第76話 崩壊の足音(Side:クリスティーナ)
(Side:クリスティーナ)
何で?
何で私がこんな目に遭わなくちゃいけないの?
気持ちが不安定になって、気が付けば自分の爪を噛みそうになっていた私は、ハッとして慌てて自分の口から指を離した。
綺麗に磨かれ、ほんのりピンクに輝く私の爪。
私は爪の先まで美しくなくてはいけないの。
そうよ。
私は今、公爵邸の自室で謹慎を命じられている。
お父様は『形だけの物だから』と私を宥めていたけれど、こんな屈辱を受けたのは初めてだ。
あの夜会は、アナスタシアを領地から引き摺り出す為に、わざわざアルに取り入って開いて貰った物だった。
この国の王太子アルフォンスは、私の歳上の幼馴染だ。
フェアランブル王家とフェアファンビル公爵家の縁は強く、公式の場でなければ私は王太子を愛称で呼ぶ事さえ許されている。
王太子という地位は色々と使えるから表面上は可愛い幼馴染を装って甘えているけれど、実は私はアルが嫌いだ。あの男は表面上はいかにも爽やかなフリをして皆を欺いているけれど、その正体を私は知っているから。
あの男は『金髪偏愛者』だ。
アルは自分の事が大好きなナルシストだから、自分と同じ、しかもこの国においては絶対的な権力の象徴である金色をこよなく愛しているのだ。
大きくなったらアルに嫁ぎ、この国の王妃になるのかと思っていた幼い頃にこう言われたのを、私は一生忘れない。
『ティーナが金髪だったら、私の妃にしてあげたのにね』
本当ならあの日、碌なドレスも用意出来ずに笑い者になったあの女にワインをかけて控え室へ押し込め、後はアルにお任せするつもりだった。
アルはアルで乗り気だったし。アナスタシアの髪色が金色な事を知った途端に異常な程執着していたから丁度良い。
そして私の方は、頃合いを見てユージーン様を連れて控え室に行き、不貞の現場を抑えればいい訳だ。
信じられない事にユージーン様はあの女を大切にしているみたいだったけど、そんな現場を見れば軽い同情なんて吹っ飛ぶでしょう?
王太子相手では泣き寝入りするしかないし、そんな時に私が優しく寄り添えば私に夢中になるに決まっているわ。
アルに弄ばれ夫に見捨てられたあの女がどんな絶望の表情を見せてくれるか。想像しただけで笑いが止まらなかった。
——それなのに。
そんな私の計画が壊れたのだという事は、舞台上からあの女の姿を見つけた時に一瞬で理解した。
何、あの、ドレス……。
あの女のドレスが素晴らしい物である事は、誰の目にも明らかだった。ドレスだけじゃない。あの女自身も、以前伯爵邸で見た時よりも更に一段と美しくなっていた。
隣に寄り添うユージーン様は、蕩ける様な目で己の妻を見つめている。流石に分かる。あれは軽い同情なんかじゃない。溺愛だ。
何が、何で? どうなってるの?
悪意を持って近付く令嬢達を華麗に捌き、金色の髪をふわふわさせながら会場の視線を集めるあの女に、苛立ちはどんどんと加速していった。
初めは平民育ちだとバカにしていた貴族達の、あの女を見る目がどんどん変わっていく。恐れていた事が現実になっていく。
我慢しきれなくなって、直接ワインをぶっかけに行った結果がアレだ。
あんな目に遭わされたのは生まれて初めてで、自分に何が起こっているのか理解できなかった。思わず取り乱して言動を誤り、あの女に上手くそこを利用された。
2年もの間、公爵家でされるがままだった陰気な女とはまるで違う。
あちらがあの女の——アナスタシアの本来の姿だったのだ。完全にしてやられた。
みっともなくワインを被り、髪も化粧も崩れて会場を後にする私に、クスクスと笑いと好奇の視線が向けられる。
悔しくて悔しくて振り返ったら、美しい夫に守られ、お兄様に気遣われるアナスタシアの姿が目に入った。
どうしてお兄様? 本当の妹は私でしょう?
ああ、でも。
そうしていると、
だって、
私の中で何かが、プツン、と千切れた気がした。
そこからはもう、転げ落ちるかの様に悪い方へ悪い方へと事態は進んだ。
作戦は失敗したのだから諦めればいいのに、アルはお兄様の控え室にまで押し掛け、あろう事か自身の婚約者である隣国の王女殿下に現場を抑えられたらしい。
しかも調査の時に私の名前も出したというのだから救えない。
証拠が無いのを逃げ道に何とかしらを切り通したけれど、今度は公爵家に
告発したのは、お兄様だった。
お兄様は、完全に私よりアナスタシアを選んだのだ。
……こんな事なら、大人しくハミルトン伯爵家に嫁げば良かった。
外側から鍵をかけられた部屋の扉を見ながら、ユラリと立ち上がる。
そうすれば、あの美しい伯爵に愛されたのも、あの素晴らしいドレスを着てあの場に立っていたのも、お兄様に心配され守られていたのも、ぜーんぶ、私のはずだったのに。
そう、本当は、全部私の物だったはずなのに。
「あはは、私、馬鹿みたい……」
こうなったら、せめて。
——— せめて、あの女にも、絶望を……
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