華麗なる上司
家のチャイムが鳴ったとき、僕はリビングのソファに座って高校野球の中継を眺めていた。いったい何が面白くて彼らは炎天下の野外を走り回っているのだろう、とぼんやりと考えているところだった。しかし考えたところで答えが出てくるはずもなく、僕は立ち上がって玄関に向かった。扉を開けると、そこには初老の男が燕尾服とシルクハットを身につけて立っていた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。わたくし、ユーラシア商事の塚本と申します」
もう一度言おう、燕尾服とシルクハットだ(この暑い日に!)。しかし男は暑がる様子も見せずに淡々と要件を述べた。
「本日は吉岡英博さんのことでお伝えすべきことがあり参りました。失礼ですが、英博さんの息子さんでしょうか」
「ええ、まあ」
たしかに吉岡英博は僕の父親だ。それも立派な父親だった。ユーラシア大陸で最大の権力を持つユーラシア商事に務め、企画部長としてボディソープとシャンプーの企画販売を行っていた。年収は十億はくだらなかった。世界中の貧困問題や児童労働の解決を訴える基金に収入のほとんどを寄付していたが、それでも僕たちの家族を金で困らせることはなかった。毎晩十八時になると必ず家に帰ってきて夕食を共にした。僕には父親から耳にタコができるほど聞かされた話がある。
「息子よ、ボディソープとシャンプーには決定的な違いがある」
僕は聞き飽きたその話を、神からのお告げであるかのように真摯に聞いた。それが偉大な父親への礼儀だと思ったからだ。
「ボディソープは体を洗うもので、シャンプーは頭を洗うものだ。このことをゆめゆめ忘れないように」
しかし父親は昨年の夏に死んでしまった。今日のようにひどく蒸し暑い日だった。父親は炎天下の新宿の路上で倒れていた。熱中症だったという。いくらその人物が偉大でもその死に方はくだらないものだ。
ひとまず塚本と名乗るユーラシア商事の男を部屋に招き入れた。ダイニングチェアに座らせて、グラスに冷たい麦茶を注いで出してやった。男はグラスを両手で持つと、砂漠にオアシスを見つけたような目でおいしそうに飲んだ。やはりやせ我慢をしていたのか。
「英博さんはわたくしの上司にあたる方でした」と男は口を開いた。
「彼は商社マンとして、そして上司としても素晴らしいお方でした。常にわたくしたち部下の行動を気にかけ、困ったことがあるとさりげなく手を差し伸べてくださいました。彼にとって自身の功績は部署全体の功績であり、それはわたくしたち部下の尽力によるものだと本気で考えておられました。まさしく彼のおかげで、わたくしはただの蟻んこから一人前の人間へと成長できたのであります」
男はグラスに残っていた麦茶の残りを飲み干した。
「英博さんは仕事の合間に、いつもあなたのお話をされていました。自分の息子は勉強がよくできて人に優しく、好奇心に満ち溢れた素晴らしい子供だと話しておられました。あなたは英博さんの自慢の息子なんですよ」
男は僕の目を見てにっこりとほほ笑んだ。はあそうですか、と僕は曖昧な返事をした。今更そんなことを言われて、はあそうですか以外に何と答えれば良いだろう。
「実は英博さんから預かっていたものがあるのです」
男は鞄から、捨てるに捨てられなかった数年分の年賀状くらいの大きさの段ボール箱を取り出した。手に持ってみると、中身が入っているのか疑わしくなるほどに軽かった。
「開けてみても?」と僕は訊いた。男はまたしてもにっこりと頷いた。
封印用のシールを剥がして気泡緩衝材に包まれた中身を取り出す。緩衝材をゆっくりと開くと、そこにはアクリルスタンドが入っていた。アクリルスタンドには、水着姿の女の子がアニメ調で描かれていた。腹の前で腕を組んで、過剰に大きく描かれた胸をさらに強調している。僕が絶句したことは言うまでもない。
「英博さんは、スマートフォンゲーム『プリティ・シーサイド・ガールズ』のヘビーユーザーでした。収入のほとんどをゲームへの課金につぎ込んでいました。そのアクリルスタンドは、年間に一億円以上の課金をしたユーザーのみが購入できるプレミア商品です。キャラクターは
東雲優里亜はどこか不機嫌そうに目を細め頬を膨らませている。どうしてこんなに不機嫌な女の子がビキニの水着を着なければならないのだろう。そして、どうしてただの二次元の女の子のために年間に一億円を課金しなければならないのだろう。僕が言葉を失っている間に、男は上司の偉大さと東雲優里亜の可愛さを力説して帰って行った。
その夜、僕は生まれて初めてボディソープで頭を洗った。ドライヤーで乾かした僕の髪はいつも通りにさらさらとしていた。
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