第8話 嫌な気配

「お兄さん、承知してくれて良かったね。」

「うん。ただ、まだどこに行くかは決まってないんだけど。」


 しばらくカールと二人で話したが、どこに行くかは決まらなかった。カールが帰った後、僕は二階のアンドルーの部屋に向かった。


「アンドルー兄ちゃん、大丈夫? 体調でも悪いの?」


 アンドルーは、ベッドに横になっていた。僕が近くまで行くと、アンドルーは体を起こした。


「ちょっと頭が痛かっただけだ。」


 そう言うと、アンドルーはおもむろに僕を抱き寄せた。アンドルーが、「少しの間、こうしていてもいいか?」と聞くので、僕は「うん、いいよ。」と答えた。達也も、僕の母の千春が病気で死んで以降、たまに同じことを言って僕にこうしていた。達也の場合は、達也自身が寂しい気持ちになってそうしていたわけではなく、僕を安心させようとして敢えてそうしていたのだと思う。


「遙人は、俺がいなくなったらどうする?」

「アンドルー兄ちゃん、どっか行っちゃうの?」


「遙人が、俺にいて欲しいなら、ずっといるよ。」

「いて欲しい。アンドルー兄ちゃんがいなくなったら嫌だ。」


 アンドルーの背中に、僕も腕を回した。どういうつもりで、アンドルーが言ったのかは分からない。でも、単なる冗談ということでは無いような雰囲気、であるように思えた。


 僕の父は、女好きだからか知らないが、あまり子供の面倒を一生懸命に見るタイプではない。だから、父と達也と三人で暮らしていた頃は、達也が父親みたいな感じだった。そんな達也とは違う安心感を、僕はアンドルーにも感じていた。子供には、そういう存在が必要で、僕もそれを求めているのだと思う。


 アンドルーは、「もう頭痛も治まったし、大丈夫だ。」と言って僕を離すと、不意にチュウをしてきた。大人は、なぜ子供にチュウをしたがるのか分からないが、そういうところは面倒くさいと僕は思った。


 その日の夜、明日も学校があるから、僕はいつものように十時を過ぎた頃に布団に入った。一旦眠ってしまえば、普段なら朝まで目が覚めることはほとんどない。それなのに、はたと目が覚めた。自然と視線が、ベランダに通じる窓のほうに向く。


 カーテンに影が映っているとかそういうことはなかったが、僕は窓の外に何かの気配を強く感じた。じっとこっちを見ているような、そんな嫌な気配だ。


 怖くなった僕は、達也のベッドのほうを見た。暗がりの中で布団がこんもりしているのが分かる。目覚まし時計を見ると、深夜の二時十四分を表示するデジタル文字が光っている。


 僕は少し迷った末に、布団を出て、達也のベッドにもぐり込んだ。達也が身じろぎをして、起きたような気配がした。


「達也兄ちゃん、一緒に寝てもいい?」

「ん? いいよ。」


 達也はそう言うと、ベッドの片側にもぞもぞと位置を移動して、またすぐに寝息をたて始めた。窓に、鍵は掛かっていただろうか? そんなことが気になったが、カーテンを開けに行く勇気はなかった。


 窓の外の気配は、一向に消えることはなかった。位置を移動したり、苛立っているような、そんな感情の変化まで感じられるようだった。それが、ただの錯覚なのか夢なのかも見分けがつかない。僕は、ただただ怖くて達也にくっ付いていた。


 何分くらい経っただろうか。まだ、全然時間が経っていないような気がするが、不運なことにおしっこがしたくなってきた。時計を見ると、三十分くらい経っていた。もうすぐ小学六年生になるし、いつもなら夜中でも一人でトイレくらい行けるのだが、今は一人で行きたくなかった。朝まで我慢するか、達也を起こして付いて来てもらうかで、僕は悩んだ。


 どうしようかと悩んでいると、余計に尿意が増してきた。そして、どうしようもなくなってくる。その時だった、ドアの向こうの廊下から足音が聞こえた。重たい足音で、少しするとトイレの水を流す音が聞こえた。


 僕はチャンスだと思って、慌てて達也のベッドから転がり出て、階段の奥にあるトイレに向かった。トイレのドアが開き、灯りが漏れてくる。


「やっぱり!」


 僕は、トイレから出てきたアンドルーに抱きついた。足音から、アンドルーではないかと思ったのだ。


「アンドルー兄ちゃん。僕が終わるまで、ここにいて。」


 そう言って、僕はトイレに駆け込んだ。正面に小便器があり、横に洋式トイレのドアがある。一階にも、脱衣所の隣に同じ造りのトイレがある。僕が、無事にトイレを終えて出てくると、体の大きなアンドルーがドアの前に立ちはだかっていた。


「アンドルー兄ちゃん、一緒に寝てもいい? 窓の外に、変な気配がして、こっちを見てる気がするんだ。」

「わかった。じゃあ、俺の部屋で一緒に寝ようか。」


 アンドルーが、自分のベッドに僕を招き入れる。アンドルーは一人で部屋を使っているし、ベッドも大き目だから、アンドルーの体が大きくてもスペースに余裕がある。


「また来たッ!」


 ベッドに落ち着くよりも前に、窓の左から凄い勢いで、嫌な気配が来るのを感じて、僕は窓のほうに目を取られた。僕は、布団に隠れるようにして、アンドルーの腕枕に入った。


「大丈夫だ。あいつは部屋の中には入って来られないから。」


 アンドルーが僕を軽く抱き寄せ、淡々とした口調でそう言う。僕をなだめるために、適当な事を言ったのかどうかの判断はつかなかったが、不思議と安心できた。


「アンドルー兄ちゃんにも分かるの?」


 カーテンの向こうだから、目に見えているわけではない。気配がするだけだ。だけど、アンドルーは「わかるよ。」と答えた。いつの間にか、部屋の電気は消えていて真っ暗になっていたが、怖さはなかった。まだ、夜は冬の寒さがある。でも、春の日差しにでも包まれているかのように、アンドルーの腕の中で僕は眠ることができた。


 朝になると、嫌な気配は無くなっていた。とりあえず、僕は普通に学校に行くことができた。約束をしているわけではないが、家の前の坂道を下ったところで、カールと落ち合い登校した。


 学校にいる間も、授業を受けて、友達と遊んで、昨日の夜のことを思い出すことはなかった。だから、僕はそのことをすっかり忘れていて、友達にも話すことはなかった。

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