
天気が不安ならそこで初日のキャンプを張る。
翌日一日かけて山への入り口みたいなものをさがして、見つからなければ三日目に折り返す。
あとはトラブルが起きないように祈るだけだが、そういう事を言ってると、良くないことが起きるもんだ。
つまり早速俺たちはトラブルに遭遇していた。
「ハニー、私の後ろからはみ出さないように、後ろを警戒しつつゆっくり後退して」
剣を構えるエディの前には、牙を向いた凶暴な狼……っぽい何かが一匹。
体はイノシシのようにでかく、牛みたいな立派な角もついている。
俺は言われるままにゆっくりと、かつ警戒しながら後ろに下がる。
といっても、ここは雪原の小高い丘のど真ん中で、周りは非常に見晴らしがいい。
にもかかわらずこんなところで襲ってきた理由はなんだろう。
「他にも仲間がいると思うか?」
俺も剣を構えたままそう尋ねると、エディは敵を見据えたまま、
「あっちが風上なのよね、ってことは、他の仲間が後ろにいる可能性もあるんだけど。かと言って横に逃げて側面を襲われたらちょっと厳しいわね」
「だよなあ」
そもそも、どっちが風上だろうがフルンじゃないので匂いで敵の位置なんてわからないんだけど、獣はそうでもないんだろう。
伏兵の匂いを感じさせないように、風上から追い立てるのかもしれない。
そう考えると、剣を握る手に汗がにじむ。
腰ベルトに機械式の銃も身につけているが、短針銃のように照準の補正が効かないので当てる自信がない。
当てるなら、二、三メートルが限度だ。
かと言って至近距離まで近づかれたら、一瞬で喉元をかききられるだろう。
もしかしなくても、やばいんじゃなかろうか。
その時、視界の外でガサっと雪の動く音がする。
あわててそちらをむこうとしたところ、足を滑らせてバランスを崩す。
次の瞬間、反対の地面から雪柱が立ち、巨大な狼が飛びかかってきた。
だが、俺もそろそろ素人じゃない。
余裕を持って体勢を立て直して腰を落とし、飛びかかった狼の前足に斬りつける。
ざっと鈍い音がして鮮血が走る。
と同時に、俺も左肩に鋭い痛みを感じた。
すり抜けざまに狼が俺の肩に爪を立てたようだ。
それでも古代文明のご利益か、シェルの生地には傷一つついていない。
衝撃を殺しきれずに、打撃を受けただけだった。
この装備がないと死んでたな。
「ハニー、大丈夫!?」
警戒を緩めないまま、エディが話しかける。
「大丈夫だ、そっちは?」
「スキがないわね、それにあっちの間合いだわ。弓に持ち替える余裕もないぐらい」
「よし、あっちから仕留める」
そう言って、銃を取り出す。
俺を襲った狼は、前足に傷を負って距離をおいたまま、こちらを威嚇している。
今なら弾が当たる可能性が高い。
銃を構えて、距離を詰める。
これでもたっぷり練習したので、当たる範囲は体が覚えている。
的が動かなければだけど。
動くなよ、弾が外れるから。
だが、俺の動きを警戒したのか、狼もジリジリと後退し始めた。
あまり追いかけると、別の伏兵がいるかも知れない。
もう撃ってしまいたくなるが、初弾を外すと余計に警戒される。
獣ってのは思ってる以上に賢いものだという。
ここは深追いせずに、エディのもとまで戻る。
「だめだな、相手は警戒してる」
「でも手傷は追わせたんでしょう、これで引いてくれるといいんだけど」
「どうかな?」
「それにしても、魔法が効かないのがこんなに不便だとは思わなかったわ。それに場所も悪いわね。どっちに行っても、すぐに追いつかれそう」
「となると、倒すしかないか」
「そうみたいね。ハニーは後ろのやつをその銃で威嚇しといて。私は前進して距離を詰めるから、少し遅れてついてきて頂戴」
「わかった」
言われた通りに行動するのだが、いかんせん俺とエディでは力量差が有りすぎて、パートナーとして戦うのは無理がある。
だから足を引っ張らないようにフォローするしかないのだ。
エディも銃を使ったほうが良かったのではと、出発前には思ってたんだけど、彼女が実際に試した結果、
「殺傷力の点ではちょっと弱いわね。弓より当てるのが難しいし」
などと言っていた。
もっと時間をかけて練習する、あるいは機関銃並の重火器なら違ったのかも知れないが。
あと、銃弾って人間でも数発食らったぐらいじゃすぐには死なないらしいんだよな。
フィクションの銃表現に騙されすぎてるのかも知れない。
それでも、至近距離から腹めがけてぶち込んでやれば、大きなダメージにはなるだろう。
俺が押さえている方の狼は、俺の持っている銃の威力は知らないだろうが、野生の勘か何かで、とにかく俺を警戒している。
だったらこのまま距離をキープできるだけでもいい。
もう一匹をエディが仕留めればそれだけで形勢逆転となるだろう。
目の前の敵を警戒しつつ、未知の敵にも警戒しつつ、エディとの距離を維持する。
正直、難しい。
もっと普段から戦闘のトレーニングをしとくんだった。
最近、すっかり戦闘組のラインナップが豪華になりすぎて、俺の出る幕がなかったからな。
そうやって無駄なことを考えている間も、意識はしっかりと敵の方に向いている。
狼が動いた。
どうやら狼達は後退を始めたようだ。
この場で戦い続けるのは不利だと理解したのだろう。
更ににらみ合うこと数分で、二匹の狼はさっと飛ぶように走り去った。
「ふう、助かったのか」
「そうみたいね、でも油断は禁物よ。それに……」
「うん?」
「ここで仕留めておいたほうが、後腐れなかったんだけど」
「追いかけてくるかな?」
「たぶんね、そして寝込みを襲うつもりかも」
「あの狼、メスだといいんだけど」
「一度ぐらい、オスに掘られてみてもいいんじゃないかしら?」
「そういうのはやだなあ」
軽口を叩きつつも警戒を解かぬまま、俺達は再び歩き始めた。
だが、さらに事態は悪化する。
吹雪いてきたのだ。
「まずいわね、ビバークしたくても、さっきの狼が気になって、こんなところじゃ無理でしょう」
「せめて向こうの森まで抜けよう」
「それがいいわね、急ぐわよ」
そう言って歩き始めた瞬間、白いものが体当りしてきた。
「ハニー!」
狼の体当たりを受けてゴロゴロと転がりながら、俺は必死に狼から距離を取ろうとするが、相手はすぐに飛びかかってきた。
その側面からエディが剣を突き立てる。
根本まで突き刺さった剣ごと、エディの体当たりで狼が吹っ飛ぶ。
「ハニー、だいじょ……」
エディが言い終わる前に、もう一匹の狼がエディの足に噛み付いた。
足をくわえたまま、エディの体を軽々と地面に叩きつける。
グギュっと嫌な音がして、一瞬、世界がとまったように感じる。
次の瞬間、俺は考えるより早く銃を取り出すと狼にとびかかり、その土手っ腹に押し当てて引き金を引きまくった。
吹雪はますますひどくなっている。
すぐ側には狼の死体が二つ転がっている。
右足の太ももを噛み砕かれたエディは、気を失ったままだ。
幸い、頭なども打っておらず、足も服のおかげで食いちぎられずにすんだものの、重症には違いない。
治療キットを取り出し、応急手当をすませる。
何本か注射をうち、骨が折れてうっ血のひどい傷に薬剤の塗られたシートを貼り付け、ガムテープのようなものでぐるぐる巻にする。
これでギプスの代わりになるそうだ。
こうした治療の仕方は習ったものの、診断ができないので、このままでいいのか判断がつかない。
せめて吹雪をしのぎたいが、この場所でビバークするなら縦穴を掘って上に覆いをかぶせて凌ぐことになる。
だが、ここはあまりに風が強い。
吹雪のど真ん中で設営に失敗すれば、体力が限界以上に失われて、凍死する。
それよりも三十分も歩けば前方の森にたどり着く。
そこまで行ったほうが、確実にしのぎやすいと思われる。
しかし、そこまで無事にたどり着けるかどうか。
判断ミスは命取りだ。
少しだけ考えた結果、森まで行くことにした。
理由はわからないが、何故か俺はそうするような気がしたからだ。
ザックを下ろし、寝袋を取り出してエディを押し込む。
今着ている服同様、丈夫なこの寝袋は雪の上を引きずっても平気なはずだ。
それにエディの体温も保持できる。
これをソリ代わりにして紐を結びつけて、引きずっていく。
豊満すぎるエディの体を背負って歩くほどの力はないが、これならどうにかなるだろう。
エディのザックはここにおいていく。
俺のザックがあれば二晩はしのげるし、無事だったら吹雪が止んでから回収すればいい。
それだけの支度を終えると、俺はエディを引きずり、進み始めた。
目の前が真っ白だ。
重い。
エディは筋肉質だからなあ。
ザックも重い。
呼吸が乱れるが、ゆっくりと一歩ずつ進む。
重い。
肩にかかった紐が体に食い込む。
だが、こいつを置いていくぐらいなら、ここでみにくい氷の彫像にでもなったほうがマシだな。
更に一歩進む。
いや、足が動いていない。
だめだ、これ以上進めそうにない。
判断を誤ったか?
今更ここでビバークする余力はない。
せめてこの呼吸も満足にできない吹雪が止んでくれれば。
目の前は真っ白で、足元には分厚い雪が積もる。
もう一歩進む。
今度は足が動いた。
だが、それまでだ。
目の前は一面の雪原で、次の足を踏み出す場所さえわからない。
これ以上はもう……。
(あと少しですよ、死にたくなければ急がず止まらず、確実に進みなさい)
声が聞こえる。
懐かしい、友人の声だ。
いつも一緒に山に登り、はしゃぎまわったあいつの……彼女の声がする。
(感傷に浸る暇があったら、歩きなさい、黒澤君。あなたこんなところで高野豆腐にでもなるつもりですか?)
そんなつもりはない。
だが、高野豆腐は大好きなんだ、家に帰ったらたべよう。
(そうよ、その調子です。それから家に帰ったら、ちゃんとこっちの私にお寿司をおごりなさい)
そうだったっけ、忘れてたな。
(ほら、あとちょっとですよ)
気がつけば目の前で誰かが俺の手を引いている。
いつもそうだった。
子供の頃、祭りに連れて行ってくれた彼女の手のぬくもりを、忘れたことはない。
いつからか彼女の手を離れ、俺は一人で歩いているつもりだったが、それでも、俺は……。
後のことは覚えていないが、俺はただひたすらに、歩を進めたのだった。
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