第36話 ラウロと黒い影

 ラウロは、何かを警戒している様子で、僕の肩を強く引き寄せた。直後、離れた場所にある本棚が、なんの前触れもなく倒れた。そのせいか、風が吹いた。生暖かい風だ。驚いて僕が見ると、倒れた本棚の脇で、吃驚したように手を上げて、本棚を見つめる黒い影があった。どこからか現れたその影が、ゆっくりとこちらを見た。女の顔が、笑っているのが分かった。


「遙人、俺に掴まっていて。」


 ラウロが、僕に言った。黒い影は、人の姿をしている。綺麗な女の顔をしているが、普通の人より大きくて、ちょっと笑顔が薄気味悪い。僕たちの方に、両腕を伸ばしてきている。僕たちのところまでは距離があるのに、それがこっちまで伸びてきそうな錯覚がした。


 僕は、ラウロの後ろに隠れるようにして、ラウロに掴まった。ラウロが勢いよく、何かを払い除けるように右腕を振った。その時、僕の右横を素早く何かが移動して動いた。


 何が起こっているのか分からないが、白い光に包まれていた部屋が、上と下から色が変わってきている。光が侵食されて、薄いグレーから濃いグレーへと徐々に染まっている感じだ。特に下が、広い範囲ですでにグレーになっていて、足が何かに埋まっていくような感覚に僕は襲われていた。重い空気の塊が足を撫でてくるみたいで、とても気持ちが悪い。


 向こうの黒い影も、いつの間にか二人に増えている。ラウロが危ないと言っていたのは、恐らくこの事だったのだ。僕は、何かの気配がして上を見た。そして、その場にしゃがんだ。天井から逆さ吊になって、両手を伸ばしてきている黒い影が見えたからだ。


「うわっ!」


 そうして、尻もちをついた僕の足を、誰かが引っ張った。僕は、ラウロから手を離してしまっていたため、そのまま床を引き摺られた。


「遙人っ!」


 一瞬、空気がぶつかるようなパンッという凄く短い音がした――と思ったら、僕のすぐ脇に人影が現れた。僕の足を掴んでいた感触は、消えていた。


 僕の名前を叫んだのはラウロだったが、僕の足を掴んでいた存在を、足で踏んで追い払ってくれたのは、タフだった。タフは、床に倒れている僕を抱き上げた。


「ありがとう……!」

「遙人、こんなところに来たら駄目だろ。」


 僕はお礼を言って、タフに抱き着いた。タフは一つ息を吐いて、声を落として言った。ラウロも、タフの姿を見つけて声を掛ける。


「良いところに来た! タフ、遙人のことは任せる。」

「俺たちは、先に帰らせてもらうよ。」


 ラウロはタフに言うと、黒い影たちの方にすぐ向き直ったが、タフの言葉には頷いた。黒い影たちは目配せをしながら、何かを企む顔をして、僕たちを見ている。


 タフは、そんな事など気にせず、僕を抱えたまま出入り口へと向かった。天井から手を伸ばしていた奴と、部屋中に広がるグレーなやつが、僕たちを追って来ていた。僕は、タフの代わりに後ろを見ていた。出入り口の手前で、タフが立ち止まった。その間にも、奴らが後ろから迫って来るが、黒い影たちは見えない壁に阻まれてでもいるかのように、少し距離を置いたところから近付いてこない。一方で、タフも外に出られないみたいだった。


「タフ兄ちゃん、どうしたの? 出られないの?」


 ラウロが対峙している遠くの黒い影たちが、恐ろしい形相をしている。何をしているのかは見えないが、ラウロが何かしている様子だ。


 ラウロは、こっちを振り向いてから、僕たちのほうに体を半分向けた。足を一歩踏み込むと同時に、手を少しだけ動かした。すると、僕たちを追いかけてきていた黒い影も、苦しそうにし始めた。黒い影が、徐々に小さくなっているように見えた。


「こっちだ……!」


 どこからか、微かに声がした。僕は、気になって声がした方向を探した。何の姿も見えなかった。でも、タフは動いた。


 そうかと思ったら、いつの間にかビルの外に出ていた。タフは、僕を下ろした。


「もう大丈夫なの?」


 状況が全く把握できていない僕は、左右に目をやりタフに確かめながら、タフにもう一度抱き着いた。タフも、僕の背中に腕を回してくる。


「ああ、大丈夫だ。」


「さっきのって、何だったの? ラウロ兄ちゃんを置いてきちゃったけど、平気かな?」


 僕は、ラウロのことが心配になると同時に、その唐突な出来事と展開に気持ちが追いつかず、混乱していた。それから、今の今まではそれほど感じていなかった恐怖心を、少しずつ心に湧き上がらせていた。――理解できない事が、たくさんあり過ぎた。


 あの黒い影たちの形相や、足を掴まれたこと、奴らが後を追ってきた事実が、脳裏で鮮明に思い出された。そして、僕は急に怖くなった。ラウロも、初めに危ないと言っていたし、かなり良くない状況に巻き込まれていたのではないかと、今になって僕は気付いた。


「ラウロのことは、心配ないだろうと思う。」

「本当に? ラウロ兄ちゃんは、危ないって言ってたけど。」

「ラウロは、ああいった場所を探して、自ら足を踏み入れて行っているから、一人で対処できるはずだ。」


 タフは、ラウロが自ら好きでやっているようなことを言う。だけど、何のためにそんな事をするのか理解できない僕は、それを信じられなかった。


「それって、今日みたいな事をラウロ兄ちゃんは、いつもやってるってこと? それって、危険はないの?」


 ラウロは、急に現れたタフに驚きもせず、タフを完全に信じているような態度を取っていた。タフは、そんなラウロの事情に詳しい様子である。アンドルーに対しては、カルロスもラウロも分身だからという理由で、区別した態度を取っているが、タフとラウロの関係性はどういうものなんだろうと、僕は思った。


「危険はあるかも知れないが、本当に危ないと思ったら近付かないだろ。」

「それは、そうだろうけど。」


 いずれにしても、ラウロにはああいうのを退治する力があるということだ。そう思いながら、僕はタフを見た。タフ自身も、ラウロに退治されたと前に言っていた。


「ねえ、あれって幽霊なの?」

「幽霊? 幽霊では、あるかも知れない。だが、遙人が考えているような幽霊ではないかもな。遙人が、アニメで見たりして知っているイメージで例えるなら、幽霊と言うよりは妖怪に近いかも知れない。」

「妖怪? 幽霊と妖怪って、何が違うの?」

「幽霊は生き物の残りカスみたいなもので、妖怪は意志を持っている。そんなイメージなんじゃないのか?」


 タフからしたら、幽霊はそのように見えている――ということなのだろうか。タフが言いたいことの主旨は理解できたが、僕は首を捻った。


「タフ兄ちゃんは、幽霊は見えるの?」

「見える。」


 見えないことはないだろうと思ったが、タフがあれは幽霊ではなく妖怪に近いと言うので、僕は確認のために聞いた。当然、タフは幽霊も見えると答える。


「そうなんだ……。」

「今回は、達也に助けられたな。」


 人は死んだら必ず幽霊になるのかなと、僕はそんなことを考えていた。ところが、この場にいない達也の名前をタフが出したので、僕はそっちの方に気を取られた。


「達也兄ちゃん? どういうこと?」

「達也が、道を作ってくれたんだよ。遙人は、さっきまでいたのが特殊な空間だったことに気付いていたか? 窓の外は、見なかったか?」

「窓の外?」


 タフに言われて、僕は思い返した。大きな窓から、たくさんの光が差し込んでいたことは覚えている。その窓の外と言われても、そういえば馬車が走っていたかも知れない。


「馬車が通ったり、他にも建物の雰囲気や、人の服装とか、現代の物とは違っていなかったか?」

「うん、違ってたかもしれない。」

「あれは、時間も場所も此処とは全く異なる空間だ。ラウロはともかく、そこに何故だか遙人も踏み込むことができていた。俺は、遙人との繋がりによって何とか追跡できたが、外に出る時は、その空間の壁を越えることが出来なかった。だけど、達也がこっち側にいて場所を示してくれたお陰で、そのリンクを追って戻って来ることが出来た。」


 タフが、タイムトラベルみたいなあまりにも突飛なことを言うが、それを思わせる事象は確かに発生していたように思える。僕は、信じる信じないではなく、ロックハート家の人たちと関わると、こんなにも摩訶不思議な出来事が、日常と隣り合わせで起こるのかと、そのこと自体に驚いていた。


「へえ、そうなんだ。達也兄ちゃんは、どこにいるの?」


 僕は、周囲を見回した。知らない人が一人、遠くから歩いて来るのが見えるだけだった。反対の方向は、道がカーブしているから遠くまでは見えない。


「達也は、大学にいるみたいだな。」

「えっ、近くにいないの?」

「見える範囲にはいない。先に帰ろうか。」


 タフが、僕と手を繋いでくる。僕は、さっきまでいたビルの窓を振り返った。部屋の中から見たのとは、窓の大きさが違っていて、一階は縦長の細い窓が二つあるだけだった。タフがギュッと強く手を握って僕を引っ張るから、ビルからはどんどん距離が離れていく。


「ねえ、タフ兄ちゃん。怒ってるの?」

「え……、怒ってないよ。どうかな、怒っては……いない。この感情は、怒ってるんじゃなくて、遙人のことが心配になっただけだ。……俺は、遙人のことを本気で愛しているんだな。」


 独り言みたいに、タフはだんだん声が小さくなりながら、ぶつぶつと呟いた。家に着くまでの間、タフは黙ったままだった。家に着くと、タフはお風呂に入ろうと言った。

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