どうか、落ちないで
慌てて家を出ると、紀香は一目散に駅に向かった。約束の時間に間に合うか、ぎりぎりのところだった。せかせかと足を動かしながら、自転車を学校に置いてきたことを後悔した。私には計画性がないのかしらと、紀香は思った。
「あなには計画性が足りないのよ」
母親にそう言われたことを思い出した。勉強を面倒くさがって、テスト前日に一夜漬けをするからだ。一夜漬けだって、テストで点を取れればそれで良いじゃないか。紀香は一夜漬けが得意だった。テストの順位は、常にクラスで二番目だった。テストの度に一夜漬けをして、その度に必ず二位だった。
クラスの一位は、いつも決まっていた。池谷という男の子だ。彼はクラスの一位を逃したことがなかった。彼は東京大学を目指している。休み時間や昼休みには、たいてい参考書を広げている。授業中には塾の課題をしている。でも残念なことに(と紀香は思う)、眼鏡はかけていなかった。
つい先月まで、紀香は眼鏡をかけていた。銀縁の大きな丸眼鏡で、フレームが細いところを紀香は気に入っていた。でもその眼鏡は、今はもう壊れてしまった。リビングの床に眼鏡を置いて昼寝をしていたら、姉が踏んづけて壊してしまった。
「床に置いておく方が悪いのよ」と姉は言う。
仕方がないので、紀香はここのところコンタクトレンズをつけている。コンタクトは嫌いだ。つけるのに時間がかかるし、すぐに目が疲れる。でも、つけないと視界が悪すぎるので、紀香はしぶしぶ割り切っている。
「俺はいつもコンタクトだよ」と池谷が言ったとき、紀香は心底驚いた。
「なぜ眼鏡にしないの?」と紀香は尋ねた。
「コンタクトの方があか抜けてみえるから」と池谷は恥ずかしそうに答えた。
「馬鹿ね、ガリ勉は眼鏡の方が似合うのよ」と紀香は言った。
彼が不服そうな顔をするので、紀香は自分がかけていた丸眼鏡を彼にかけてあげた。
「この方が似合うわ」と紀香は満足して言った。
彼はしばらくあたりを見回してから、
「度がきつすぎるよ」と言った。
なぜ彼が熱心に勉強したがるのか、そのくせ眼鏡をかけないのか、紀香には理解できなかった。
約束の時間の十分後、紀香は東大前駅に着いた。池谷は四角っぽい眼鏡をかけながら、紀香を待っていた。その眼鏡は、紀香が彼の誕生日にプレゼントしたものだった。
「ごめん、遅くなった」と紀香は言った。
「良いよ。来てくれてありがとう」と池谷はお礼を言った。
合格発表の掲示板に、二人は池谷の受験番号を見つけた。
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