私はコンビニ店員になりたい

「いらっしゃいませー」

 と口にした瞬間にひやりとした。虫の知らせというやつだろうか。自慢するわけではないけれど僕はかなり勘が働くタイプだ。この神がかり的な勘によってこれまで幾度となく困難を潜り抜けてきた。勘のなかでも嫌な予感に対しては圧倒的な信頼を置いている。僕は品出しをする手を止めてバックヤードに入った。そしてフロアとバックヤードを隔てる扉の窓からじっとフロアを観察した。

 棚の向こうから男がぬらりと歩いてきた。その男、生徒指導の松野先生だ。僕の予感はまたしても的中した。うちの高校は許可を受けていないアルバイトを禁止している。中堅の自称進学校にありがちな校則だ。アルバイトをするには、家の経済状況が厳しいとか、将来進む業界への修行だとか、まっとうな理由を書類にまとめて審査を受けなければならない。その審査を面倒くさがった僕は無許可でコンビニのアルバイトをしていた。それを生徒指導の松野に知られれば停学措置もありうる。最悪の場合、学校から職場に連絡が入ってアルバイトを辞めさせられることもある。これほど自分の勘に感謝したことはない。

 松野は冷蔵の商品棚の前でしばらく吟味してから紙パックのドリンクを選んで籠に入れた。それから反対側の棚から総菜パンを二つ取ってレジに向かった。レジではインドネシア出身のアランさんが会計の用意をしている。アランさんは先月入ったばかりだが、普通のレジ打ちなら難なくこなせるはずだ。僕はほっと胸をなでおろし窓から目を離した。せっかくだし少し休憩してから戻ろうとスマホを取り出す。恋人からのLINEに喜々として返信をしていると、再び僕の中の悪い虫が騒ぎ始めた。

「あの、宅配便? 送るって言ってて」

 気が付くとアランさんが隣で困った顔をしていた。宅配便、少なくとも僕は教えていない。最近店に顔を出すことが少なくなった店長も教えていなかったのか、あの無能店長め!

「あー、宅配便はですね、伝票をめくっていただいて」

 僕は苦し紛れに宅配便処理の説明を試みた。

「デンピョウ?」

「それからハンコを押していただいて」

「ハンコ、あるんですか?」

 アランさんの困り顔は困った表情を通り越し終末を嘆く神父のようになっている。さすがにアランさんに無理難題を押し付けるには良心が痛んだ。僕はバックヤードを回ってレジに向かった。せめてもの抵抗としてかき上げていた前髪をおろして目を隠した。レジに出る前に立ち止まり、一度だけ深呼吸をした。大丈夫、平常心だ。僕はどこにでもいる平均的で均一的なコンビニ店員なんだ。

「お待たせしました」

 意を決してレジに出た。松野はスマホを見ていた目を上げて口を開きかけたが、僕はそれを遮るように声をかけた。

「宅配便ですね。少々お待ちください」

 ああはい、と松野は小さくつぶやいた。僕はできるかぎり顔を上げずに、手早く伝票の処理を済ませた。

「こちらお控えになります。ありがとうございました」

 さっさと控えを渡し、後ろを向いて煙草の整理を始める。大丈夫、松野の表情は分からなかったが、きっと向こうも僕の顔をきちんと見ていないはずだ。僕は意味もなく煙草の前後を入れ替えながら松野の気配が消えるのを待った。しかし松野はなかなか立ち去らない。

「店員さん」

 背後から松野が声をかけてきた。心拍数が一気に上がるのが分かる。コンビニ店員としての僕は今すぐにでも後ろを振り返ろうとしている。しかし高校生としての僕は絶対に振り向くなと言っている。二人の僕が頭の中で醜い小競り合いを繰り広げている。その葛藤は一瞬のものだったが僕にとっては一生をかけた因縁の争いだった。その長い争いの末、コンビニ店員としての僕が勝利を収めてしまった。

「はい」

 僕は振り向いて松野を直視した。松野は今度こそはっきりと僕を見ている。これで学校にも職場にもいられなくなってしまう。僕の人生計画はすっかり無に帰してしまう。本当はアルバイト代を使って、恋人に誕生日プレゼントを贈るつもりだった。アクセサリーか化粧品か高めのボールペンかを選んでプレゼントするつもりだった。しかし僕のささやかな夢はここで潰えてしまうようだ。松野が口を開いた。

「若いのにしっかりしてるね」

 松野はいつも通りのしゃがれた声でそう言った。僕はうまくその言葉を理解できなかった。

「いえ、ありがとうございます」

 僕は理解の追い付かない頭でとっさにそう言った。

「これからも頑張って」

「はい、ありがとうございました」

 僕は松野に向かって深々と頭を下げた。松野の足音が遠ざかり、やがて退店のメロディが聞こえた。そのメロディは僕を祝福するファンファーレのようだった。

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