5頁 ゴッホと幽霊兵
その兵隊サンは天井を見つめたまま動きませんでした。
私はその兵隊サンの傍を通り過ぎました。
鼻すじの通った若い美しい兵隊サンでした。
軍隊毛布の名札は『辻 信男(ツジ・ノブオ) 准尉』と書いてありました。
すると、
「ご苦労さま」
と言う声が聞こえました。
振り向くと、辻 准尉でした。
辻 准尉は天井を見詰めたまま笑って居ました。
「辻サンですか?」
私は声の主(ヌシ)を確認しました。
すると、
「そうだったかな?」
と奇妙な返事が返って来ました。
「お名前を、お忘れですか?」
「おナマエ? もう『お名前』は必要なくなった」
そして、
「ツジと云う人間は死んでしまった」
と言うのです。
私は元気付ける様に、
「何を言ってるのですか、辻サンはまだ生きています!」
と言ってやりました。
「・・・准尉サンですか?」
と尋ねると、
「そう書いて有るか。・・・生前はね」
と力無く答えました。
「准尉サンと云う事は、学徒出身ですね」
「ガクト? そんな事はどうでも良い」
「・・・怒っているのですか」
「怒って何かいないよ」
「・・・どちらの大学でした?」
「芸大だった。ゴッホに成りたくてね」
「ゴッホ!?」
「知ってる?」
「はい。耳を切った画家ですよね」
「そう。でも、もう無理さ。このカラダじゃね」
私は辻 准尉の横たわる姿を見ました。
右腕は見えませんでした。
「・・・腕ですか」
と聞くと、天井を見詰めたまま薄笑いを浮かべ、
「足もね」
と顔をしかめて答えました。
私は毛布で覆われた辻 准尉の『下半身』を見ました。
片方の足先に掛けられた毛布の厚みがありません。
「地雷ですか?」
辻 准尉は小声で、
「自分の埋めた地雷を踏んじゃってね。兵隊としては失格だ。バカなんだよ、バカ」
辻 准尉は力なく笑いました。
「災難でしたね。何処で飛ばされたのですか?」
と尋ねると、
「ブナだ。そこで捨てて来たんだ」
と笑って答えました。
私は驚いて、
「え? ブナから? その傷で?」
「うん?・・・うん」
噂によると、ブナで戦った兵隊サンは『全滅』したと聞いてました。
「此処まで百キロは有るでしょう?」
辻 准尉は私の方に顔を向けて、
「よく此処まで来た。かな? そうだよね。ようやく此処に辿り着いて、この待合室でその先に逝くバスを待って居るんだ」
「バスを待つ?」
「そう。あの世行きのバスが来るのさ」
私は辻 准尉にどの様な言葉を返して良いのか分りませんでした。
天井を見詰め話を続ける辻 准尉。
「人間のサダメ(運命)って不思議だね」
私は黙って辻 准尉の話しを聞いていました。
「僕は途中、奇妙な連れが出来てね。その兵隊はガダルカナルから転進して来た『ノムラ』と云う補充兵だった。・・・元気だったよ。片手、片足の無い僕を支えてくれてね。片方の足に竹筒を差し込んでくれたんだ。この兵隊も一週間前にブナで、戦闘機にやられたと話していた。仲間達は蜘蛛の子を散らした様に逃げて、気が付いたらその兵隊は一人、暗いジャングルの中に居たそうだ」
「糧秣(食料)はどうしたのですか?」
と尋ねると、
「うん? 糧秣か。最初の二日間は一人でカンパンと水筒の水で喰い繋いだ。確か三日目だったかな、この奇妙な兵隊と出会ったのは。このノムラと云う兵隊は不思議に糧秣(食料)をふんだんに持っていてね。あの兵隊が居なければこの僕はとっくにこの世には居ないだろうな」
「で、そのノムラさんと云う方はどうなされました?」
「ノムラか?・・・。それがノムラはこの病院の前まで来ると、『後はバスが迎えにきます』と冗談を言って消えてしまったんだよ」
私は驚いて、
「バス? 消えた? まさか幽霊じゃ?」
すると辻 准尉は、
「そうだな。あれは幽霊だ。僕は此処まで来る間に、沢山の幽霊を見て来たからね」
そう言って、天井を見て笑っていました。
辻 信男陸軍 准尉
(昭和十九年東部ニューギニアにて戦死)
つづく
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