第17話 ゆらぎ

 エイロックさんののんびりした声で語られる唐突な内容に、私は顔を上げる。

「例えばさ、炎を恐れるやつは、他人にとっても炎は恐怖の対象であると思う。酒好きのやつは、他人もまた酒によって快楽を得られると考えてしまうんだ」

(エイロックさん?)

「あの子の想像する『琴菜ちゃんの欲望』って妙に生々しかったよな。でも実際のところ、あんなふうに思ってたのは、彼女自身かもな」

「千財さんが? まさか……!」

「勿論、本人無自覚だろうけど」

 ――エイロックさんたちの体、絶対にいやらしい目で見てるわよ。脱いで見せろとか言われなかった?

(あんなことを?)

「安心しな、琴菜ちゃん。俺たち、だてに星々を巡って接客業をしちゃいない。君がよこしまな目を俺たちに向けてないことは十分わかってる。それにさ」

 エイロックさんの橡色の目が、私をまっすぐに見た。

「琴菜ちゃんが男に惹かれるのは、おかしくも恥ずかしくもないんだよ。ここ以外の世界では、ごく普通に行われているんだからさ。自分を蔑んじゃいけない」

 エイロックさんの低く静かな声に、私は落ち着きを取り戻す。

「異性愛も同性愛も異種間愛も、更にもっと多様な関係も、ここから出れば普通のことだ。むしろ、異性愛ってだけであんだけ盛り上がれるのは、珍しいことだよ」

 彼の言葉に、私の涙はようやく止まった。


 落ち着きを取り戻した私は、裏手からそっと抜け出す。

 そのまま大通りを避け、家路につこうとした時だった。

「ねぇ」

「!」

 暗がりから姿を現したのは千財さんだった。

「どうしてここに……」

「エイロックさんと何を話してたの?」

「何って?」

「あんたと一緒にスタッフルームに下がっちゃったから、今日は彼と全然話せなかったじゃない!」

 千財さんの思わぬ剣幕に、私は呆気にとられる。

 彼女はつかつかと迫ると、私を睨みつけた。

「中で彼と何を話したの? どうせあたしの悪口でも吹き込んだんでしょ!?」

「そんなことしない。エイロックさんは、私を変じゃないって言ってくれただけ。男に恋しても、外の世界では普通だから気にしなくていいって。元気づけてくれただけよ」

「……なによ、それ! じゃ、あたしらが変だって言うの!?」

「そんなこと言ってない」

「だいたい何よ! あんただけ指定席が用意されて、彼らに気を使ってもらえて、親しげに名前で呼ばれてるなんて! おかしいじゃない、なんであんただけが特別扱いなのよ! 男との繁殖に興味津々の異常者のくせに! それ目的で彼らにべたべた媚びてるくせに! いやらしい!」

 まくしたてる千財さんを前に、私は驚くほど落ち着いていた。私を肯定してくれたエイロックさんの言葉のぬくもりが、まだ胸に残っていた。

「違う。私は彼らをそんな目で見てない。エイロックさんも分かってくれてた」

「うるさいわね、あんたはいやらしい人間なの! 彼に二度と近づかないでよ!」

 そう言うと、千財さんは毒々しく笑った。

「彼らにちゃんと忠告してあげなきゃ。あんたを出入り禁止にしたほうがいいって!」

(近づかないで?)

 彼女の言葉に、違和感を覚えたのはこの時だった。

 ――でも実際のところ、あんなふうに思ってたのは、彼女自身かもな

(まさか、エイロックさんのあの言葉、本当に?)

 私は思い切って質問する。

「千財さん、ひょっとして……、嫉妬してる?」

「は!?」

「もしかして、エイロックさんに惹か……」

 その瞬間、パンと乾いた音がして、頬に鋭い痛みが走った。

 彼女にぶたれたのだと理解したのは、一呼吸おいてからだった。

「……あんたと一緒にしないで!」

 千財さんの声は震えていた。

「誰があんな獣モドキのよりによってオスに惹かれるものですか。おぞましい! オスに欲情するなんて、進歩した人間のすることじゃないもの」

 言葉とは裏腹に、千財さんは苦しそうな表情をしていた。

「あの低い声を聞くたびにゾクゾクして鳥肌が立つ! 太い武骨な腕を見ると息苦しくなる! 獣っぽいにおいがすると思考が停止する!」

 千財さんの頬を一筋の涙が伝う。

「エイロックさんがあんたとベタベタしてるのを見ると、不快で不快で吐き気がして……!」

「千財さん、あの……」

「……どうしてくれるのよ! これじゃ、あたしも異常者じゃない……」

 千財さんはガタガタと震えながら、その場にしゃがみ込む。

「どうしてくれるのよ……、こんなの、どうしよう……。こんな動物じみた衝動が私の中にあるなんて。嫌よ、こんなの私じゃない……、こんな私、気付きたくなかった!! どうして私の前に現れたのよ……。 彼さえ現れなければ、あたしはまともでいられたのに!!」

 錯乱する彼女を前に、私は自分を救ってくれたエイロックさんの言葉を思い出す。

「……大丈夫。外の世界では普通なんだって。この気持ちは変じゃない、そう認めてくれる世界がちゃんと存在しているから……」

 青白い街灯の下で、千財さんは身を縮め、すすり泣いていた。


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