アフタースクール・ディストラクション
ぼくは体育館に向かって渡り廊下を歩いている。バスケットボール部の練習に向かうためだ。夕方の西日はまぶしく、ぼくはリュックサックを右肩に背負っている。
体育館に続く渡り廊下の窓ガラスは先月から割れている。誰が割ったのかは分からない。日中に生徒が割ったとすれば教師か事務員がすぐに気づくはずだから、きっと夜に誰かが忍び込んで割ったのだろう。生徒の誰かかもしれないし部外者かもしれない。とにかくその窓ガラスは先月から割れていて、指を切らないように割れ目に養生テープが貼られている。その養生テープも日に当たって粘着が弱くなり端の方がはがれている。先月の集会で、二週間以内に修理するとの通達があったが実現しなかった。
割れ窓理論、という単語がぼくの頭に浮かんだ。窓が一枚でも割られていると他の窓を割ることへの抵抗がなくなり、結果的に多くの窓が割れ社会が荒廃するという理論である。だから、たった一枚の割れ窓でも放置するべきではないのだ。
その理論が正しいのかどうかは分からないけれど、女性教師の一人が退職した。先週のことだ。白石という名前で、教育大学を卒業して三年目になる新米の英語教師だ。肩まで伸ばしたブラウンの髪にウェーブをかけ、いつも白のブラウスとジーンズを身につけていた。英語の発音は流暢なイギリス英語だった。教師を辞める理由は説明されなかったが、畠山のアプローチと女子生徒からのいじめが原因だ、というのが生徒の間での通説である。
畠山は今年で三十になる男性の数学教師で、サッカー部の顧問を務めている。身長は百八十センチ、日課は筋トレ、趣味はゲームと漫画、大学ではサッカー部に所属、適度に焼けた小麦色の肌、女子生徒にモテる要素はだいたい持っていてしかも独身。実際に畠山は女子生徒に人気があった。バレンタインデーに職員室の畠山のデスクにチョコレートの山ができたことがある。その畠山は白石に気があった。白石の若々しさが輝かしかった自身の大学時代を思い起こしたのかもしれない。畠山は授業と授業の間に暇を見つけては白石に声をかけ、昼休みには食事に誘い、放課後には飲みに誘った。問題は、それらのアプローチを生徒の目の前でやったことだ。畠山のファンだった女子生徒は白石に嫉妬し、彼女へのいじめが始まった。授業中はあえて指摘されるような大声で談笑し、指摘されると黙殺した。指名されても反応せず、宿題はやらず、やがて出席もしなくなった。それでも白石は男子生徒を相手に授業を続けていたが、女子の嫌がらせはエスカレートした。それは組織的で巧妙だった。白石のTwiterアカウントが発見され、LINEグループを通じて多くの女子生徒に伝達された。そして匿名アカウントを使った引用リツイートリプライでの印象操作。こいつうちの教師なんだけどマジで最悪。授業で何言ってんのかわかんない。清楚なふりして男にモテたいだけでしょ。ビッチ、教師やめろよ。
結果として白石は教師をやめた。陰湿な嫌がらせで精神を病んだのか、低俗な高校生を相手にすることに嫌気が差したのか、そこのところはよく分からない。ただ、ぼくが思うに、渡り廊下の窓ガラスが割れたことと白石が教師を辞めたことは密接に関係している。裏を返せば、もし窓ガラスが割れていなかったら白石は教師を辞めていなかった、そんな気がしてならない。
ぼくは白石が好きだった。
体育館に着くと、武田がスリーポイントシュートの練習をしていた。背筋をまっすぐ伸ばしたまま軽く飛びボールを放ち柔らかに着地するが汗一つかいていない。ボールは録音された効果音を再生するようにいつも同じ軽快な音を立ててゴールネットを揺らす。すぱっ。武田はうちのバスケットボール部のエースだった。ちなみにキャプテンはぼくだ。
「もう謹慎は終わったのか?」ぼくは武田に声をかける。
「いいや、これは部活じゃないからセーフだ」武田はちらりとぼくを見てシュートを続ける。
武田はうちのバスケットボール部のエースだった。しかし先週、校内で事件を起こして部活動禁止の処分を受けた。期間は二か月間。つまり引退試合には出られない。彼のバスケットボール部員としての生涯はすでに終わっていた。
事件と言ってもたいした事件ではない。祭りの景品で当たったエアガンを発砲して遊んでいたところを生徒指導の教師に見られたのだ。ちょうど日本で銃を使った射殺事件があったので、教師たちも銃に敏感だったのかもしれない。ただのおもちゃの銃であることを武田は説明したが教師の憤りは収まらなかった。おもちゃだとしても銃で遊ぶなんて不謹慎だ、不健全だ、危険だ、犯罪予備軍だ。おまけに廊下に置いてあった掃除用具入れのへこみを銃で発砲されたBB弾のせいにされた。実際のところエアガンから弾は出ていなかった。
こうしてぼくのチームはエースを失った。最後の大会は今週末だ。武田がいないのでは勝負のしようがない。終わった、ゲームセットだ。ただの一縷の希望さえ残されていなければかえって清々しいものだ。
渡り廊下で割れている窓ガラスがぼくの脳裏に浮かんだ。汚れた養生テープの貼られた割れ窓。あの割れ窓がこの学校から希望を吐き出しているのではないか、そんな考えがぼくの頭に巻き付いて離れない。あの割れ窓が白石を学校から追い出し、武田をチームから追い出した。きっとそうに違いない。あの割れ窓が学校から希望を流出させている。一度流れ出した液体は二度と元には戻らない。風呂場の排水溝に湯が流れていくように、希望は先の知れない排水管の奥底へ流れていく。それはどこに行ってしまうのだろう。
「なあ武田」とぼくは声をかける。「窓を割らないか?」
「窓?」
武田が放ったボールはリングのふちに当たってゴールの外側に落ちた。がこん、たん、たん、たん、たん。
「そう、窓だよ。渡り廊下の窓が割れているだろ。あれみたいに、学校中の窓を割るんだよ」
「なんのために?」
「なんのためでもない。ただ割るんだ」
武田はしばらくリングを見つめていたが、やがてにやりと笑った。
「良いね、やろう」
どうせ謹慎中なんだ。
僕たちは手始めに体育館の窓を割って回った。モップの先を思い切りスイングしてガラスに叩きつけた。ダンッ、ダンッ、パリン。その気にさえなれば窓ガラスなんて簡単に割れることを知った。ガラスの破片が夕日に照らされてきらきらと光った。破片の一枚がぼくの指先を引き裂いた。どろりとした赤い血が流れたが少しも痛くなかった。女子生徒の悲鳴が聞こえてくる。きゃあ、あいつら何やってるの、誰か先生呼んで先生。ダンッ、ダンッ、パリン。ダンッ、ダンッ、パリン。どんどん窓が割れていく。学校から希望が流れていく。この学校の希望が全部流れ出たら、その流れが行き着く先で、ぼくたちは新しい人生を始めるんだ。体育教師たちに無理やり抑え込まれるまで、ぼくと武田は窓ガラスを割り続けた。
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