第5話 アンドルーのお願い

「アンドルー兄ちゃんのお願いって、なに?」


「遙人が、俺たちのことを好きになってくれること。好きっていう気持ちを、全面的に向けてくれること。それが、俺たちの一番の願いだ。」

「アンドルー兄ちゃんのことは、わりと好きだよ。」


 大したお願いじゃないなと思いながら、僕は答えた。でも、なんだか面倒くさいことを言われているような、そんな気分にもなった。それに、アンドルーはさっきから俺たちと言っている。


 俺たちというのは、カルロスやラウロを含めてのことだろうか。僕は、出会ったばかりの人たちのことを、好きになれと言われても、感情の話だから……そんなこと約束は出来ないと思った。アンドルーのお願いが、そういう話だとすると……難しい。


「俺たちが求めているのは、そういう言葉じゃないんだよ。まあ、好きって言ってくれること自体は、気持ちとしては嬉しいけどな。それに、俺だけじゃなくて、カルロスやラウロ、親父のルーカスもってことだ。」


 アンドルーが、カルロスやラウロだけではなく、ルーカスの名前も出したので、僕はルーカスが前の家を訪問してきた時のことを、思い出した。アンドルーたちと、こうして一緒に暮らすことになったのも、ルーカス・ロックハートがそういう条件を出してきたからだ。


「ええ、よく分かんない。」


 とりあえず、僕はそう言って返した。達也に怒られそうな、予感がした。すると、アンドルーは仕方ないなという顔をする。


「そうだろうな。まあ、今回は湊たちの気持ちを楽にしてやるだけだったら、遙人のチュウで引き受けてやってもいい、ってことにしてもいいけどな。」

「えーっ! チュウ? そんなの気持ち悪いよ。」


「子供は恥ずかしがって、そういう事をよく言うけど、チュウは気持ち悪いことじゃないぞ。愛情表現だったり、親愛の証としてする行為なんだから。親子でも他人でも、好きな者同士ならやってるだろ。」

「ホントに?」

「嘘だと思うなら、達也にでも聞いてみたらどうだ?」


 アンドルーがそう言ったのは、恐らく達也と僕がチュウをすると思っているからだ。僕が、兄の達也とチュウをするのであれば、同じ兄弟なのだからアンドルーとチュウをするのも普通のことで、何もおかしなはないという理屈だろう。


 言われてみれば、達也もたまにチュウはしてくる。だから、アンドルーは嘘を言っていないかも知れないと僕は思い、アンドルーのほっぺにチュウをした。


「これでいい?」


「短い! 愛が感じられない。それに、口じゃなきゃ駄目だ。十秒。」

「でも、達也兄ちゃんはほっぺにするよ。」

「達也は、ほっぺで良いと思ってるんだろうけど。俺は、口を希望する。ちゃんと好きって気持ちを込めてしてくれないと、意味がないんだぞ。愛情表現だから、愛がないと。」


 アンドルーが、口を突き出してくる。仕方なく、その口に僕はチュウをした。目を瞑って、心の中で十秒数える。……八、九、十。数え終わり、口を離して目を開けると、アンドルーと真っ直ぐに目が合った。


 何故だか、アンドルーは真っ赤な顔をしていた。怒っている風ではない様に見える。アンドルーは僕の脇を抱えて、膝の上から横に移動させた。ソファーから立ち上がり、リビングから出て行く。階段を上がっていく重量感のある足音が、聞こえた。


 十分から十五分くらいで、足音とともにアンドルーが戻ってきた。僕がテレビをつけて見ていると、またアンドルーが隣に腰を下ろして、僕の肩に腕を回してくる。

「どこに行ってたの?」


「湊には話しておいたし、兄弟にも伝えておくように言っておいたから、もう大丈夫だ。あとは、孝介たち兄弟の方だな。」


 僕が聞くと、アンドルーは答えた。どうやら、湊たちの部屋に行っていたらしい。僕が頼んだことを、さっそく実行に移してくれたということだ。


「遙人、今日は宿題は無いのか?」

「算数の宿題がある。」

「俺が見てやるから、早く終わらせたらどうだ?」


 僕は、ソファーの横に置いてあったランドセルから、宿題を取り出して、テーブルに広げた。アンドルーがすぐ後ろのソファーに座って、上から覗きこんでくる。

「なるほどな。そういえば、学校はどうだ? もう慣れたか?」


「うん、慣れた。僕のちょっと後にも、もう一人転校してきた子がいて、カールっていうんだけど、その子と一番仲良くしてる。アンドルー兄ちゃんみたいに、金髪で緑色の目をしたカッコいい子。」


「へえ、上手くやってるんだな。」

「うん。」


 夜になって、みんなが帰ってくると、アンドルーは湊以外の兄たちにも話をしてくれたみたいだった。そして、その兄たちの事を、アンドルーは父にも話した。


 僕は、達也と二階のお風呂に入った後、一階のキッチンでお茶を飲んでいた。アンドルーと父が、ダイニングテーブルで話すのを聞いていると、どうやら高校を卒業したら就職することになっている孝介が、就職した後もこの家に残りたいと言っている――そんな話だった。


「父さんは、子供たちに就職したら出ていって欲しいなんて思っていないから、孝介の好きにすればいいんじゃないか。」


 父は、アンドルーから話を聞くと孝介を呼んで、そう言った。他の兄弟たちも、それを聞いて安心したような表情をしていた。ただ、ラウロだけは少し違っていた。


「アンドルー、少しばかりズルいんじゃないのかな? カルロス兄さんの指示でやったの? それとも、親父が絡んでるの?」

 とラウロは小さい声で、アンドルーに文句を言っていた。それに対してアンドルーも、同じようにして答える。


「指示はないが、みんなのためだ。それが、俺の役目だからな。」


 アンドルーはそう言って、階段を上がって行った。僕は、そんな二人の様子を垣間見て、ロックハート家の兄弟は仲が悪いのかなと思った。アンドルーとラウロがいなくなると、キッチンからリビングに移動して話を聞いていた達也が、孝介に近付いて声を掛けた。


「孝介は、就職したらこの家を出て行かないといけないなんて、考えてたのか?」

「俺は兄貴と違って、ずっと母さんと暮らしてたし、ここに来る前から就職しようって決めてたから。父さんの世話になるのは一時的なことで、俺が就職したら部屋を借りて、智樹と二人で暮らそうと考えてるって、母さんにもそう話してたんだ。それで、母さんも納得して、父さんに俺たちのことを頼んだんだよ。」


 昔は、達也も一ヶ月に一回とか、たまに孝介と智樹の二人には会って、遊んであげたりしていたらしい。僕が生まれて間もない頃までのことだ。


「母さんが、交際相手と再婚したがっているのは見ていて分かったし、俺たちも母さんの邪魔にはなりたくなかったから、早めに自立した方が何かと上手く行くと思ってさ。」

「そっか。でも、本当に大学には行かなくて良いのか? お金のことを心配してるんなら、俺も来年には大学を卒業するし、父さんも学費は出してくれると思うぞ。」


「別に勉強したいことがあるわけじゃないし、就職先もちゃんと決まりそうだから、いいんだよ。でも、智樹が大学に行きたいんなら、行かせてやりたいかなと思って。」

「お前、ここに残りたいっていうのは、智樹の学費を貯める為か? 馬鹿だな。相談してくれれば、俺だって一緒に考えてやるのに。」


 どうやら、いま話していることが、孝介が悩んでいたことのようである。恐らく、湊たちの悩みも金銭的なことが絡む、似たような悩みなのだろう。孝介の話を聞いて、僕はそう理解した。


「ありがとう。でも、たぶん兄貴だって遙人のことで、いちいち俺たちに相談したりはしないだろ。それと、同じ気持ちだよ。」

「遙人は、年も離れてるし。俺は何だかんだで長男だから。」

「俺も似たような気持ちだよ。たぶん、家庭が片親だと、年上は年下の面倒を見ないとって気持ちになるんだよ。運命共同体みたいな感覚っていうか。」


 達也は、孝介の頭に手を置いた。二人の体格はほとんど同じだが、達也の方が少し背が高い。優しく静かに微笑むと、達也は「そうか。」と言った。

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