雨中の雛

 雨のせいもあって道路はひどく渋滞していた。月曜日の朝の八時、多くの会社員が車で会社に向かう時間だ。ワイパーがフロントガラスを何度も何度も何度も何度も何度も何度も往復しているが雨は無慈悲に降り続けている。ガラスについた水滴に前の車のブレーキランプが乱反射して赤いを作っている。スピーカーから兄が選曲したサカナクションの曲が流れてくる。私は担任に伝える遅刻の言い訳を考えながら車が進み始めるのを待った。

「昨日遅くまで起きてただろ」

 兄が唐突に口を開いた。左手をハンドルに乗せ右腕で頬杖をつきながら前を向いている。不機嫌に見えるのはきっと眠いせいだろう。

「まあね」と私は曖昧に答える。

「電話するのは良いけど、もうちょっと静かにやってほしいな」

「そんなにうるさかった?」

 私と兄の部屋は隣り合っている。ここのところ兄はずっと部屋に籠っている。大学を卒業してウェブサイト制作の会社に就職したが二年足らずでやめてしまった。だから平たく言えばニートだ。しかし資産運用やら投資やらで働かなくても収入があるらしい。詳しいことは知らないが、父と母は兄みたいにならずに真面目に働けと私に言う。良い大学に入るために勉強することが今の私の最優先事項、らしい。

「うん、夏休みに夏期講習に行くんだろ」と兄は表情を変えずに言った。

「うわあ、盗み聞きとか気持ち悪いよ」

 私はできる限り嫌味に聞こえるようにそう言った。兄のことは好きでも嫌いでもない。

「盗み聞きじゃねえよ、聞こえてくるんだよ」

「どうだか」

 目の前の車のブレーキランプが消えた。兄は車を五十メートルばかり進めたがまたすぐにブレーキを踏んだ。雨合羽を着た自転車が歩道と車の間を駆け抜けて行った。サカナクションの音楽と車に打ち付ける雨音が混ざり合う。昨日の夜は、ミナとナツミとユカと私の四人で朝方まで電話していた。主な話題はミナの失恋とスターバックスの新作と学校の勉強のことだった。

「まあ、勉強はほどほどにしてちゃんと寝た方が良いよ」

 兄が私にアドバイスするのは珍しいことだった。兄は高校時代にたくさん勉強して名古屋大学を出ている。

「そうかな?」と私は言う。車はまた百メートルほど進んで止まった。

「学校の勉強なんて一本道だからな」

 兄は呟くようにそう言った。車はようやく交差点を曲がったが、その先にもまた車の列があった。

 今朝寝坊したのは、別に朝方まで電話していたからではない。短い眠りの中で見た悪い夢のせいだ。私は学校に向かう道を走っていた。でもその道は実際の道とは少し違う。まず道幅が広く片側に四車線も走っている。コンビニと同じサイズの小さなスーパーは五階建てのデパートになっていて、コインランドリーは商社ビルになっている。牛丼屋は水族館に、リサイクルショップは体育館に、うどん屋は東京ビッグサイトのような幾何学的でいびつな建物になっている。けれども夢の中の私は何の違和感も抱かずに学校に向かって走っている。夢の中の私はその歪んだ街並みを日常の風景として捉えている。もうすぐで校門をくぐる、というところで目が覚めた。しばらくベッドの中で目を開けたまま夢に見た景色を頭の中で反芻した。時計を見ると大幅に寝坊していたので兄を叩き起こして車を出してもらった。しかし既にホームルームの時間を過ぎている。この渋滞と雨のせいだ。

「じゃあ高卒で働こうかな」と私は言った。

「良いんじゃないか、それでも」

 兄は当然のように言った。車がまた動き出した。

「だめだよ、お母さんに殺される」私は笑いながら言った。

「俺が説得する」兄は大真面目だ。

「働き口もあるか分からないし」

「俺が資産運用を教えるよ。最初はいくらか貸してやる」

「本当に?」

「うん、俺だってちゃんと実績あるんだぜ」

「ふうん。考えとくよ」

 一限の半ばになってようやく学校に着いた。兄が校門の前に車を止めてくれる。登校している生徒は誰もおらずひっそりとしていた。そこには人の気配がなかった。けれど校舎に入ったら、きっといつもみたいに教師たちがつまらない授業をしているのだろう。

「ありがとね」と言って車のドアを開けた瞬間に気が付いた。「あ、傘忘れた」

「マジ?」兄は半笑いになりながらそう言った。

 車で送ってもらうから濡れることはないと思って油断していた。雨はなかなか本格的に降っている。私は少しだけ落胆したが気を持ち直した。

「下駄箱まですぐだから、走っていくよ」と私は言った。

「おう、気をつけて」

 私は意を決して車の外に出た。ドアを閉め兄に手を振ってから校舎に向かって走り出した。ローファーで跳ね上げられた雨水が足首に当たって冷たかった。制服はあっという間に染みでいっぱいになる。別に学校は好きではない。けれど一刻も早く雨をしのぐために、私は走った。鞄に入っている教科書や参考書がポップコーンみたいに揺れている。そして考えた、これは今朝の夢の続きかもしれないと。三日ぶりに見上げる校舎は何故だかとてつもなく大きく見えた。

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