第5話
えりちゃんと一緒に住みたい。
僕がそう言うと、杏花は目を伏せた。
「そう……わかった。仕方ないわね」
彼女はソファから立ち上がる。
「あ、待って。話の続きが……」
「これ以上聞きたくない」
「違うんだよ。杏花とも一緒に。みんなで住みたいんだ」
リビングから出ようとした杏花が立ち止まり、そして振り返った。
「何を言ってんの?」
「杏花とえりちゃんと僕。三人で一緒に住みたいんだけど」
しばらく黙った後、杏花はふふっと笑った。
「バッカじゃないの? そんなことできる訳ないじゃない」
「……えりちゃんも、無理だって言うんだけどね」
「当たり前でしょ? できるって思うあんたの方が信じられない」
「でも、彼女のこと放っておけないし」
「それなら選びなさい」
杏花はキッと僕をにらんで、そう言った。
「私かえりか。どちらかを選んで」
「……難しいな」
「あ、そう」
杏花は微笑んだ。
「じゃあ代わりに選んだげる。えりにしたら? あんたなんか、もういらない」
「杏花……」
「じゃあね。さよなら」
背中を向けて、杏花はリビングを出て行った。
ハッとして目が覚める。
夢で良かった。
でもヤバい。この展開だと確実に僕は振られてしまう。
やっぱり無理かもしれないな……。三人で一緒に住むなんて、それこそ夢物語だよね。
一番いい案だと思ったけど、それは僕にとって都合がいいだけなんだ。えりちゃんを見捨てず、杏花とも一緒に暮らせるなんて、自分勝手もいいところだ。
僕は布団から起き上がって、頭をかきむしった。
どうすればいいんだろう。どうすればみんなが幸せになれるんだろう。
自分ひとりで考えるのは限界だと思い、まずはシンちゃんに相談してみた。
「杏花と結婚したいと思ってるんだけど、えりちゃんの治療の手助けもしたいんだ。どうすればいいと思う?」
「僕なら普通に杏花さんと結婚しますよ。もうひとりの方は気の毒ですが、他の誰かに託しますね」
「だって、実家とは絶縁状態らしいんだよ」
「どちらにしても、治療の手助けなんて、ミナトさんには荷が重すぎますよ。それに、そこまでする義理はないです。ただのお友達なんですから」
そう言ってクールにタバコを吸った。
うん。シンちゃんの言うことは正しい。
でもただのお友達じゃないし、病気になった原因を作ったのは僕だから、そこまでドライに割り切れないんだよ。
という訳でヤスに相談した。
「おまえはアホか。まずは杏花を幸せにしたらなアカンやろ」
一刀両断。こいつに聞いた僕がバカなのかも。
「えりちゃんのこと、そこまで気にせんでええやん。逆におまえが傍にいてる方が、アカンのとちゃうか? 頼られへん奴が傍におっても困るだけやん」
うん。それは僕も思ってた。
えりちゃんだけを、大事に思ってる人がサポートする。それが一番いいと思う。でもそういう人がいないから、悩んでるんじゃないか。
てな訳で王子に相談した。
「オレなら好きな人のことだけを考えるよ。当然だろ?」
王子はマジメな顔で説教を始めた。
「前から思ってたけど、おまえは甘いよ。自分の力量を考えてみ。自分のことだけでも精一杯でさ。そんなお前が二人も面倒みようって、そりゃ無理があるだろ」
……その通り過ぎて、返す言葉もありません。
それにしても。答えをくれた人が全て二者選択、という回答になるのはどうしてなんだろう。
どちらかを選ぶ――そういう問題じゃないと思うのは、僕だけなんだろうか。
どうしようもなくて、結局は杏花に相談した。
「えりちゃんをサポートしたいんだけど、どうすればいいかな?」
「えりさえ良かったら、三人で住んでもいいけど?」
え? 神様? 杏花って神だったの?
「でもえりが嫌がるね。好きな人と、その彼女が住む家になんて、無理に決まってるか」
「わかんないけど、彼女がいいって言ったら一緒に住んでくれる?」
「私はいいよ。だって病気の原因は私だし……」
彼女は目を伏せる。
「正直言うと、ミナトとの結婚、諦めようかなって思ったこともあるし」
「何言ってんの?」
「だって。私が横入りしなかったら、ミナトはえりと付き合ってたでしょ? 私が奪ったんだから、そうなっても仕方ないのかなって」
そんなことを思ってたのか。僕は杏花を抱きしめる。
「ごめんね。杏花は何も悪くないよ」
彼女の気持ちを聞けて良かった。僕は要領が悪いから、杏花のことをつい後回しにしてしまう。こんな僕が二人とも守りたいなんて、やっぱり設定自体が間違ってるのかな。
お店で商品の検品をしている時に、ふと思いついた。
「シンちゃん、今夜は小玉さんのお店に行かない?」
「いいですよ」
「あの話、彼女に相談しようと思って」
「ああ……今は、無理じゃないですかね」
シンちゃんは苦い顔をした。
「何かあったの?」
内緒ですよと小声で言った後、
「リュージさんと別れたらしいです」と耳打ちした。
「うそっ……」
「真琴さん本人から聞いたんで」
商品を並べながら、シンちゃんは唇をゆがめた。
「本当に大切な人が出来た。そう言われたんですって」
「リュージさん、ソノちゃんのこと本気なんだ」
「そうみたいですね」
知らないうちに拳を握りしめていた。あのクソ親父。確かにソノちゃんはいい女だけどさ。あんなに素敵な小玉さんを振るなんて、けしからん奴だ。
「電話して苦情言ってやろーかしら」
僕はスマホを取り出す。
「無粋ですよ、ミナトさん」
シンちゃんは僕を見つめる。
「僕だって怒ってますよ。出来れば殴ってやりたいぐらいに」
「わかる。僕だって殴りたい」
「でも堪えましょう。部外者ですから」
そう言ってまた淡々と商品を並べ始めた彼に背を向けて、僕は段ボール箱を蹴り飛ばした。
リュージさんめ、今度会ったらあのテンガロンに穴を開けてやる。
蹴り飛ばした段ボール箱を元に戻して、僕は商品の検品を再開した。
えりちゃんに電話をかけると、今から外で会えないかと聞かれた。
久しぶりに学校へ行ったらしく、あの階段で待っているからと言って電話が切れた。
ずいぶん前向きになったなあ。退院してすぐは、学校に行くのを嫌がっていたと聞いたのに。前に比べると体重は増えてきたけど、まだまだビックリするほど細くて、体力もないようだ。でも気分的には安定しているようでホッとする。
夜の街を歩いていると肌寒くて、僕は腰に巻いていたシャツを上から羽織った。気温が低いせいだろう、広場に集う人もまばらで、僕は祭りが終わったような寂しい気分になる。
少し待っているとえりちゃんがやって来たので、手を繋いで階段を上る。
彼女の細さに周りが好奇の目を向けているけど、まあ気にしないことにして。
「ハンバーガー買って来たけど食べる?」
「うん、ありがと」
えりちゃんはポテトをつまんで、
「これって何カロリーだろう」とつぶやいている。
「僕の理想って誰だか知ってる?」
そう聞いてみると、
「杏花じゃないの?」と即答した。
確かに彼女のような、細いのに出るところは出て、ウェストはくびれてるっていうボディも大好きだけど。
「実は……。小玉さんなんだよね」
「ええっ? じゃあ私なんて、絶対にタイプじゃないね」
えりちゃんは笑った。
「そんなことないよ。ただ、小さい頃に亡くなった母親が、かなりグラマーな人で。どっちかっていうと太ってたんだけど、父親がずっと言ってたんだ。最高にいい女だったって」
「ふうん。そうなんだ」
「そのすりこみだろうな。僕のグラマー好きは」
僕はハンバーガーにかじりついた。
「ミナトくんは細いよね」
「そうなの。いくら食べても太らないんだ」
「いいじゃん。そんな体になりたかったよ」
えりちゃんはため息をつく。
「うちの母親はすごく太ってて。昔から恥ずかしかったんだ。一緒に歩いたり、参観に来たりするのが」
彼女が自分の家族の話をするのを始めて聞いた。絶縁状態らしいので、僕は少し緊張する。
「参観が終わった後、同じクラスの子がうちのお母さんを話題にするの。あの相撲取りみたいな人って誰のお母さんって。これが一番辛かった」
「そうなんだ」
「みんな子供だから、悪気はないんだよね。でも本当に嫌だったな。私も大人になったら、あんなに太るんじゃないかって。それが怖くて、小さい頃から食べる量を制限するのがクセになった。だから……」
えりちゃんは水を一口飲む。
「この病気になったのは、全然不思議じゃないの。中学の時は過食で太ってたし」
僕は彼女の顔を見る。
「ていうか、小さい頃から拒食症だったんだよ。今に始まったことじゃなくて。入院するほど体重が落ちたのは初めてだけど、ミナトくんのせいじゃないからね」
僕を慰めるように、えりちゃんは微笑んだ。
「うん。わかった」
僕も微笑みながら、彼女の病気は思ってるよりも根が深いような気がした。心の中の、とても深いところに悲しみが沈殿して、小さな爆弾のような物を作り続けている。ちょっとした種で導火線に火が付くように、もし体重が元に戻っても、また何かのきっかけで再発するかもしれない。
先生も言ってたように、根気良く付き合うってことがとても難しいんだろう。手に負えるだろうか、僕みたいな器の小さい奴に。
「あ、そうだ。前に僕が、一緒に住みたいって言ったこと覚えてるかな?」
「やだなあ。忘れる訳ないでしょ」
「あの話ね、杏花が承諾してくれたの。えりちゃんさえ良かったら、三人で住もうって」
「え? 杏花が?」
えりちゃんの笑顔が固まって、しばらく何かしらを考えてるような表情になった。僕も黙って、彼女の反応を見つめる。
「ふーん。そうなんだ」
ふいに立ち上がって、
「帰ろっか」と僕の腕を引っ張った。
一緒に階段を降りながら、まずいこと言ってないだろうかとドキドキしていたら、
「とりあえず、その話はもう少し保留でいいかな?」
広場を出た後に、えりちゃんはそう言って微笑んだ。
彼女は今、何を考えているんだろう。気になったけど何も聞くことが出来ず、僕は黙って歩き続けた。
☆ ☆
それから何日か経ったある日の夕方、僕はようやくえりちゃんからのOKをもらった。
駅員室を出て歩き始めると、子猫たちはおとなしくなった。
「えりちゃん。眠ってるよ」
僕がそう言うと、えりちゃんはみかん箱をのぞいて微笑んだ。
「とりあえず、食べるものを買わないとね」
「そうだね。他には何が必要かな」
オレンジ色の空を見上げて、僕は考える。猫と暮らすなんて小学生以来だ。でもあの時は一軒家だったし、ほとんど放し飼いに近かったんだよね。
えりちゃんの部屋に一旦子猫を置いて、僕たちはホームセンターへ行くことにした。少し距離があるというので自転車で。後ろに乗ったえりちゃんがとても軽くて、ちょっと切なかった。
ホームセンターの一角にペットショップがあって、そこで店員さんに話を聞きながら必要な物を揃える。ついでに猫の飼い方が載っている本も買って、ゴキゲンな気分で自転車を漕いでいる時に気がついた。
「しまった。杏花に聞いてなかった」
思わず急ブレーキをかけると、えりちゃんが小さく叫んで僕の腰にしがみついた。
「ごめんごめん。どうしよう、えりちゃん。杏花って猫が大丈夫な人だっけ?」
「どうかな。よく知らない」
「だよね。家に着いたら電話しないと」
えりちゃんは自転車を降りて、僕の肩に手をかけた。
「もしダメなら、飼ってくれる人を探せばいいよ。ねえ、ミナトくんは気づいてると思うけど、私と杏花って微妙なんだよ」
そう言って歩き始めたので、僕も自転車を降りる。
「田島先生と付き合い始めた頃は、杏花によく相談してたんだ。ソノちゃんはマジメだったから、何となく話しづらくて。でもある時、気づかれちゃったの。私がミナトくんのことを好きだってこと」
意味がよくわからなくて、僕はえりちゃんの顔を見る。薄暗くてよく見えなかったけど、彼女は辛そうな顔をしていた。
「先生って何考えてるか、よくわからない人で。そこが最初は魅力的に見えた。でもだんだん、合わないなって思い始めて。気がつくとミナトくんのことを目で追ってた。あなたの素直なところを愛おしいと思うようになった。杏花はめざといから、すぐに気づいたみたい。それである日聞かれたの。ミナトのこと好きなのって」
その光景が目に浮かぶようだった。杏花はきっと、あの鋭いまなざしで詰め寄ったんだろう。そしてえりちゃんは下を向いた。
「うんって言えなかった。杏花の気持ちは知ってたし、ミナトくんも杏花のことを好きなんだろうと思ってたから。その日以来、杏花は私に距離を置いたんだ。私も先生の相談をしなくなった」
僕の気づかない場所で、今と同じような三角関係がすでに作られていたようだ。そのことに少し怖くなる。鈍感というのは、ある意味とても罪深い。高校の時のえりちゃんと杏花に謝りたくなった。
「先生と結婚したのは、僕にも関係あるかな?」
鈍感なりに一応聞いておく。もしそうなら土下座したい気分だった。えりちゃんは首を横に振って、
「ううん。それは関係ないよ。とにかく早く家を出たかったの。お母さんが、先生と結婚するなら絶縁するって言ったから、こんなラッキーチャンス二度とやって来ないと思って」
そう言って僕の腕を組んだ。
「だからミナトくんは関係ない」
それきり、えりちゃんは何も言わなくなった。僕も黙って、彼女の歩調に合わせてゆっくり歩く。こんな三人がこれから一緒に暮らすなんて、相当無理がありそうだ。気が重くて、ため息が出そうになる。
「杏花が猫好きならいいね」
えりちゃんが明るい声を出した。そうだねと言って僕は微笑む。
だけど残酷なことに、杏花は猫アレルギーということが判明し、僕とえりちゃんは、束の間の飼い主気分を味わっただけで終わってしまった。……残念。
それから数日後、えりちゃんの家に行くとドアのところに誰かが立っていた。
「あ、こんばんは」
テルちゃんがお辞儀をする。今日は濃いピンクのワンピース姿で、アニメのキャラクターみたいだなと思う。
「こんばんは。あれ? 僕、日にちを間違えたっけ?」
スマホを取りだすと、
「違います。今日はミナトさんが来るって知ってたんですけど、ちょっとお話があって」
彼女は素早く近づいて、
「ファミレス行きませんか?」と僕を見上げた。彼女の気迫に戸惑っていると、
「早く。えりはまだ学校にいますから」と腕を引っ張られた。
近所のファミレスに入って席に着いた途端、
「時間がないんで単刀直入に言いますけど、えりと住みたいって本気ですか?」と聞いてきた。
「うん。もちろん本気」
「じゃあ、彼女さんと別れてください」
テルちゃんは頭を下げた。
「うわ、そういうの苦手」
僕はあわてて立ち上がって、また腰を下ろした。
「ごめんね、テルちゃん。彼女とは結婚するつもりで付き合ってるんだ」言葉をいったん止めて、水を飲む。
「だから別れるなんて出来ないよ。それに……。えりちゃんに対して、今は友達以上の気持ちを持ってないんだ」
「そうですか……」
肩を落として、テルちゃんも水を飲んだ。タイミングよく店員さんが近づいて来たので、僕はトマトジュースを頼む。
「えりは、あなたのこと諦めたって言ってるけど。でも変です。好きだった人とその彼女さんと同じ家に住むなんて」
「わかってる……つもりだよ。でも他に方法が見つからなくて」
「私は未成年だから、えりのことをちゃんとお世話できません。でも、三人で住むことが本当にいいか疑問に思ってるってこと、覚えておいてもらえますか?」
「うん。ありがとう。えりちゃんのこと、いつも思ってくれて」
「友達ですから。ミナトさん同様に」
少しキツイ目で僕をにらんで、
「あなたにお礼を言われるのは、ちょっと勘に触ります」そう言ってうつむいた。
「ごめんね」
僕は謝って、気まずい気持ちのままジュースを飲んだ。年下扱いしたことや、えりちゃんの身内みたいな態度を取ったことを恥ずかしいと思った。
テルちゃんに言われなくても、三人で住むことが正解かどうか、当事者の僕ですら疑問に思っている。
でも他にどんな方法があるだろう。頼れる人がいない環境なら、これが最善の方法だと思うしかない。
えりちゃんは少しずつ、カロリーと栄養価の高い食品を食べ始めて、体重も順調に増えている。前のようにガリガリではなく、かなりスリムぐらいの体型になったことや、学校にも普通に通っているから、もう一緒に住まなくてもいいぐらいには回復している――かもしれない。
でも、一緒に住もうと言いだしたのは僕だから。言いだしっぺの僕が、やっぱり止めようなんて今更言える訳ないし、傍にいてサポートしたい気持ちは今も変わっていない。
難しいだろうけど、僕に出来る最善のことをやっていこう。そう心に決めて、ファミレスを後にした。
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