第49話 旅立ちの日
神殿にかかっていた呪いが解けた。重なっていた空間がほどけ、それぞれのあるべき場所へ帰る。神殿は山頂に。カエルムはふもとに。後宮はマグナに。
魔法が消え、夜が明ける。
砂袋を抱くように、たがいの体温であたたまり、一つベッドで目ざめる。契るわけではないが、心は深くつながれる。子猫が母猫のもとで兄弟たちと身をよせあうようなものか。
こんな朝がふたたび来るとは、昨夜には思いもしなかった。
「おはよう。コルヌ。旅立ちの朝だ」
眼帯を外したコルヌの寝顔を見ていると、あの壮絶な戦いが夢か幻だったかのように思える。だが、その長いまつげがあがり、まぶたの下から現れた左目は、たしかに人のものではない。金色の竜の眼だ。
「眼帯はしないとマズイだろうな。これまでどおり。その目を見られると、何かとやっかいだ」
「私は自分がどうなったのか、まだよくわかっていないのだが」
「おれの寿命がつきるまで、二人で旅をする。死にそうになったら、たぶん、コルヌレクスが回収に現れて、おまえは箱庭の花になる」
「ケルウスは?」
「おれの意識はコルヌレクスと融合するだろう。おまえと初体が一つになったように」
「やっぱりよくわからない。が、スティグマータは私の胸の奥で眠っている。赤子のように」
「もう誰にも傷つけられない。きっと安心しているだろう」
朝食のあと、荷物をまとめ、娼館のみんなとお別れした。
「さよなら。元気で」
「コルヌ。旅に出るんだね」
「また帰ってくるよ。私の戻る場所はここだから」
今度こそ、長い旅路になる。戻ってくるのは一年後か、二年後か、もっとあとかもわからない。女たちは涙を浮かべていた。
「でももう、悪い影は去ったから。この村も、もとどおりの生活ができるんだ」
「せっせと商売するよ」
「ケルウスも可愛がってあげるから、たまには顔出しなよ」
手をふって出立する。その前に、ヴェスパーにはスクトゥムの最期の言葉を伝えたが。
フィデスも宿を出るものの、方向は逆だ。
「わたしはマグナのラケルタさまのもとへ帰る。昨夜の妙な女官は倒したが、ほんとにラケルタさまがご無事なのか確認しなければな」
「ここまで送ってくれて、ありがとう。ラケルタにもよろしく伝えてくれ。それと、おれが乗ってきた馬は、アージェントゥム公爵に返してくれないか」
「いいだろう」
マグナはこれからがたいへんだ。王もいなくなったし、他国が攻めてくるかもしれない。戻るほうが困難な道に違いない。が、フィデスの顔は嬉しそうだ。
彼女を見送り、ケルウスたちは竜の神殿がある山をのぼった。
「神殿のさきへ進むと隣国なんだ」と、コルヌは言う。「私も国境をこえるのは初めてだ」
「ドルドーバ国だな。新興国だが、錬金術が盛んだと聞いた。おれもまだ行っていない。楽しみだな」
あっとコルヌが言うので、何事かと思えば、
「アージェントゥム公爵の屋敷に、私の荷物と馬車を置きっぱなしだ。さっきの馬を、かわりにもらっておけばよかった」
「まあ、いいじゃないか。そのうち立ちよったときに受けとれば」
「途中でまた馬を買わないとな。ロバだけでは荷物しか運ばせられない」
「前から思ってたんだが、なんで、おまえ、そんなに荷物が多いんだ?」
「えっ? だって、着替えが必要だろう? もちろん金貨銀貨はかかせないし、もしもの時のために宝石も。香水や爪切りや櫛。手紙を書く紙に羽ペンにインク。火を起こす道具。針と糸。お気に入りの銀のカップ——」
「食料と水だけあればいいよ」
「ほんとに?」
たあいない会話も楽しい。やはり、コルヌがいてくれてよかった。
「神殿だ」
神殿は静かだ。竜の影もいなくなり、初体の呪いも解けている。だが、まだすべて終わったわけではないと、ここに来てようやく、ケルウスは気づいた。
神殿の柱のかげから、女が現れる。初めはそれが誰なのかわからなかった。それくらい変わりはてていた。
「ウンブラ……か?」
若く美しい娘だったのに、一夜で老婆になりはてている。少なくとも五十は年をとった。
「なぜ? いや、魔法か? 邪神を呼びだすために力を使いはたしたんだな?」
「あたしのすべてをかけた大魔法。よくも、あだにしてくれたね」
「あれは邪神だ。世界を滅ぼす」
「だからいいんじゃないか! こんな世の中、一度キレイになくなってしまえばいい!」
ウンブラは叫ぶと、呪文をなげつけてきた。短い。が、するどい。
とたんに、ケルウスたちのまわりを、小さな気配がかこんだ。
また死体から作った人蛇だろうか? あれなら、ケルウスの歌ですぐに退治できる。だが、人蛇にしては物音も存在感も小さい。
見まわすと、数十、いや、百以上もの蛇が、ケルウスたち二人を何重にも包んでいた。毒蛇だ。かまれれば、即座に死ぬ。
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