2 捨てられた娘
一年が経ち、母はかつての美しい容姿からかけ離れ、疲弊し切った姿となっていた。
母は家計状況を一切教えてくれなかったが、この家の家賃と普段食べている食事、少ない家財を見れば、この家の経済状況は推し量るまでもない。
恐らく母は借金をしていて、おまけにそれを払うために、自身の身体を売っている。
狭い賃貸部屋であるというのに、男の人を連れ込んで、日の暮れた夜であるにも関わらず外で遊んでくるよう言われることが何回もあった。
そんなとき母は決まって「接待の仕事だ」と説明してくるのだ。
だから、彼女は「お仕事がんばってくださいね」と笑顔で返すのだった。
今の母にとって、彼女は一番の経済的お荷物だ。
決して母の邪魔をしてはならない。
彼女もあれから短期の労働を何回かこなしていたが、それも結局は一時的なもの。
それでも、ないよりはあった方がいいため、今日も仕事を探しに精を出していた。
そんなとき、偶然居酒屋へと入っていく母の姿を発見するのだった。
母の仕事を詳しく教えてもらったことはないが、居酒屋で働いているのであろうか。
中には入らずにこそこそと様子を伺うことにする。
すると母はカウンターへと一人で座り、安酒を飲み始めるのだった。
しばらくして、昼間の居酒屋にたむろするガラの悪い連中が母を囲み始める。
危険かと思って中へ入ろうとしたのだが、なんとその者たちは母の顔見知りであった。
カウンターへと集まって来て、互いに他愛もないことを駄弁りだしている。
そして、いざ母が口を開いたと思ったら、こんなことを言うのだった。
「あの子に……。あの子に剣の才能さえあれば、全部うまくいってたのよっ!」
拳を握りしめて、カウンターを叩きながら、涙を流して。
「おうおう、わかるぜミル。ガキなんて思った通りになんねぇって」
ミルというのは母の愛称だろうか。
母に対して馴れ馴れしい態度を取るあいつらに嫌悪感を覚える。
「他は全部完璧だったのよ! 剣術さえできていれば。天才とまで言わなくとも、せめて光るものが少しでもあれば、他がなくても大丈夫だったのに……っ! なんでなのよっ。私ばっかり、なんでこんなに辛い想いしてっ!」
男たちが母に寄り添いながらうんうんと頷く。
「全部順調だったのよ。玉の
言葉ごとに机を叩いていく。
「才能があって、可憐で、歩き方一つとってもどこの貴族の子にも負けはしない! 文句のつけようがない貴族の中の貴族の子だった! 親の言ったことを全部守るとってもいい子だったのよ! なのに……っ! なの、に……っ! なんで……っ」
ポロポロと流す涙を、飲み仲間たちがそこら辺にあったテーブル拭きで拭っていく。
母はそれにすら気付いていない。
男たちにとって、母の言っている言葉なんてどうでも良いのであろう。
賢い彼女からすれば、あいつらの顔を見ただけでそれがすぐにわかる。
やつれてしまったとはいえ、母はその容貌によって大貴族であるトルスペイア家に嫁げた身だ。
弱った母を付け狙う屑など吐いて捨てるほどいるであろう。
なので、今が出て行くべきタイミングだと思い、姿を現わそうとしたのだが――
「あんな子、生まれてこなければよかった……」
そんな言葉が聞こえてきて、心臓が跳ね上がった。
聞き間違いではないかと何度も母の言葉を脳内で反芻するのだが、どう考えてもこの言葉に別の解釈を与えることができない。
それが彼女にとっては、この上なく辛くて、苦しいことに思えた。
「そしたら他の側室みたいに、あのくそ野郎の傍にいるだけで贅沢な生活ができた! なのに、あんな子が生まれてしまったがために、私の人生はもう、滅茶苦茶よ……」
「まあ貴族ってのはどいつもこいつもクソばっかりさ。てめぇの都合で子どもを作れっつって、てめぇの都合で捨ててやがんだからな。そんなことよりミル、俺んとこ来いよ。貴族どものような生活とは言わずとも、三食くらいはまともに食わせてやれるぜ?」
名乗りをあげた男に、仲間たちからシュプレヒコールが送られる。
「ふっ。何言ってるのよ。あなたの稼ぎじゃあの子の面倒まで見れないでしょ?」
「あんな子ども捨てちまえって。さっき生まれてこなきゃって言ってただろ? 生まれてこなかったことのすりゃいいんだよ。身元不確かな母子の子どもがこの世から消えたってだーれも気にしないぜ? それに賢い子なんだろ? 案外一人で生きていくかもな」
男どもがゲラゲラと笑う。
「……何度も考えたことがあったわ。あの子さえいなければって。私一人なら、何とか暮らしていけるもの。私のお父さんが、あの子を奴隷にして売った金で生活を立て直せって言ってきたの。今ならその気持ちも少しはわかるわ」
「んなら、俺が紹介してやってもいいぜ? その奴隷商とやら」
嘘だ、この男にそんな伝手はない。
剣術を除けば天才とまで謳われた彼女だから分かる。
けど、彼女の心はそんなことどうでもよかった。
それよりも――
「んー、どうしよっかな。私、もう心がボロボロだし。たまには誰かに甘えたくなっちゃうわ」
母のそんなとろけた顔を見て、足が震えてしまった。
――ダメだ、もう……耐えられない……。
鬼の父親にあれほど心を鍛えられたというのに、彼女はもう心を保つことができなかった。
この場をさっさと離れて、すべてを忘れてしまおう思った瞬間――、
後ろから押された。
「おい、入り口で突っ立ってんなよ」
そのまま店の中へと入ってしまい、全員に姿を晒すことになってしまう。
そこには当然、母も含まれており。
我が子の姿を見た途端、母は雷にでも撃たれたかのような表情となって、恐る恐るとこちらへ歩みを進めてくるのだった。
「……っ! あなた……、いつ、から……、そこに……」
「な、なにを、おっしゃって、いるんですか、お母様。わたくしは――」
いつものように笑顔を向けないと。
「――ただ、偶然、そこを、通りかかって、お母様の、声が、聞こえて、来ましたので――」
あれ、笑うのって、……どうやってやるんだっけ。
「――ちょうど、今、ここへ、入って来たところ、です」
笑えって。
「別に何も。聞いて、おりません、よ?」
なんで、なんでなの。
「ですから、特段、お母様が、気にされることは、ございませんよ?」
全てを察してしまったかのような母の顔。
早く笑えって。
早く。
はや、く……。
まだ間に合うかもしれない。
まだ大好きな母との生活を続けられる。
なのに、
どうして私は笑うこともできないの。
いつものように少し口角をあげて、目尻を下げて、ただそれだけじゃないか。
そう思うほどに手が震えてしまい。
いつまでも笑顔をつくることができずにいるその表情は悲壮感に満ちていた。
そんな彼女に対し、母は何かを諦めたような視線を送ってしまう。
「ほーらもう聞かれちゃったんだからいいじゃん意地張んなくたって。そんなお荷物さっさと捨てて、俺んとこ来なよ」
男の言葉に母は黙ったまま顔を背けるばかり。
どうして。
どうして、彼の言葉を否定して下さらないの。
彼女は薄々それに気付いていたけど、どうしても認めたくなかった。
しかし、おそらくこれが、母が最も幸せになる方法なのであろう。
辛くて、苦しくて、ただただ悲しくて。
でも、母を愛しているからこそ、自分はそれを受け入れるしかなかった。
舌を噛んで心に鞭を振るい、大好きな母へとこの言葉を差し出すことにする。
「お母、様……。わたくし、今日、仕事が決まったんですの……。ただ、泊まり、込みが、必要な、仕事でして、しばらく、その……。おうちには、帰ら……っ、ないかと、思いますので……っ、ご心配、なさらないで……っ、下さいな」
それだけ告げて、返事を聞くこともなく走り出してしまった。
店を出て、大通りを走って。
走って、走って、走って。
でも、ふと立ち止まった。
あるいは、と思って背後を振り返ってみる。
しばらくたち、だいぶたち、かなりたち。
母は追いかけて来てはくれなかった。
――やっぱり、そうだったんだ。
どうしてもそれを認めたくなくて、足が動こうとしてくれない。
もしかしたら次の瞬間には、母が通りの向こうから追いかけて来るかもしれない。
そんな風に待ち続けて、ついには夜になってしまうのだった。
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