人間をやめた日 ー Ⅰ
目の前で起こっている光景は、本当に現実のものだろうか。
もしかしたら、私はまだ飛行機の中で寝ていて、ここは夢の中なのかもしれない。
そんな
鉄の臭いがするその液体は、目の前で引きちぎられていく人間から飛び散った血液だ。
生き残った人たちはみな、少しでも後ろに逃げようと必死に
しかし、
噛みちぎられるその瞬間まで、彼らは絶望と恐怖の叫び声を上げ続けていた。
そして、その声が
指先が氷のように冷えている。
震える身体を押さえつけるように、自分で自分を抱きしめた。
「
逃げることはおろか、立つこともできない私の耳に、シンの声が聞こえてくる。
わけも分からず窓の方を向くと、シンは感情の読めない瞳でじっとこちらを見つめていた。
「なに、言って……。そもそもシンは外にいるじゃないですか! 中に入れるなんて、いったいどうすれば……!」
「落ち着いて永遠。大丈夫。君が一言了承すれば、中に入るのは難しいことではないんだ」
「それはどういう……」
一気に鳥肌が立つような感覚。
異形の目が、こちらへと向けられている。
言葉はない。確証もない。
けれど確かに、
死の気配を近くに感じる。
このままだと私も、間違いなく殺されてしまうだろう。
嫌だ……死にたくない。
まだ沢山、やりたい事が残ってるのに。
こんなところで、死にたくなんかない──!
「シン! 中に入れる! だから……、私を助けて!」
「契約成立だね」
異形が血の海を渡って進んでくる。
やっと立ち上がれた身体は、足元がふらつき、そのままバランスを崩してしまう。
通路側へと倒れ込んでいく私の手を、誰かの手がしっかりと握った。
「シン……?」
いつのまにか、シンが機内に立っている。
そのまま身体を引き上げてくれたことで、シンと直接向かい合う形になった。
こちらに進んでいた異形は、シンの姿を見るなり何故か動きを止めている。
「助けてくれてありがとう。でも、どうやって中に?」
「どういたしまして。契約者の元へなら、どこにでも無条件で行けるようになってるんだよ」
「契約者……?」
そういえば、最初に言葉を交わした時も、シンは私のことを適合者と呼んでいた気がする。
契約者、それに適合者……。
どうしてそんな呼び方を──?
動きを止めていた異形が、再び動き始めた音に振り向く。
異形は私たちの横を通り過ぎると、さらに後部の人間の元に向かって進んでいるようだ。
「え? どうして……」
「優先順位が変わったんだ。ちょうどいいから、今のうちに済ませておこうか」
そう言って微笑んだシンが、私に向かって手を伸ばしてくる。
突然、喉から何かが迫り上がってきた。
「ごほっ……!」
赤い液体がぼたぼたと口から垂れ、機内の床を染めていく。
「なに……が……」
視線を下に向けると、胸元にシンの腕が見えた。
腕の先は身体の中に埋まっており、まるで心臓を握られているかのような、妙な感覚が広がっている。
「ど、して……? シン……」
痛みと困惑の中、目の前が
「言ったでしょ? 中に入れてって」
シンの赤い目が鮮やかに光を放ち、その美しい
もう片方の手で私の頬を撫でるシンが見えたのを最後に、私の意識は暗闇へと落ちていった。
★ ★ ★ ☆
「わー! まだ死にたくないシンの馬鹿ーーー!」
叫び声と共にパチリと開いた目。
床に倒れ込んだままの自分に、現状が把握できず戸惑ってしまう。
「あれ……? 私、どうなって……」
身体に痛みは感じられない。
それどころか、ものすごく軽いように感じる。
不思議な気持ちのまま、とりあえず起き上がろうと身体に力を込めたその時、目の前に何かの影が落ちてきた。
「え……?」
ポタポタと降ってくる生温かい液体と、そこから
床に横たわった身体の上から、私を
湧き上がる悲鳴を喉で押し殺し、
ヌメヌメした体と、
そこから見える長い舌は、先ほどまで機内の人々をいともたやすく
床を蹴り、異形の下から抜け出すと、さらに距離を取ろうと視線を上げる。
しかし、そこでふと違和感に気がついた。
「どうして
意識を失う前、
けれど、今は不自然なほどおとなしく、静かにこちらを見つめてくるだけなのだ。
それどころか、異形は私を──。
「とりあえず、そのままスパッとやっちゃおうか」
突然聞こえた声に、一瞬思考が停止する。
「へ?」
周りを見渡すも、辺りは一面血の海で、生存者らしき人は見当たらない。
しかし、確かに聞こえた。
聞き覚えのあるその声は、耳元で
「もしかして、シン……?」
「そうだよ」
恐る恐る問いかけると、その声はさも当然と言うように肯定を返してくる。
「え? どういうこと……? いやそれよりも、今何処にいるの!?」
声は聞こえるのに、シンの姿は何処にも見当たらない。
身体中に現れたそれは、まるで
腕や足、腹部など、至る所に現れており、見方によってはお洒落なタトゥーのようにも思えるだろう。
もしその紋様が、動いてさえいなければ……。
真っ赤な血流のように流れる紋様は、動きながら形をどんどんと変えている。
初めは身体中に広がっていた紋様も、気づいた時には左腕だけになっていた。
「僕はここだよ、永遠」
シンの声が聞こえると共に、左腕の紋様が手の方へ向かって広がっていく。
手のひらにまで広がった紋様は、何故かそこでニコちゃんマークのような形に変わった。
「私の身体に、ニコちゃんマークが……」
「可愛いでしょ」
「ちょっと……、微妙かな」
私の返事を聞いたシンは、「えー、ひどいよ永遠。傷ついちゃう」なんて言いながら、悲しそうな声を出している。
ご丁寧にも、手のひらのニコちゃんマークを、泣き顔マークに変えてくるおまけ付きだ。
……何だか、シンと話していたら少し落ち着いてきた。
聞きたいことは山ほどあるけれど、それはいったん後回しで構わない。
ここから無事に帰れたら、いくらでも聞く時間はあるはずだから。
今は、こちらを見続けたまま動かない異形をどうするかの方が重要だ。
しかし、私が何かを言うよりも早く、突然機内が大きく揺れ動いた。
床を
「えっ、なに!?」
「
「つ、つつ墜落!?」
「うん。墜落」
平然とした声で話すシンに、思わず現状が分かっているのかと問い詰めたくなった。
どうすればいいか分からず半泣きになる私に対し、シンは何やら考え事をしているようだ。
「さすがに飛行機と同じ場所に落ちるのは良くないか」
なんて呟きが聞こえてくる。
「永遠。さっきも言った通り、そのままスパッとやってしまおう。脱出するなら早い方が都合も良さそうだしね」
「はい?」
訳も分からず聞き返した私の手から、一部の紋様がスルスルと抜け出していく。
そして、その紋様は刀へと形を変えると、そのまま吸い付くように私の手中に収まったのだ。
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