第256話 番外編 二人の美姫 前編
――キッツ家のエンシューム姫にとって、実家は退屈なところだった。
それは父の期待に応えようという義務感、そして姉が不在であることの寂寥感。
そうしたストレスから逃避するために心を閉ざし、社会に反発していた彼女にとって、まわりのすべてが退屈に見えていた。
だが、旅の空でのあのお方との出会いが彼女のすべてを変えた。
今や彼女の目に映る物は全てあのお方へと通じるバラ色の道であり、彼女の行動の全てはあのお方に捧げるために摘み取ったバラの花束であった。
そのために彼女は今日も、ひたすら修行に打ち込むのだった。
「姫さま、そろそろ夕食のお時間ですが」
侍女のハシューが呼びに来た。
もうそんな時間なのかと手を止めて、一つ上品に背伸びをする。
ここロドー村にあるキッツ家の別荘は、山裾に建てられた閑静な石組みの屋敷で、古くは堅牢な出城だったという。
無骨な作りが魔法の修行には持って来いだが、それでも貴族の若い娘が暮らすにはいささか質素すぎる。
彼女の私室も、小さな明かり取りの窓があるものの、外は深い森に包まれており日がささない。
昼間でもランプの灯りだけが頼りなのだ。
そのランプに照らされた、小さな花弁に目を留める。
バラのドライフラワーだ。
かつて、あのお方から頂いた大事なバラを、こうして今もそばに飾っている、エンシュームだった。
「今、参ります」
そう答えてハシューを下がらせると、姉から届いた手紙にもう一度目を落とす。
白象騎士団にまつわる噂、そしてその顛末。
彼女の耳にもその話は届いていたが、姉の手紙は噂とは異なる、真実を書き示したものだった。
そして、そのすべてがあのお方のご尽力によるものだとまとめられていた。
やはりあのお方は、素晴らしい人だ。
あのお方がそこにいるだけで、すべてが良いように収まるような、そんな風にさえ思えてしまう。
それを偉大なる紳士の徳だと言ってしまえば簡単だが、あのお方は、たとえどのような身分であっても、どのような境遇にあっても、すべてを良き方向へと導いてくださるだろう。
エンシュームにはそう思えるのだった。
石造りの狭い階段を降る。
小さなリビングには暖炉が灯る。
元々は兵士の詰め所だっただけあって、暖炉の他には小さな飾り棚があるだけだ。
申し訳程度に飾られたフルーツに手を付けるものもない。
今夜は、月も出ていないようだ。
窓の外は夜の帳が下り、すべての景観を塗りつぶしていた。
屋敷の堅苦しさは、別にルールだけから成り立つのではない。
家の作り一つとっても堅苦しいのだ。
彼女にとって、ここの屋敷は実家と同じ堅苦しさがあった。
食事の支度を待つ間、暖炉の前でしばしの時間を過ごしていると、御者の男がハシューに声をかけていた。
その話に聞き耳を立てると、どうやら旅の巡礼者が一夜の宿を求めているらしい。
盗み聞きという行為の浅ましさに少しだけ可笑しくなったが、それを顔に出すほどエンシュームは子供ではない。
「姫さま、巡礼のご婦人が……」
侍女のハシューがそう報告する。
「お一人ですか?」
「はい。アルサの精霊教会の身分証を持っておいでです」
「アルサの……」
先ほど読んだ手紙の地名だ。
何か現地の噂話でも聞けるかしら、でも、そんなはしたない真似をするのもどうかしら?
そんな考えが脳裏をよぎる。
結局、エンシュームは客人を受け入れることにした。
「この辺りでは、他に宿を求めるのも困難でしょう。お泊めして差し上げて。私もご挨拶いたしましょう。せっかくですから、お食事もご一緒に」
かしこまりましたと頭を下げてハシューは出て行った。
今頃、客人は奥で旅装を解いているだろう。
今日は久しぶりにワインを飲もうかしら?
お姉さまからの手紙のせいで興奮してしまって、今夜はもう修行に身が入りそうに無いですもの。
そんなことを考えていると、エンシュームはおもわず頬がゆるんでしまうのだった。
やがてハシューの案内で客人がやってくる。
細面だが、しっかりとした振る舞いは、育ちの良さも去ることながら、確かな修行に裏打ちされたものだと見て取れた。
剣か槍かはわからぬが、なまなかの腕前ではあるまい。
一流の剣士であるコンツに教えを受けたエンシュームは、そう思った。
「夜分の不躾な来訪にも関わらず、ありがとうございます。私、旅の巡礼でメリーともうします」
そう言って現れたのは、元白象騎士団団長、メリエシウムその人だった。
メリエシウムと名乗れば、エンシュームでなくとも彼女の正体に気づけたであろう。
だが、巡礼の彼女は教会の用意した巡礼者としての身分証しか持たず、そこには家名を省き通称であるメリーと言う名しか示されていなかった。
神の元では人間の決めた身分など意味が無いということなのだが、白象騎士団の過去にまつわる一件は、すでに国中の噂となっている。
心の平安を求める彼女の旅に、そんな肩書はむしろ邪魔であろう。
エンシュームは、そんな事情は無論知らぬ。
ただ、旅の者に一夜の宿を貸そうという、奉仕の心があるのみだ。
「巡礼の旅だとか。私はこの家の主、エンシュームと申します。ここは私が学問をやるための隠宅ですから、どうかお気楽にお過ごしください」
「ありがとうございます。森の中で道を失い、野宿もやむなしかと途方に暮れておりました所、こちらの灯りに惹かれて参りました。これも女神のお導きと、感謝いたします」
「さあ、奥にどうぞ。おもてなしと申しましても、ただ暖炉に焚べた薪の他にはありませんが」
「このような寒い夜には、それこそが何よりの馳走でありましょう」
穏やかで品のあるメリエシウムの立ち振舞を見て、エンシュームはひと目で彼女のことが気に入ってしまった。
都に山ほどいる貴族の子弟とも違い、かと言って田舎くさいわけでもない。
(なんでしょう……このような方、初めて見ました)
そう、エンシュームは思ったのだった。
ささやかな晩餐を終え、二人は温めたワインのグラスを手に、暖炉の前に腰掛ける。
「このような隠宅では旅人のもたらす世間の話題こそが何よりの慰めとなります。どうか、お聞かせ下さいませ」
エンシュームがねだると、
「では……」
そう言ってメリエシウムは語り出す。
「エレーネ山脈を右手に仰ぎ見ながら街道を北上すると、貧しい山村が点在する渓谷が続きます。そのうちの一つに泊まった時のこと、宿を借りた教会では、裏山の墓地にグールが出るという噂があり……」
メリエシウムの話には、エンシュームが聞きたかったアルサの噂は一つもなかった。
落胆しないではなかったが、そもそも巡礼に出るからには、それなりの決意があったのであろう。
それはもしかしたら、アルサでの辛い出来事かもしれない。
それにメリエシウムの話は、決して語りが上手であるとはいえないが、誠実で、それゆえにエンシュームの心を打った。
そうした気遣いができるようになったことこそが、エンシュームの最大の成長であるのだが、彼女にはまだその自覚はない。
メリエシウムもまた、初対面の人間を楽しませる社交性を、このわずかの間に身につけたのだとすれば、彼女の巡礼はすでに何らかの成果を上げていると言えよう。
「素敵な冒険ですわ。大切な巡礼を冒険などと言っては失礼かと思いますけれど……」
「いいえ、確かにこれは冒険なのだと思います。私は自分の見失ったものを求めて巡礼に出たのですが、その巡礼が冒険であるというのなら、あるいはそれこそが私の求めていたものなのかもしれません」
「冒険、確かに我々のような若者には、冒険こそが必要なのかもしれませんわね」
「私もそんな気がしてきました」
メリエシウムはそう言って笑う。
「エンシューム様、あなたも心の中に秘めた冒険をお持ちかとお見受けします。よろしければ、それをお聞かせいただけるでしょうか?」
「聞いてくださるかしら」
「ぜひ」
エンシュームは少し頬を染めてうつむきがちに、こうつぶやいた。
「私。実は……恋をしているのです」
「まあ、それはぜひ、お聞きしたいお話です」
恋と聞いて、メリエシウムは姉のように慕っていたクメトスのことを思い浮かべていた。
彼女の一途な恋は、たしかに実ったのだ。
その結果へと至る道が、どれほど危険で困難なものだったか。
それを思い返す度に、彼女の胸は我が事のように締め付けられるのだ。
「私の家は、どちらかと言えば成り上がりで、それでも小さいものでもありませんから、しがらみも多いものです。ですから、物心ついた時から貴族として成功することが、私の義務でした」
メリエシウムは話を聞きながら、目線を暖炉の上の家紋に移す。
ドーンボーンの新興貴族、キッツ家の紋章だ。
まだ貴族として社交界にデビューしていないエンシュームのことは知らなかったが、この若く有力な貴族に連なる姫君であることは明白だった。
「唯一心を許した姉は、私と違いとても優秀でしたが、庶子であったがゆえに家を出て、私の届かぬところに行ってしまいました」
「それはお寂しかったことでしょう。私にも姉とも慕う人がいたのですが、一度、とある事件でその人が死んでしまったと思い、足元のすべてが崩れ去ったような気がしたものです」
「まあ、そのようなことが?」
「はい。幸いなことに彼女は無事でした。今ではさる御仁のもとで、幸せに暮らしているはずです」
「そうでしたか。でも、結局、あなたの元からは去ってしまったのでしょう?」
「はい。それでも永遠の別れではありません。もし再び出会うことがあれば、彼女は私を前のように迎え入れてくれるでしょう」
「その方のことを、とても慕っているのですね」
「はい、そして信頼しているのです」
「信頼。美しい言葉ですわ。でも、とても儚い……」
「そうです。儚いからこそ、逆にすがりたくなる。人と人のつながりというものは、きっとそういうものなのでしょう」
「分かります。いいえ、私も以前は何もわからなかったのです。それをあのお方が教えてくれたのです」
「そのお方が、あなたの想い人なのですね」
「はい。とても素敵なお方。ですが今は……」
「手の届かぬところにおいでなのですね?」
「あのお方は、偉大な志をお持ちなのです」
「では、そのお方のために、あなたは修行を?」
「そうです。私が大切だと思っていた家も、名誉も、全ては意味のないもの。私を突き動かすのはただ一つ、あのお方への思いだったのです」
「ですが、恋心というものも、やはり儚く脆いもの。私も一度、憧れた殿方を持ったことがあるのですが、その思いはただの憧れだったのか、それとも恋であったのか、未だにわからないのです」
「それはきっと、見返りを求めていらっしゃるのでは?」
「見返り?」
「そう、ホロアや古代種の従者は、ただひたすらに自分の愛情を主人に注ぐもの。一方我々アーシアルの民の愛は、相手を求め、奪うもの。そういうものだと聞いております」
「たしかに……好いた相手の心が自分のものではないかもしれないという思いは、とても心を不安にします。常にそばに居てもらえないかもしれないという不安……」
自分に振り向いてもらえぬかもしれないという不安。
クメトスに嫉妬するかもしれないという不安。
あるいは、その不安から逃れようと、旅に出たのかもしれない。
そう思う、メリエシウムであった。
その思いを知ってか知らずか、エンシュームはこう続ける。
「ですから私は決めましたの。この心は従者のように、ただひたすらにあのお方に捧げようと」
「まあ……それは、とても美しいことだと思います」
事実、その言葉はメリエシウムにとっては青天の霹靂であった。
かつて騎士団長として白象騎士団の秘密を探求していた時、確かに彼女は無私の精神でその目的に奉仕していたのだ。
それと同じように己の気持ちと向き合えば、また違った答えが得られるのではないか。
今はまだわからぬが、その可能性を感じたのであった。
「ええ、私もこの発明に思い至った時は、胸が踊りましたわ。そう考えるだけで、胸の奥から無限にあのお方への思いが湧いてくるのですもの」
「だからホロアは同じ主人に仕える従者が何人いようとも、互いに嫉妬や猜疑心に苛まされることなく、手を取り合って主人に尽くせるのですね」
「きっとそう思いますわ」
そう言って二人の恋する娘は、ニッコリと微笑んだのだった。
すっかり打ち解けたメリエシウムとエンシュームは夜遅くまで語り合った。
夜半を過ぎても話は尽きず、エンシュームの寝所に毛布を持ち込んで、更に語り合った。
「こんなことをパエに知られたら、大目玉を食ってしまいます」
「パエとは?」
「私が幼い頃から仕えてくれる者で、私に学問から礼儀作法まで、何でも教えてくれる師でもあるのです。今は所用でここにはいないのですが」
パエという名に聞き覚えのあったメリエシウムは問いただそうか少し悩んだが、結論を出す前に、表の物音に気がつく。
「どうなさいましたの?」
「表で何か物音が。こんな夜更けに何事でしょう」
「まあ、獣のたぐいでしょうか? この森に魔物はいないはずですが」
「いえ……人の声、それに馬のいななきも聞こえます」
「気になりますわね、誰か呼んでみましょう」
呼び鈴を鳴らすと、侍女が一人やってきた。
話を聞くと、この先にある村の若い女房がやってきたのだという。
「こんな夜更けに、なにかあったのでしょうか?」
「今、ハシュー様が話を聞いておりますが、なんでも幼子が高熱を出して危ないので、パエ様に診ていただきたいと申していたようでございます」
「困りましたね。今、彼女は不在ですし」
幼子の様子を確認すると、ひどい熱でうなされている。
母親の与えた熱冷ましも効かず、ここを尋ねてきたそうだ。
たしかにこのままでは、命にかかわるかもしれないとみたメリエシウムは、こう言った。
「では、私が麓までその子を連れて行きましょう。昼間一度は通った道です。なに、我が愛馬の俊足を持ってすれば……」
それを聞いたエンシュームは、首を横に振る。
「麓への道は深い森で月明かりも届きません。幼い子供を担いでの道中は、流石に危険です。私が馬車を出しましょう」
「よいのですか?」
「我が領民のため、まして幼子のためとあらば、当然のことです」
メリエシウムは、貴族であるがゆえにこうした場合の判断は当然のようにエンシュームに委ねる。
ここは彼女の領地であり、彼女は分別のある貴族だ。
そして今夜の恩義もある。
メリエシウムは、彼女に手を貸すだけであった。
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