九章 コルヌの眼差し

第41話 リーリウムの願い



 竜神の影がすべてを破壊する。建物をたたきこわし、まろびでた恐怖にふるえる人々を巨大な足でふみつぶす。溶けくずれた肉は酸のように石畳や家畜を焼いた。


 阿鼻叫喚あびきょうかんだ。


 ケルウスはここで死ぬわけにはいかない。しかし、このまま、竜神を放置しておくわけにもいかなかった。


 ケルウスの肉体は人にすぎないが、コルヌレクスの記憶の一部を持っている。彼の髪と血から形作られるとき、神のなかの大切な思いも写されたからだ。


 ドラコレクスとすごした刹那にも等しい期間。人生の最初に出会った前世界の友。師であり、父であり、道を示す賢者でもあった。

 ドラコの現状は見るに忍びない。


「不死の卵。奇跡の卵。王の求める秘宝。王都は欲望の炎に踊る。残されしは夢。幻。竜の神よ。御身の夢はなにゆえ?」



 ——コルヌゥゥゥゥゥゥゥゥーッ!



「古き竜よ。語れ。今一度、尊き御身の魂を」


 竪琴が旋律を奏でるたびに、竜神の影は泣いた。しかし、それは竜神の怒りを激しくするばかりだ。


(やはり、竜の卵がなければ、正気には戻らないのか?)


 そのとき、アクィラがつぶやいた。


「ケルウスよ。この魔法でわしの命はつきる。わが最後の魔法、とくと見よ」


 アクィラが呪文をつぶやくと、その姿は急速に老いていく。命のすべてを吸いとられるように、生きながら死んでいく。同時にまぶしく金色に輝いた。

 アクィラの手に一輪の光の花がにぎられている。美しい百合の花。


 アクィラの肉体はその花に溶けるように散った。だが、魔法はまだ続いている。光の花が咲きほこると、その花芯から女神が現れた。


(これが……リーリウムレギーナのありし日の姿)


 ケルウスもコルヌレクスがドラコレクスから引き継いだ記憶のなかでしか見たことがない。


 こんなにも愛らしい女神だったのだ。この女神に仕えるアクィラが邪悪な魔術師であるわけがない。


 花から生まれた女神は、全身でもケルウスの手首ほどしか大きさがない。その背中には半透明にきらめく蝶の羽があった。

 そして百合の花のドレスをまとい、純白の髪をなびかせ、彼女が飛んだ軌跡きせきにはあらゆる種類の華麗な花が咲いた。花の香りに包まれた春のそよ風が吹きぬける。



 ——ドラコレクス。わたしの愛しき竜よ。呪いを解いて。そして、わたしとともに行きましょう。今こそ、わたしたちは一つになるときです。



 女神の小さな唇が竜神の腐りかけた鼻先に押しあてられる。

 と、ドラコレクスの体も呼応して輝いた。悪い魔法がはじけとぶ。竜神の死の瞬間に止まった時が動きだした。影のような姿から、もとの威風堂々たる竜の神へ。



 ——リーリウム。わが女神よ。

 ——愛しき竜。また会えましたね。

 ——行こう。永遠の彼方へ。



 二つの姿がまばゆい光のなかで一つになって消えていく。完全に見えなくなる寸前、ドラコレクスの竜の瞳がケルウスを見た。



 ——コルヌよ。すまぬ。そなたとつながれし、わが接点。そなたのために卑しき人の子よりとりもどせしが、ふたたび奪われてしまった。



 それは衝撃の言葉だ。


(そうか! そうだったのか!)


 それで、すべての謎が解けた。竜神が影に堕ちてまで守りたかったもの。なぜ、この地に降りたのか。夜な夜な何を探していたのか。あるいは、なぜ人を憎んだのかまで。


(竜の卵——いや、卵などではない。竜が抱いていた丸い玉石のごときもの。だから、卵だと思われた。だが——)


 じつのところは、それこそ、ケルウスが探し求めていただったのだ。コルヌレクスが初めて人界へ遊びに行くため、分身に持たせた自分自身の印。ドラコレクスから受け継いだ竜の眼。


 神殿から外へ出て、雪を見てはしゃいでいるところを背後から襲われた。そのあとすぐ、接点を……右目を奪われるところまでは見ている。しかし、そこで接点を失った。初体がその後どうなったのか、コルヌレクス自身も知らない。


 化身の一つずつの喪失は、神にとって大した問題ではない。しょせん髪と一滴の血だ。いくらでも作れるし、髪など何本でもまた生えてくる。

 しかし、接点はそうではない。印は一つしか作れないのだ。


 とりもどすために、すぐに二体めの分身を作った。が、それはいつまでたっても戻ってこなかった。おそらく、人の世で死んだと思われた。しかたないので、さらに作られた三体め。それが、ケルウスだ。


(コルヌの大切なものだから、ドラコレクスはおれが来るまで保管していたのか。でも、奪われた。ノクス王の命で、スクトゥムが持ち去った。スクトゥムが誰に渡したのかが問題だ)


 不老不死の竜の卵ではなかった。ケルウスにとっては、それ以上に重要なものだ。

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