7. 失ったもの
Today is life – the only life you are sure of.
(人生とは今日一日のことである。)
「時間」というものはとても大切なものであり、それだけは人類みな平等に与えらえれている。
僕が、「彼女」と過ごした時間は、たったの2か月半程度。
だが、その間の時間は濃密だった。
一緒にお笑い番組を見て笑い、一緒に買い物に出かけ、同じ物を見て、同じ時を過ごした。
その「濃密な」時間は、消え去ったというのか。
博士がコーヒーを口に含んで、再び続ける。
「脳というのは、電気的信号を発する無数の神経細胞で形作られた、一種のネットワークなんだ。この神経細胞同士のつなぎ目に当たるのが、『シナプス』と呼ばれ、電気的信号の伝わり方が変化することによって、私たちの柔軟な思考や行動の切り替えが可能になると考えられている。だがヒトを対象としたこれまでの脳研究ではシナプスの働きを解析する手段がなかった」
僕は恐らく上の空で聞いていただろう。何しろ、ヒビキの記憶がなくなったことがショックでたまらなかった。
「それを解明し、初めて人間と同じような脳を組み込んだのが、このHR-V439なのだ」
それは恐らく物凄いことなんだろうけど、僕にとっては、そんな
「それで、彼女は助かるんですか?」
「ああ。体自体はな。見ろ」
博士が指さした方向には、コンパクトなジュラルミンケースのようなものがいくつか大きなラックに収められていた。
「あれの中に、彼女の『予備パーツ』が入っている。四肢に関しては、そいつを繋ぎ合わせて、神経回路を接続すれば、いくらでも復活可能だ」
便利なものだ。
人間は、戦争などで四肢の一部を失ってしまえば、二度と復活できないが、AIアンドロイドは、まるでトカゲのように修復可能で、再生するという。
「だが、脳の記憶領域だけは別だ。あれを壊されると、そう簡単には治らん。脳自体を予備パーツに代えることは出来ても、記憶だけは難しい」
「でも、パソコンのメモリーみたいなものですよね。メモリーが消去しても復活する
僕は、一応、IT業界で働いているから、そのくらいの知識はあった。メモリーというのは通常、USBやSDなどにデータとして記憶されるが、誤ってそれを消去したとしても、バックアップからデータを復元することができるし、それ専門の業者も存在する。
「理論的にはな」
それだけを言って、博士はどうも煮え切らない態度に見えた。
どうも僕が考えるような単純な話ではないらしい。
ここで話を変えてみる事にした。
「ヒビキ。彼女はどのくらいで治りますか?」
「24時間くらいだな。脳のパーツだけは修復に時間がかかる」
つまり、明日の朝までか。
自衛隊が指定した、八千代の小学校を抜け出したことは多少心配ではあったが、わざわざ抜け出した者を捜索するようなことをするほど自衛隊員も暇ではないだろうし、山田さんのことだ。
うまくやってくれるだろう。
そちらの心配より、山田さんと同じく習志野市にいた、両親のことが心配だった。戦争に巻き込まれている可能性もあったからだ。そもそもあの小学校に両親の姿はなかった。
「博士。彼女が治るまでここにいてもいいですか?」
意を決して、そう告げると、彼は渋々ながらも、
「まあ、いいだろう。2階に寝室がある。そこを自由に使え」
と答えてくれた。
「ありがとうございます」
だが、それよりも博士の気を引いたのは、別のことだったらしい。
「ヒビキ、か。君はそう呼んでるのか?」
「はい」
「……そうか。所有者がどう名づけようと構わないが、こいつの本当の名前は『サユリ』と言う」
「サユリ?」
「そう。その名前、そしてこの容姿。亡くなった私の妻の若い頃をモデルにした」
(マジでか!)
今のが一番驚いたのは言うまでもなかった。このしょぼくれた老人の元・妻というのはこんなに美しかったのか、と思うと複雑な気持ちだった。
博士が説明を加える。
曰く。
元々、秋葉原博士が目指していた研究は、「より人間に近いAIアンドロイドを造ること」だったという。
つまり、今、世の中に出回っている汎用的な量産アンドロイドは、確かに優秀で、人の「真似事」をするのには長けている。
だが、それはあくまでも「模倣」に過ぎないという。
ディープラーニングによって、ある程度は学習をして、成長はするが、メモリーの容量、そして能力値的に、あくまで「ある程度」までしか覚えられないという。
つまり、言い換えれば「一つの分野に特化」したAIが造られている。
運輸業界、建築業界、介護業界、それぞれの用途に特化した、限定的なAIだ。
だが、博士は密かに、この試作439を通して、実験していた。
それが、「より人間に近いAI」であり、「人を助けるプログラム」を組んだ理由もそれが原因だった。いわゆる「汎用人工知能」を実現する研究というか実験だ。
それ自体は、確かにすごいことだし、山田さんが言うように、たったの100万円で売れるような代物ではない。
その理由に繋がるのは、博士と母との繋がりだろう。
「母とはどういう関係で?」
それを口にすると、博士は急に表情を変えて、言い淀んだ。
「それは……」
これは何かあるに違いない、と踏んだ僕は、突っ込んだ質問を続ける。
「過去に何かあったんですね。だから、あなたはこの試作439を100万円という格安の値段で、母に譲った。そして、母から僕に贈られた」
「ああ。そこまで知ってるのか」
再び残ったコーヒーを口に含み、彼は小さく嘆息しながら語ってくれた。
「美穂さんとは大学時代のゼミの研究室で一緒だったんだ」
そんな過去のことは僕は知らないし、母から聞いたこともなかった。
「美しい人だったよ。そして賢かった。私にとっては、憧れの人だった」
まさか若い頃の母に思いを寄せていた人と出逢うとは思わなかったし、それがこんな優秀な博士というのも、息子の僕には複雑な気持ちがする話だった。
ちなみに、母は現在、千葉市で高校の教師をしている。
「ある時、意を決して告白したんだが、振られてしまってね。その時、美穂さんにはすでに思い人がいることを知った。それが君の父だということもね」
衝撃だった。
父と母が、大学時代の同級生ということは知っていた。
だが、その二人の間に、さらに博士が絡んでいるとは、さすがに想像もしていなかった。
つまり、父にとっては、博士は「恋敵」になる。一体、この3人の間に何があったのか。その具体的なことまでは知る由もなかったし、今、ここで追求しようとは思わなかった。
ただ、一つ。
「だから、せめて母に格安でAIを譲ろうと。未練があるんですか?」
失礼な言い方と知りながらも、聞いていたが、博士は首を振った。
「違う。詳しくは伏せるが、社会人になってから、私はちょっとしたことで、美穂さんに迷惑をかけたことがあった。それが心残りだった。だから、せめてもの償いさ。美穂さんに息子がいることは知っていたから、その息子にあげるようにと私が言った」
運命とは、「巡る」ものであるらしい。そして案外、「世間は狭い」。
もし、博士が母と出逢わなければ。もし、博士が母に迷惑をかけるようなことをしなければ。
僕と「彼女」は出逢わなかった。
ちなみに、聞いてみると、この「HR-V439」は試作型だから、市販で売るつもりはなかったというが、もし売ったとしたら、値段は軽く1000万円は下らないという代物らしい。
つまり、100万円というのは本当に法外に安い値段だった。
その日、僕は博士のラボに泊めてもらうことにした。
そして、疲れていた僕は、早めに就寝したのだが。不思議な夢を見た。
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