ある正常な男子高校生の妄想
僕は恋をしている。相手は隣のクラスの前田瑠璃子さんだ。出会ってから二年が経った今でも彼女の顔をうまく思い出せない。彼女の顔は僕なんかの想像力ではとても描き切れないほど美しい。あらゆるパーツが寸分のずれもなく、あるべきところで優しく佇んでいる。たとえ彼女の顔を思い浮かべられなくても僕にはそのことが分かる。
夜、ベッドに入ってから眠りにつくまでの間、彼女との生活をしきりに妄想する。
僕たちは手を繋いで桜吹雪の中を歩く。スーパーマーケットで新鮮なレタスとトマトを選ぶ。彼女がサラダを作っている間に僕はパスタを茹でる。同じベッドで眠り、目を覚ますと彼女は隣で寝息を立てている。彼女は朝が苦手なのだ、多分。
けれども幸せな生活には困難がつきまとう。ある朝、僕は執拗なチャイムの音で目を覚ます。彼女は相変わらず死んだように眠っているが呼吸に合わせて肩が上下している。寝ぼけた目を擦りながら玄関を開けると、そこには長髪の男が立っている。
「あの、前田瑠璃子さんをもらいにきた」
男はぼそぼそとした声でそう言った。前髪が目を隠しているせいで表情はよく分からない。
「前田瑠璃子は僕の妻だ。渡すわけにはいかない」
僕は努めてはっきりと言い放った。
「う、う、嘘をつくんじゃない。彼女が君と結婚しているなら、名字が前田から変わっているはずだ」
「たしかに」これは妄想だから、そこまで考えていなかった。「いや、僕が名字を変えたんだ。今は男が名字を変えたって良いんだ」
「そうか、ぐぬぬ」僕の天才的な機転に、男は冷や汗をかいた。「し、しかし、君は彼女の夫にふさわしくない。き、君は彼女の嫌いな食べ物、知らないだろう」
「ふん、知らないわけがないだろう」僕の妄想のなかでは。「彼女の嫌いな食べ物は納豆だ」
「な、納豆だって? ふふ、大間違いだ。彼女の嫌いな食べ物は、ね、葱だ。ちなみに玉葱も駄目だ」
男は薄ら笑いを浮かべながらそう言った。
「口から出まかせはやめてほしいな」と僕は言った。
「う、嘘だと思うなら確かめてみれば良い」
「ふん、確かめるまでもない。出ていけ、この不審者め」
「だ、誰が不審者だって、君こそ、彼女の気持ちも分からない無能のくせに」
「なんだと、この社会不適合者が」
「こいつ!」
男は玄関に上がり込んで僕を張り倒した。殴りかかろうとする男の手を掴みながら僕は体勢を立て直し男の上に馬乗りになった。男が僕のおでこに頭突きをした。僕は痛みに耐えながら男の抵抗を抑えた。
「やめて!」
気が付くと瑠璃子が僕たちのそばに立っていた。
「私のために争わないで」
瑠璃子は半べそをかいていた。僕は慌てて瑠璃子のそばに寄って肩を抱いた。
「なあ瑠璃子、僕とこの男のどちらが好きだ?」と僕は訊ねた。
「そんなの貴方に決まっているじゃない。この男は誰なの。だらしなく長い髪で、陰気で、不潔じゃない。とっとと出て行ってちょうだい」
彼女がそう言い放つと、男はしばらく玄関に寝転がったまま呆然としていた。やがてのっそりと起き上がり、肩を落として外に出て行った。
「やはり瑠璃子は、僕のことが好きなんだね」
こうして僕たちはようやく目覚めのキスを交わす。ここまでが僕の妄想だ。
学校に行くと、僕は彼女が登校する時間を見計らって隣の教室の前を通る。彼女の美しい姿を目を隠すほど伸ばした前髪の間から眺めるのだ。もちろん声をかけたりはしない。今の僕は陰気で不潔でどもりがちだからだ。
後に本人から聞いた話だが、彼女は白いご飯に納豆と刻み葱をかけて食べるのが大好きだった。
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