第36話 お久しぶりの旦那様。

 

 こ、この声は…まさか!?


 慌ててガバッと後ろを振り返ると、やっぱりそこには久し振りに見る仏頂面があった。


 ——だ、旦那様!? 旦那様が何故ここに…


「だっ……! ……あなた?」


 驚きのあまり『旦那様!?』と叫びそうになったが、何とかすんでのところで思いとどまった。


 今のお忍びの私が使う言葉として『旦那様』はかなりおかしい。


「……その呼び方、まだ生きてたのか?」


 不満げな顔をした旦那様は、久し振りに会えたのに他にもう少し言う事はないのか…とか、だったら名前で呼べばいいじゃないか…とか何とか、小さな声でブツブツと言っているけれど、今はそんな事気にしている場合ではない。


 何故なら、


 ——旦那様が、一切忍んでいないから!!


 そう、素顔丸出しである。



 こんな楽園の様な領地で暮らせているのだ。


 ハミルトン伯爵領の領民達は、自分達の領主である伯爵様の事をそれはそれは慕っている。

 どれくらい慕っているかと言うと、学校や病院に伯爵様の姿絵が飾られている程だ。


 だから領民達は伯爵様の顔をよく知っている。


 よく知られているにも関わらず、今まさにこの人はそのご尊顔を存分に晒しているのだ。


 旦那様1人が身バレするというのならまぁいいが、こんな状況で見つかってしまえば芋づる式に私の身元もバレかねない。


 折角色々いい感じで進みそうだったのに、今ここで台無しにする訳にはいかないのだ。


 幸い何故か旦那様はいつもの貴族スタイルではなく旅装束の様な物を着ていて、マントにはフードも付いている。


 若いお母さん達がいかにも興味津々といった感じでこちらを見ているが、この格好だしまだ伯爵様だとは気付かれていないはず!


 私はダッシュで近付くと、飛び掛かる様にして旦那様にフードを被せた。出来るだけ顔が隠れる様にと、フードを下にグイグイ引っ張る。


「痛い痛い痛い! やめろアナス……「わあぁぁぁー!!!!」


 普段あれだけ人の事をお前だ何だと言ってた癖に、よりにもよってこんな所で本名を呼ぼうとするとは!!


「(やめて下さい! ここではアナです!!)」

「お、おお、そうか。すまない」


 素直に謝る旦那様。

 ん? 旦那様、何か少し雰囲気変わった? 服装のせいかな?


「久しいな。変わりはないか尋ねようと思っていたが、随分変わった様だな」


 旦那様は苦笑しながら私の姿を見る。


 今の姿はどこからどう見てもその辺りにいる町娘なのでそう言われるのも無理はないのだが、私としては旦那様の話し方がお貴族様っぽくてハラハラしかしない。


「ところで、先程からこの辺りに飛んでいる光……「のおぉぉーー!!!!」


 駄目だ! この人余計な事しか言わん!!


 私は子供達に謝りお母さん方に手を振ると、急いで旦那様を馬車に押し込める。


「旦那様! 街に出られるならもう少し街に馴染む努力をして下さいませ!」

「いや、私は別に街を散策したかった訳ではないのだが……」


 そう言われて、改めて旦那様の見慣れない旅姿と何の前触れも無く領地に現れた事実に違和感を覚える。


「……何があったのですか?」

「ああ、急ぎ伝えなくてはいけない事があってな。とりあえず、邸に戻ろう。話はそれからだ」


 私達の様子を察知して馬車の外で控えていたマリーも馬車に乗せ、聞けば馬でここまで来たという旦那様の代わりに私達に付いて来ていた護衛の人に馬に乗って帰って貰う事にした。


 旦那様は危険人物なので馬車からは出さない。

 このまま邸に連行だ。



「ゆ、ユージーン様! 一体どうされたのですか!?」


 突然現れた当主の姿に、マーカスが邸の中から飛び出して来る。無理もない。当主が何の前触れも無く領地に戻ってくるなんて異常事態以外の何物でもないのだ。


「ああ、実は少し困った事になってな。王太子殿下が急な夜会を開催されるとの知らせが来たのだが、正式にアナスタシアも招待されている。夜会は二月後だ」

「……それは、また……」


 私は『夜会? 何だそんな事?』と思ったのだが、それを聞いたマーカスの様子がおかしい。


 横で聞いていたマリーとダリアも心なしか蒼い顔をしている。


 え? え? これってそんなマズい事なの?


「問題は山積みだが、1番はドレスが間に合わない事らしい。王都の邸の者達から状況をまとめた物や手紙を預かって来た。急ぎ確認してくれ」


 そう言うと旦那様は書類や手紙がギッシリと詰まった布袋をマーカスに手渡す。


 その量の多さが事態の深刻さを表している様で、私はゴクリと唾を飲み込んだ。


「かしこまりました。ユージーン様はさぞかしお疲れでしょう。少し休まれますか?」

「いや、時間は一刻でも惜しいのだ。着替えだけ済ませてくるから、邸の皆にも準備してサロンに集まる様に言ってくれ」


 足早に階段を登って行く旦那様が、途中でくるりと振り返る。


「ではまた後でな、アナ」


 マーカス、ダリア、マリーの3人が凄い勢いで一斉に私を振り返った。その表情には驚きが隠しきれていない。


 いや違う、旦那様。

 ここでは普通にアナスタシアでいいんですよ。

 これじゃまるで愛称で呼ぶ仲良し夫婦みたいじゃないですか!




 ——でもまぁ。


 お前って言われるよりは嬉しいから、いい事にしときましょうか。

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