2 魔獣ハウルホーン

 軍事都市カナルカは人口百万人を擁する魔族の都市だ。

 魔族領内のほぼ中心に位置するこの都市は、軍事、経済の両面で魔族国家における最重要拠点となっていた。

 その人口は今も拡大傾向にあり、食糧事情を解決するための開墾作業はこの都市の東に広がるシーア大森林にまで及んでいる。


 結果として、森に住む魔物たちは縄張りの変更を余儀なくされており、多くの野生生物たちが生態系を変えることとなっていた。

 そんな中、ここに住むハウルホーンもまたその余波を受けた者であり、カナルカの魔族上層部は、住民がハウルホーンの被害に遭ってしまわないかと危惧を抱いていたのである。



 この日の朝、カナルカの兵士であり小隊長という任を頂くリナは、この問題にどう対応すべきか頭を悩ませていた。

 真っ先に思いつく手段は討伐であり、上層部もその方向で検討を進めているのだが、ハウルホーンは生態ピラミッドの心臓と言われるほど多岐に渡って環境と結びついている。

 安易な殺傷は将来に渡って深刻な事態を引き起こすトリガーとなりかねない。


 それにこれは元々カナルカの勢力拡大が事の発端。

 本来責めを負うべきは魔族であり、討伐せずに事を収められるのであれば、それに越したことはないと言えよう。

 ところが、その手段を見出せないことが彼女の頭を重くしている原因となっていた。


「りーな」


 古びたレンガ造りの兵舎の中で、木製机に向かって唸っていると、後ろから友人が抱きついてくる。

 すると、それまでの悩みを忘れてしまいそうになるような、甘い香りと友人の豊かな乳房の感触がリナの背中に心地よく押し寄せてきた。


 いずれもリナ自身には備わっていないものであるため若干の嫉妬心を抱いてしまうが、彼女との付き合いが長いため気になる程のことではない。


「おはよう、レイナ」


 リナの隊の副官を勤めているレイナ・クラウセルは、同じ村で育ったいわゆる幼馴染と言うやつだ。

 海色の瞳に金色に輝く長髪の間からは二本の白色の角が見え隠れしており、いずれも魔族の中では非常に珍しい色である。

 それだけでも彼女は十分に目立つのだが、レイナときたら豊かな胸部と尻部に締まりのある腰、そしてそれに見合う整った容姿までもを兼ね備えているため、たまにリナの嫉妬の対象となってきたのであった。


「どったのー? 難しい顔して」


 彼女の指がリナの胸部や首元を官能的にくすぐる。

 いつもの悪戯であろう。

 部屋に二人しかいないからこそ気にはしないが、リナの頭は仕事モードであるため、それを無視するように真面目なトーンで返答していく。


「昨日大隊長から言われたハウルホーンの件をどうしようかなって思って」


「えーっと……、なんだっけ?」


 話が伝わらないことにリナはジト目となる。


「あなた……よくそれで副官が務まるわよね。どうせまた聞いてなかったんでしょ?」


「にゃはは。いろいろ考え事しちゃっててね。リナの事考えてたんだよぉ」


 そんな風に甘えた声を出しながら、今度は服の中にまで手を突っ込んでこようとしため、リナはこれを払いのける。

 同性かつ親密な仲だからこそ許してはいるが、これが別の人物であれば、今頃この部屋は爆破魔法の阿鼻叫喚となっていたであろう。


「というか、あれってうちの隊に命令出てたっけ?」

「いえ、どこの隊にも出てないわよ。たぶんこのまま行くと、軍は最初の犠牲者が出るまで静観すると思う」

「なんで? 討伐しちゃわないの?」

「先に討伐しちゃって後から生態系の問題だの、環境問題だのが出てきたら軍が責任取らなきゃいけなくなるでしょ? でも民間に被害が出たら討伐する理由が立つじゃない」

「え? じゃああたしたちも手を出さない方がいいんじゃないの?」


 何でそうなるのよ、とレイナを若干怒る。

 進んで市民を守るべき軍隊が責任逃れを理由に行動を起こさないなど理解できようはずもない。


「最初の誰かは必ず犠牲になっちゃうじゃない。その人には運が悪かったから諦めてくれって言うわけ?」

「たしかに! じゃあまたいつもの人助け?」


 含みを持たせて言ってくるレイナに忌々し気な顔を向けてしまう。

 リナは人助けという変わった趣味を持っている。

 人助けを『変わった』趣味と言ってしまうのはおかしな話だが、人族との戦争が絶えないこのご時世において、自分のためではなく他人のために生きる者は少ない。


 おまけに彼女の活動の幅は、飼い猫の捜索から飢饉にあえぐ村の救援に至るまで、兵士の職務どころか種族の壁をも超えた範囲にまで及んでおり、もはや本業との区別がつかなくなりつつある。


「呆れた風に言わないでよ。別に悪いことをしているわけじゃないじゃない。それに隊を好きにしていいって上に言われてるんだから、お望み通り好きにさせてもらうわ」


「そうね。特別小隊の小隊長様様のご命令のままにぃ~」


 レイナがわざとらしく畏まった礼をしてくる。

 リナはカナルカ軍において、彼女のために特設された小隊を預かっている。

 十七という若さでその地位についている理由はいろいろとあるのだが、一番は――。


「魔王様の御身心は深淵よりも深いからねぇ~」


 親友の冗談めいた言葉に煩わしく息を吐いてしまう。

 リナはその高い魔法力から上層部より魔王と目されている。

 特別小隊が新設されたのも、彼女の隊だけが命令権を無視して独自に好きな業務を行ってよいのもそれが理由だ。

 この思い違いでたまにとんでもない事態に巻き込まれてしまうのだが、本人は自分が魔王でないということをよく知っているため、はた迷惑なことだと感じている。


「茶化さないで一緒に考えて」

「リナが一人で考えた方がきっといい結果になるよ! 私バカだからさ!」


 自信のなさを自信満々に披露する自称バカ。


「あなたがいる意味ないじゃない」

「それはほら、こうしてリナの心の支えになっているわけで」

「身体をベタベタ触られて、目下心を乱されているんですけどね」


 レイナがぱっと離れて、口元に手を当てながら噂話をする奥さんのような表情をつくる。


「あらまあリナちゃんったら。心を乱されるなんて! 一体どんなエロいことを想像してい――」


 リナのチョップが炸裂し、あだっ! という鳴き声が部屋に響く。


「いいから仕事! 行くわよ! 部隊も呼んでおいて!」

「あいたたた。えーっと、隊長様。行き先を教えて頂きたいのですが……」

「シーア大森林以外ないでしょう! 早くして!」


 リナにどやされてしまい、人慣れしていない野良猫のごとくレイナは部屋から逃げ出す。

 まったく、という言葉を残しながら、書類を綺麗に整頓してリナも現地へと赴いた。



 シーア大森林は彼女たちの都市と接するように存在している。

 街道沿いは整備された人工的土地となっているものの、ひとたび森の奥へ入るとそこは人の住む領域ではない。虫や鳥の鳴き声がそこかしこから聞こえてきて、いつ危険な魔物に遭遇してもおかしくはないと言えよう。


 広間のようなになっている森林の中のスペースで、三十人いる小隊員を五人一班としてハウルホーンの探索を指示する。

 しばらくリナ自身も班を率いて周辺を見て回っていると、レイナから連絡魔法が飛んできた。


『結局討伐するの?』


 誰もが気になるその内容は、今リナが最も答えに窮するものなわけで。

 だがいま何もしなければ、リナは今後も何もしないであろう。

 なぜなら本件は時間をかけたところで、答えが出たり状況が進展したりしないからだ。

 そうやって悩みあぐねている間に誰かが犠牲になると。

 そんな未来を見たくないからこそ、リナは腰を上げたのであった。


『……まだ決めてない』

『不意遭遇戦になったら?』

『その時は即決する』


 というかその場合は撤退と言う選択肢が最も濃厚となる。

 どうかこちらが先に発見できますようにと祈りながら探索をしていると、半日もしない内に隊員から連絡魔法が飛んできた。

 幸いにも不幸な出会い方はせずに済んだようだ。



 鬱蒼と茂る森の中で部隊員を全員集合させ、ハウルホーンを遠目に声を発する。


「全員武装展開」


 べたつく汗を纏いながら、隊員たちがカナルカ軍標準の剣を引き抜いていく。皆の顔には明瞭に緊張が伴っており、落ち着かない様子はリナにも伝わってきていた。


「十人一組の分隊行動を基本とするわ。私が囮になるから、左右後ろから側面攻撃を仕掛けて討伐して」


 未だに討伐してよいものかという迷いはあるものの、一旦はそれを指示する。

 ここでどっちつかずの命令なんかを出してしまったら、彼らは足並みをそろえることができず逆に返り討ちにあってしまうであろう。

 最善は殺すのではなく逃げもらうことなのだが、隊員たちには討伐と命令しておく。

 そうしておけば、後々ハウルホーン討伐が問題を引き起こしたとしても、全ての責任は指示を出したリナに帰属されることになる。


 ここでレイナがそろーりと手をあげていく。


「うぅ~、自信ない」

「勇気を出しなさい。なにも前衛やれって言ってるんじゃないんだから」


 ハウルホーンはかなり強い魔物で殺人的な突進を繰り出すことが知られている。

 この隊で技量がもっともあるのはリナとなるため、囮役となる前衛をリナがやるのは必然と言えよう。


「じゃあ行くわよ! 【アクセルバースト】」


 そう言ってブースト魔法の詠唱と共に一気にハウルホーンとの距離を詰める。

 リナは剣を手にしていない。

 それどころか鞘に収まったものすら携えていないのだ。

 だが彼女にとっては問題ない。

 なぜなら――。


 ――【フォトンセイバー】。


 無詠唱で光の魔法剣を作り出し、勢いのままにハウルホーンへ突撃。

 リナに気付いたハウルホーンも角を突き出す。

 触れば死が待つその角は。



 ジュェ!


 

 溶けた鉄が水に浸かったときのような鈍い音。

 斬り飛ばされた鋭利な灰色は、この重戦車のような獣の頭部にあった三つの内の一つ。

 角と剣で打ち合いなどをしようものなら、体重差で確実にリナが負けてしまうのだが、この光剣は金属やセラミックをも容易く切断できる魔法剣。

 痛痒の叫びとともに狼狽するハウルホーンは、溶解切断された角の断面を露わにしていた。


 野生生物の中でハウルホーンに勝る生き物はそこまでいない。

 この魔物にとって、リナは生まれて初めて遭遇する脅威として映っていることであろう。

 だが、未だ戦意は健在。

 後退りながらも殺意の眼差しでリナを射抜いている。


「側面攻撃ぃ!」


 無数の光りが舞った。

 隊列射撃による炎弾が矢のごとき速さでハウルホーンを襲う。 


 四方八方からの集中攻撃にハウルホーンが逃げるように悲鳴を上げているが、奴の皮膚装甲を貫ける者は少ない。

 最初こそ攻撃にたじろいでいたが、大した攻撃ではないと見るや構わずこちらへと突っ込んでくる。


 リナは光剣の魔法を解除し、今度は素手でハウルホーンへ。

 光剣をしまったのは、やっぱり殺したくないと言う想いが心のどこかにあったからだ。

 討伐ではなく撃退に留め、魔族の危険性をハウルホーンに認識してもらう。

 そして彼女たちの文化圏には二度と近づいてもらわなければよいと考えたのであった。


 残り二本の角を武器に再び突き。

 躱すリナを見越して薙ぎ払うも、それすら彼女には読まれている。

 リナはそのままスライディングでハウルホーンの腹下へと潜り込み。


「【パワーインパクト!】」


 爆音と衝撃波で空気が震え、砂利が舞い上がり。

 巨体が地面から浮くほどの衝撃魔法をもろに受けたハウルホーンは血反吐を吐く。

 これが決め手となったのであろう。

 戦意を喪失したハウルホーンは弱々しい鳴き声をあげながら逃げ出していくのであった。


 ――よし、狙い通り。あとはこのまま魔族文化圏から離れてくれれば互いに関わり合いなく暮らせる。ハウルホーンの自己治癒力なら、角以外は治せるはず。


 そんなことを思っていると、部隊員たちが感嘆の声をあげながらリナの方へと向かってきた。


「リナー!」


 その先方は当然レイナ。

 彼女に抱き着かれそうになったところを腕でうまいことガードする。

 二人のときならばいざ知らず、さすがに皆の前では恥ずかしい。


「にゃ、にゃんでよ、いいじゃんよ。せっかくの大勝利にゃんだから」


 ほっぺをガードされているせいで親友はぶちゃいくな顔となってしまう。


「よし。とりあえずは魔族の脅威は伝わったかな……」

「え? なにが?」


 いや、なんでもない、なんて言いながら物思いに沈んだ表情を返しておく。


「しかしリナは強いねぇ」

「そお?」

「そうだよ! 魔王様並みだって! というかリナが魔王様だって」

「ありがとう。褒め言葉と思っておくわ」

「褒め言葉じゃなくて本気なんだけどねっ」


 はいはい、と言ってリナは適当に彼女の言葉を流す。

 もうこの話題も何度目だろうか。レイナは事あるごとにリナのことを魔王だと言ってくるが、リナは自分がそうでないことをよく知っている。


 魔王誕生の条件。

 それは百年に一度の周期で開く地獄の門が開いていること。

 加えて、その門が開いている間に魔族の中で最も魔王に相応しい者が『魔王になりたい』と願うこと。

 前者はすでに開門が確認されており、あとは適合者が願うだけで魔王は誕生する。

 もちろんリナも願ってみた。

 だが――。



 彼女は魔王になれなかった。



 だからレイナにいくらそんな言葉を並べられたところで興味すら湧かないのである。


「レイナ、私はちょっと気になることがあるから、部隊を連れてカナルカに戻っておいて」


 え、ちょっとどこ行くの? という言葉を背中に受けながらも、これに答えることなくリナは森の中へと駆けていく。

 行き先は当然あのハウルホーンだ。

 森の奥へと逃げていったが、万が一街道側に逸れたり、どこかで反転したりするとカナルカ側に帰って来ることになってしまう。

 逃してしまった以上、最後まで責任を持つべきであろう。

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