冷たくしないで
「なんか、彼氏ができた」
朱里がそう言ったとき、それが朱里の彼氏だとは思わなかった。今にして思えば、僕はどうしようもない奴だったと思う。
「へえ、誰に?」と僕はクッキーを齧りながら聞いた。
「私によ」と彼女は言った。それから麦茶を一口飲んだ。
幼いころから一緒にいれば、そういうこともあるだろう。その日は八月のひどく暑い日で、僕たちはお菓子を食べながら課題をやっていた。
朱里に彼氏ができた。そのことの理解するのに、僕は相当な時間を要した。真っ白なルービックキューブを渡されたような気分だった。言葉の意味は分かる。でもその意味に対して何をすれば良いのか、まるで分からなかった。
「ふうん」と僕は言った。我ながら、馬鹿みたいな返事だ。
朱里はシャーペンを動かす手を止めて、僕をじっと見た。
「それだけ?」と彼女は言った。
「他になんて言える?」と僕は言った。
彼女は小さくため息をついた。
「そんなんだからモテないのよ」
朱里が彼氏と旅行に行ってから、二週間が経った。
本当に何もない二週間だった。午前中は水泳部の練習に出て、午後は家で漫画を読んで過ごした。時々、思い出したように課題を進めた。
退屈な夏休み。
しばらく考えているうちに、退屈さの原因に思い当たった。朱里が家に遊びに来ないからだ。彼氏ができる前は、一週間に二回程度は遊びに来ていた。それがこの二週間は、遊びに来るどころか連絡さえ入れてこない。もっとも、遊びに来ると言っても、二人でゲームか漫画を触るだけのつまらない習慣だけど。それはそれで僕たちは楽しんでいたのだ。あるいは、楽しんでいたのは僕だけだったのかもしれない。何もない二週間。
二週間?
二週間という期間は、高校生の旅行にしては長すぎやしないだろうか? そもそも彼女は、どこに旅行に行ったのだろう。それ以前に僕は、彼氏がどんな男なのかさえ知らない。彼女は二週間も旅行できるほど小遣いをもらっていただろうか。旅行の費用が彼氏持ちだとしたら、相手は高校生じゃないのだろうか? 大学生かもしれないし、もしかしたら社会人かもしれない。
仕方なく、僕は朱里に電話をかけた。心配しいだと思われるのは癪だけれど、こうも気になってはどうしようもない。着信メロディは陽気な音を奏でたあとで、前触れもなく途切れた。彼女は電話に出なかった。
夏休みの最終日の午後、家のチャイムが鳴った。僕はその時、結局最後まで片付かなかった課題をこなしていた。ドアを開けると、朱里が立っていた。
「よお、久しぶり」
朱里はリビングに入ると、自分の家のようにバッグをソファに放り投げた。
「これ、お土産」
彼女はそう言って、プラスチックの包みを渡してきた。ミッキーマウスとミニーマウスが大きくプリントされていた。
「ディズニーランド?」と僕はとぼけた声で尋ねた。
「うん」と彼女は言って、リモコンでテレビをつけた。お昼のワイドショーが放送されている。
「旅行に行ってきたんじゃないの?」と僕は聞いた。
「旅行? 誰と?」
「いや、彼氏と」
「ああ、もう別れたわよ」彼女はテレビの画面を見つめながら言った。
そうか、と僕はまた間抜けな声で言った。ディズニーランドには、学校の友達と行ってきたらしい。
朱里が跡形もなく消えた時、僕は色々なことを後悔した。彼氏ができたことを悔しがらなかったこと、彼氏と別れたことを喜ばなかったこと。それから、そばに居させてほしいと、彼女に伝えなかったこと。
気がついたら桜が散っているように、いつの間にか彼女は消えていた。LINEのアカウントも、SNSのアカウントも消えていた。携帯に電話しても、自宅に電話しても繋がらなかった。家族でハワイに引っ越したそうだと、僕の母親は言っていた。
僕は本当に馬鹿だったと思う。彼女にもらったディズニーランドのお土産は、丸い缶に入ったクッキーだった。
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