満員電車で歌ってみた

 朝の通勤列車は静かだ。電車が目的地まで確実に運んでくれることを人々はじっと待っている。出荷されるお菓子の箱みたいに車両の中は人でいっぱいになっている。知らない誰かとぴったりと体をくっつけていても僕たちは気にしない。慣れてしまえば大抵のことはできるようになるし許せるようになる。本当はこうやって怒鳴り散らしたいはずなんだ。おいてめえ押すんじゃねえよ、もうちょっとそっちに詰めろよ、香水が臭いんだよ。でも僕たちは何も言わずに静かにしている。聞こえてくるのは機械的な電車の音ばかりだ。扉が閉まる音、車両がゆっくりと走り出す音、行き先を告げる車内アナウンス、車輪がレールの繋目を乗り越える音、ブレーキの音。諦めと道徳が僕らを黙らせている。

 その朝、僕は声を聞いた。その声は蚊の羽音のような細い声で何かを歌っていた。電車の音に紛れてうまく聞き取れないけれど、僕はその曲を知っているような気がした。その歌声は女子高生のイヤホンから漏れ出ていた。彼女は僕から二メートルばかり離れたところに立っている。茶色の通学鞄を肩にかけて窓の外を睨むようにじっと見ている。彼女が来ている紺色のブレザーを見て、僕と同じ高校だと分かった。電車が駅に着いたタイミングで、サラリーマンたちの間を縫って彼女に近づいた。そして気が付いた、それは僕の歌声だった。


 高校に入ってから音楽を作るようになった。パソコンに繋いだキーボードを叩いて音を打ち込んでいく。ドラム、ベース、ストリングス、エレキギター、クラシックピアノ。どんな音色も僕の思い通りに奏でられる。ドのキーを叩けばドの音が出て、ミのキーを叩けばミの音が出る。フェーダーを上げれば音程が上がり、下げれば音程も下がる。それが作曲の良いところだ。

 それから歌詞をつける。曲と違って歌詞はでたらめだ。例えばこんなふうに。

 

 風が吹いていても 僕はそれを知らない

 音が鳴っていても 僕はそれを知らない

 明日は晴れだから 合羽を着て歩こう


 高校の最寄り駅で彼女に続いて電車を降りる。高校に向かう道の途中で彼女に声をかけた。

「ねえ、三年生?」

 彼女は手早くイヤホンを外してから僕の全身を観察した。

 いや、二年。と彼女は低い声で言った。

「なに聞いてたの?」

 ゴーシュって人の曲。知ってる?

「知らない」と僕は嘘をついた。ゴーシュは僕のアーティスト名だ。「どんな曲?」

 ひどい曲だよ。歌詞はでたらめだし、メロディは十年前のヒット曲のパクリだし。

「そりゃひどいね」と僕は笑った。

 でもね、声が良いの。無愛想だけど透き通っていて、正直に歌っている気がするの。

「そうなんだ」と僕は言った。


 僕がゴーシュであることを彼女には言わなかった。言っても信じてもらえない気がするし、言ってしまったらゴーシュが僕になってしまいそうで怖かった。僕はゴーシュかもしれないけれどゴーシュは僕ではない。彼は僕なんかよりも勇敢で正直だ。創造的で自由奔放だ。たとえその声が僕の声であっても、僕と彼は違う。少なくとも、ゴーシュは満員電車の中で静かに息を詰めたりなんかしない。

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