3 偽りの少女
行く当てのなくなった彼女は、どこをどう歩いたかも、もう覚えていない。
都市を出て、森を進み、いつの間にか夜が明け、ちょうど大きめの滝が見える崖のような場所に出た。
少し離れたところに魔物のゼイルベニアがいるが、一角獣ゼイルベニアはこちらが刺激しない限り人を襲うことはない。
それに、もはや自分は生に対してもあまり執着がなくなっていた。
このまま行けば、自分はここで野垂れ死ぬ。
魔物に殺されるのと飢餓で死ぬの、どちらの方が辛くないかを考えてしまうほどだ。
「わたくし……。一体なんのために頑張ってきたの……」
ポツリと漏れ出たその言葉により、今まで心を支えてきたすべてが崩れてしまう。
ずっとギリギリのところを持ちこたえてきたのに、それももはや
涙が勝手に流れて、嗚咽すらも発せない。
物心つく前から、ずっと訓練と勉強の毎日。
父に木刀でぶたれて、体はあざだらけ。
痛みで夜も眠れない日だってあった。
でも、ずっと頑張って来れたんだ。
なのに――
今の自分には、何も残っていない……。
虚しさだけが込み上げて来て、もはやどうでもよくなってしまった。
あるいは、この崖から身を投げれば、すべてを終わらせることもできよう。
そうだ。
居酒屋で母と話していた男だって言っていたじゃないか。
誰も私の事なんて気にしない。
唯一自分を気にしてくれるはずだった人は、もう自分の方を見ていないのだから。
もう何も考えなくていいとそのまま進もうとした瞬間、違和感を覚えた。
すぐ後ろで唸り声がする。
何かと思って振り返ると、そこではゼイルベニアが歯を剥き出しにして殺意をこちらに振りまいていた。
おかしい。
ゼイルベニアは草食であるため歯を剝き出しにする威嚇なんてしないし、そもそも積極的に人を攻撃する魔物でもない。
だが、目の前にいるそれは、まるで敵対種でも見つけて何が何でも殺してやるというような瞳をしている。
訓練で体に染みついた習慣というのは恐ろしいもので、今まで自身の死のことを考えていたはずなのに、勝手に体が戦闘態勢を整えてしまった。
一角獣が突進してくる。
人を遥かに凌駕する脚力で踏み込み、その頭部にある鋭い角で突かれれば、子どもの彼女は一溜りもないであろう。
彼女は武器を一切持っていないので、魔法で応戦する。
「【サンダーストライク】、【モレキュラーシールド】」
雷弾を放って自身には防御魔法を。
相手は雷を受けながらも構わず突っ込んできたため、すんでのところでこれを回避。
父の木刀よりも遅いため、さほど難しい話でもない。
再び雷弾を放って相手を弱める。
だが、彼女の戦闘意欲は戦えば戦うほどに下がってしまった。
自分は相手を殺したいんじゃなくて殺されたいはず。
なら今自分が取っている行動は、大嫌いな父に仕込まれた反射行動のようなもので、本当にやりたいことは逆になる。
そう自覚してっしまうほどに、体は動かなくなっていき、やがて詠唱は止まってしまうのだった。
ゼイルベニアが再び突進してくる。
そうだ、このまま終わればいいんだ。
一角獣が迫る。
私にはもう、何もない。
――さようなら、お母様……。
「【アクセルバースト】!」
あと瞬き一つ分というところで、声が聞こえて来た。
少女が目の前へと躍り出て、光り輝く剣を振るう。
すると、一太刀でその首を両断してしまうのだった。
すぐさまこちらへと振り返り、
「大丈夫!? けがは?! 刺されてない!?」
その子からかけられる声に茫然としてしまった。
長い黒髪に赤目を持つ彼女は自分と同じく十歳くらいであろうか。
その頭には髪と同じ色の角が二本。
つまりは魔族だ。
「……はい、無事です。……ですが、無事でない方がよかったです」
そんなことを口にしてしまう。
「無事じゃない方が? どういうこと……?」
当然訝し気な表情を返されるわけで。
「わたくしは今、死のうとしておりました。あなたがこの場を去り次第、身を投げるつもりです」
「ぇ……。なんで、そんなこと、しようとしているの?」
「もう……、誰もわたくしのことを気にかけてはくれません。わたくしは生きていく術もございません。どうせ野垂れ死ぬのでしたら、こちらの方が苦しまずに済むかと思いまして」
そう言うと、魔族の少女が歩み寄って来て、静かにその両肩を持ってきた。
「死んじゃダメだよ。死んだら、全部おしまいだよ」
「……。では、わたくしは一体なんのために生きればよいんですか? お父様のために頑張って、お母様のために頑張って。なのに、わたくしには、もうなにも残されていない」
「あなたのために頑張るんだよ!」
必死な表情で、そんなことを言ってきた。
「……。自分一人で生きて、なんになるんですか?」
「そ、それは……。そ、それを探すんだよ! 必死に生きて!」
何とか言葉をひねり出そうとする彼女に、少しだけほくそ笑んでしまう。
この魔族はどうして出会ったばかりの自分にそこまで肩入れしてくるのであろうか。
「そんなもの……。たぶん、わたくしには見つけられない……。今日のご飯すらないんですもの」
「あっ! ちょっと待ってて!」
その魔族はすぐさま彼女の飛び出して来た方へと小走りに行き、バスケットのようなものを持ってくる。
「これ! あたしの昼御飯だから全部あげる! あとこれもっ!」
彼女は財布を取り出して、あろうことか袋ごと押し付けてきた。
「全部上げる! あたしは今日このあと魔族領に帰る予定だから、もうなくても大丈夫なのっ! だからお願い。死ぬなんて悲しいこと言わないで!」
「……。少なくとも、今日は死ななそうですね。明日はわかりませんが……」
意地悪くそう言うと、少女はあたふたとしながら、何かないかとキョロキョロし、やがてこんなことを言ってくるのだった。
「……うち、来る? お父さんにお願いしてみるよ。魔族の村だから、人族だと肩身が狭いかもしれないけど。ただ、レイナが……」
そんなことまで言って来て、どこまでこの魔族はお人好しなのだろうか。
でも、彼女の言葉で、少しだけ、ほんの少しだけ、生きる気力を分けてもらうことができた。
立っているのすら辛い心持ちではあるが、それでも一歩だけは歩いてみることにする。
「……そうですね。今日一日――いえ、明日も、頑張ってみようと思います。あなたに元気がもらえました」
「絶対だよ、約束だからね!」
「ええ。そうしましたら、街に戻ろうと思います。あなたはどうされますか?」
「私? えっと、シュラウスの滝を見ながらご飯を食べようと思ったんだけど――」
と言いながら、手に持つバスケットへと視線が行く。
「あ! いいの! それはあなたにもうあげたものだから! 私はここら辺をぶらぶらしてから帰るからっ!」
「……一緒に食べませんか? ご飯は誰かと食べた方が美味しいものです」
「あ、うん! そうしよっか!」
その後、二人して食事をして、絶対に自殺なんてダメだよと念を押されながら、彼女とはベベルで別れた。
変わった子だ。
敵対種族にあそこまでしてくるなんて。
「そう言えば、名前すら聞けてませんでしたね……」
そんな風に独り言ちりながら、少しくらいは頑張ってみるかと仕事探しに精を出すことにする。
十歳の子どもであったとしても、これだけ広い都市なのだ。
一つや二つ、仕事があってもよいであろう。
「あの、仕事はありませんか? お金に困っているんで、なんでもします。勉強はかなりできる自信があります。とくに、歴史学、経済学、政治学はすごく詳しいです。それと、武術も少しは心得があります」
「れきし? そんなんが工事現場で何の役に立つんだい。帰んな。嬢ちゃんに仕事はねぇよ」
「お、お願いしますっ! 下働きでも何でもします! だからどうか!」
男は天を仰いだ後、仕事仲間へと視線を送る。
肩を竦める仲間に対して、こんな言葉をかけてくるのだった。
「嬢ちゃん、なんでもするんだな?」
「はい」
「うちにゃ仕事はねぇが、人手が足りねぇって困ってる店なら紹介してやれるぜ。とくに嬢ちゃんみたいなわけぇ女が必要だって。ただ、ありゃあ大変な仕事だ。それでもやんのか?」
男たちがにやにやとしながら聞いてきたので、恐らく合法的な内容ではないのであろう。
だが、それでも仕事があるのなら今は藁をもすがりたい。
たとえ違法なことであったとしても、賃金さえ支払われるのであれば話を聞く価値はある。
彼女は剣術に関する才覚こそなかったものの、シャロルが持つ弁舌や政治、経済に関連する能力は引き継いでいる。
勉学に関しても、あの厳しい父からは一度も文句をつけられたことがなかったのだ。
多少危険な橋であったとしても、自分ならば乗り越えられる自信があった。
それに――、と彼女は思う。
むしろ非合法な仕事である方が、今の自分にとっては都合がいい。
十歳の娘が就けるまっとうな仕事としては、現実的と言えるのではないだろうか。
今までは母が心配すると思って、そう言った仕事は探してこなかったが、一人になった今であれば、そんなことに構う必要もない。
男に連れられて、裏通りのさらに裏通りを進み、小汚い道に面した店とも倉庫ともとれない場所へと到着する。
ちょうど店の中から、狼人の男が出てきたところであった。
「おう、ネイオか。久しぶりだな! どうしたんだ? もううちには来ねぇんじゃなかったのかよ? それに――」
狼人が彼女へと視線を送り、訝し気に眉を寄せる。
「そっちの娘はなんだ?」
「人手が足んねぇんだろ? 仕事ならなんでもやるってんで連れて来てやったぜ」
途端に狼人の唇が吊り上がる。
「ほぉ。そうか、それは助かる。うちはいつでも人手が足りてねぇからな」
「んじゃ、俺は仕事があるから行くぜ」
行ってしまう男に向かってお礼を述べ、狼人へと向き直る。
「よし、そんじゃ早速やって欲しい仕事があんだが――」
「その前に労働契約書を書いて下さい。それか前払い労働として下さい」
その言葉を発するや、狼人は一瞬目を細める。
「おいおい、うちは――」
「対価を支払われる保証がありません。この店がどういう店かはわかりませんが、非合法なことを行っているのは店の外見からわかります。ただ、わたくしはそんなことを一切気に留めません。賃金さえ支払ってもらえるのであればなんでもする覚悟でいます」
「……。おめぇさんが逃げないって保証は? 警備隊に通報するって線もあんぜ?」
「人族の大貴族、トルスペイア家のミルシュレト夫人をご存知ですか?」
「トルスペイア……? ああ、知ってるぜ。追放されたってな。一年くらい前にニュースになってた」
「わたくしの母親です」
その言葉で狼人はややも目を見張る。
「わたくしは逃げられません。警備隊にあなたを通報したところで、今日の夕食が警備隊から出てくるわけではありません。逆に、あなたが賃金さえ支払ってくれるのであれば、わたくしはあなたに依存したい。依存したい相手を通報したら、むしろわたくしは自分の首を絞めることとなりましょう」
「だが、うちがやってることはかなーりよくないことだ。おめぇが仮のその貴族様の娘だったとして、倫理の
狼人の言葉を彼女は鼻で笑う。
「倫理ですって? それが一体何だというのですか? お父様はお母様とわたくしを道端に捨てて、母方の祖父に至っては金がないから助けてすらくれない。そしてその母はわたくしを捨てて他の男について行く始末。そんな貴族の倫理観が、わたくしのご飯とベッドを用意して下さるとでも言うんですか? 法律や政治が食うに困った子どもを救うことなどありません。そんなもの、わたくしたち貧民にはクソの役にも立ちません」
その言葉を狼人は舐めるように見定めてくる。
「ほぉ、考え方は気に入った。だがおめぇに何ができる? この際だから言ってやるが、俺はおめぇさんを使い潰すつもりだった。金は誰だって欲しい。そんなんたりめぇだ。おめぇさんにできることがなくて金がほしいってんなら、おめぇさんを使い潰す仕事しかないぜ?」
彼女は自身の手を胸に当てて、本当にこの道へと進むべきかを今一度自分に問いかける。
たぶんこの職は、一度手に就けてしまうと後戻りが難しい。
けど、自分が生きていくために今は選んでいる猶予なんてない。
覚悟を決めた彼女はゆっくりと微笑む。
「わたくし、剣は人並にしか振るえませんが、弁は立ちますの」
「貴族様が大好きな討論会とやらでもすんのか? んなことやっても一文にもなんねぇぜ?」
「いえ、その貴族様の風習を良く知るわたくしでしたら、彼らの持つ金をだまし取ることだってできますわ。いわゆる、詐欺という方法で」
その言葉に狼人の顔つきが変わった。
「ほぉ。詳しく話してみろ」と言われたところから、彼女はこの世界へと浸かって行くのだった。
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