第4話
何日か経ったある日、喫茶「プリンス」へ例の取材が来た。
店に着くと、王子はカウンターの中で何やら作業をしている。
奥さんの優希ちゃんが、
「ミナトくん。ちょっといい?」と抱いていた赤ちゃんを僕に預けて、カウンターの中に入った。雑誌のライターさんらしき男の人が、王子と優希ちゃんの写真を撮る。王子の照れたような笑顔がなんだか幸せそうで、僕もつい笑顔になる。
「お、もう来てたんか」
ドアを開けてヤスが店に入ってきた。その後ろから杏花が入ってきて、
「うわー可愛い。私にも抱っこさせて」と僕に近づいてきた。
僕から赤ちゃんを受け取って、杏花はとても嬉しそうにしている。
「私たちも早く欲しいね」
杏花が僕を見ると、ヤスが面白くなさそうな顔になって、
「あーあ。みんな幸せそうでよろしいな」とふてくされた。
「それじゃあ、店内のお写真を撮らせてもらいますね」
ライターさんの指示に従って、僕とヤス、杏花の三人はテーブル席に座った。コーヒーを飲んで談笑しているお客、的な写真を何枚か撮影し、僕たちの役目は終わった。
「ほな、帰るわ」
そう言ったヤスと一緒に僕も店を出る。杏花はまだ店に残るようで、僕たちに笑顔で手を振った。
「えりちゃんに連絡ついた?」
店を出てすぐ、ヤスが聞いてきた。歩きながら僕は首を横に振る。
「家にも行ったんだけど留守だった。心配した杏花がソノちゃんに連絡したんだけど、彼女も何も知らないんだって」
「何かあったんやろか」
「杏花から聞いたんだけど、えりちゃんって実家と折り合いが悪いらしいよ。だから、頼れるのって友達しかいないみたい」
「ふうん。後は田島先生かな……」
僕は首をひねる。あんな別れ方をした先生と、まだ付き合いがあるとは思えないんだけど。
「あ、ミナトさん。ようやくスマホデビューですか?」
ぎこちない感じでスマホを触っていたら、リコちゃんにからかわれた。
「そうなんだ。彼女に持たされちゃって」
「早くもお尻に敷かれてますねー」
くくっと笑いながらレジへ向かう彼女を軽くにらんで、僕はまたスマホの画面を見る。気がつけば杏花のペースで何もかもが進んでいて、昨夜は彼女のご両親と面談……いや、お食事会だった。あのダンディなパパさんは、なぜか僕を気に入ってくれたらしいし、このままだと本当に結婚してしまいそう。
「ミナトさん、お昼行きましょうか?」
シンちゃんに声をかけられて店を出る。遠出しましょうと言われて、例の階段がある広場の方へ向かう。
「暑くないのかな」
シンちゃんが階段の方を見て、ひとりごとのようにつぶやく。前に見た時よりは少ないけど、それでもたくさんの人が階段に座っていた。
「相変わらず人気があるんだね」
えりちゃんのことを思いながら、広場を通り過ぎた。会わなくなってもうどれぐらい経つんだろう。このまま彼女のことも思い出の一つになって、また何年後かの同窓会で、あの時は心配したんだよとか言ったりするんだろうか。
焼肉屋さんで冷麺を食べて店に戻ると、レジのところでリュージさんが立っていた。
「おかえり、ミナト。今夜空いてる?」
「はい。大丈夫ですよ」
「例の彼女に会わせるから。ちょっといい服、着ておいで」
にやりと笑って「シンちゃんもね」と言い、店を出て行った。
「例の彼女って誰ですか?」
シンちゃんが僕に聞く。
「奥さんだよ。結婚するんだって」
そう言うとシンちゃんは絶句したまま固まってしまった。無理もない。僕だって未だに信用してないんだし。
でも、高級そうな割烹の座敷に座り、少し緊張している姿を見ると、これはひょっとして本気なのでは? と思い始めた。なにせあのリュージさんがスーツ。羽織より有り得ない。しかもテンガロン被ってないし。
写メ撮りたいとつぶやくシンちゃんの横で、僕も少し緊張してきた。
「リュージさん。僕たち、ここで並んでていいんですか?」
「いいんだよ。向こうも二人で来るから」
襖の向こうで足音が聞こえてきた。静かに襖が開き、パンストの足が見えた。
「すみません、お待たせしちゃって」
ん? この声。
僕は顔を上げて、あっと大声を出した。ソノちゃんが目を丸くして僕の顔を見ている。その横にいる杏花も、
「あれ? なんで?」と驚いた声を出した。
「え? キミたち知り合いなの?」
リュージさんも目を丸くした。
「高校の同級生ですよ」
「えーーー。そんなことあるんだね」
リュージさんが笑って、
「こういうことがあるから、世間は狭いって言うんだよね」と訳知り顔で頷いた。
「てことは。リュージさんの奥さんが、ソノちゃん?」
僕がたずねると、
「やあだ。ミナトくん、奥さんとか言わないでよ」ソノちゃんが笑った。
「私なんて彼女のひとりだよ。まだ選抜中なんだから」
思わずリュージさんを見つめると、
「いやいやいや。暫定一位ですから」と照れた。
ソノちゃんがリュージさんと。年の差、スゴイんじゃないのと思いつつ、なるほど、リュージさんって小玉さんが本当にタイプなんだなあと思う。ソノちゃんって小玉さんに似てるんだよね。色っぽくて女らしくて、いい女って感じの印象が。
ふたりの馴れ初めは、リュージさんが経営してるクラブに、ソノちゃんがチーママとして入ってきて、その日のうちに手を出しちゃったよ(リュージさん談)ということらしい。
今日の彼女は、長い髪を一つにまとめて少し古風な感じ。リュージさんは終始にやにやして、ソノちゃんを眺めている。僕たちも心地良い雰囲気の中、美味しい料理やお酒を楽しんだ。杏花はいつもより控えめで、特にシンちゃんと楽しそうに話をしていた。
座敷を出て、会計へ向かうリュージさんを引き止め、僕は杏花と付き合ってることを打ち明けた。
「え? そうなんだ。可愛くていい子じゃん」
「ありがとうございます。それで僕、プロポーズされてるんですよ」
「ええ? おまえの方が?」
リュージさんはおかしそうに笑った。
「いいんじゃないの。こういうのはタイミングだからね」
彼は僕の肩を抱いて、
「オレも今、彼女に仕込み中。授かったらすぐ籍を入れるから」と耳打ちされた。
店を出てソノちゃんと手を繋ぎ、照れくさそうな顔のままリュージさんは去って行った。僕は、
「そうだ。今から小玉さんの店に行かない?」と二人を誘う。
「それって悪趣味でしょ」
シンちゃんが苦い顔をした。
「小玉さんが前に、杏花を連れてこいって言ってたんだよね」
「そんなこと、言ってましたっけ?」
シンちゃんが首をかしげるので、
「あ、言うの忘れてた。この人が例のツンデレとかいう人だよ」
僕が杏花を指さすと、
「うそ……」と言ったきり、シンちゃんはまたフリーズした。
「昨夜はもうマジで、ミナトさんを殺してやりたいって思いましたよ」
次の日、シンちゃんは怖い顔で僕をにらんだ。
「杏花さんはもう、本当にドストライクだったんで」
「そうなんだ。へえ」
「あんな可愛い人を待たせるとか、有り得ないですよ」
シンちゃんはぷんぷんと、いつまでも怒っている。僕が倉庫に逃げると、リコちゃんがやって来た。
「ミナトさん、伝票忘れてます」
「あ、さんきゅ」
伝票を受け取ると、リコちゃんが僕の頭を見つめながら、
「髪、伸びましたね」としみじみ言った。
「だよね。あれからだいぶ経ったしね」
「さすがにもう、Yさんに似てませんよ」
リコちゃんは笑って倉庫を出て行った。僕は肩よりも長い毛先を触って、えりちゃんは今頃どうしてるんだろうと思う。
仕事が終わって、喫茶「プリンス」へ行くと、ヤスが手招きした。
「例の雑誌、今日届いてん」
カウンターの上で雑誌を広げて、
「これ見てみ。笑うで」と指を差す。
雑誌片面の六等分レイアウトの一つに「プリンス」が紹介されていて、使われていた写真が店内と、クリームソーダの二枚だけ。
「あれ? いっぱい写真を撮ったのに、これだけなの?」
「だよな。ひどいよな、これ」
王子もカウンターから出てきて、
「店内の写真はいいとして、なんでクリームソーダ? この店の売りはナポリタンだって言ったのに」と怒っている。
「まあ、オレらは載ったけどな」
ヤスが意地悪そうな顔で笑って、
「しかも文面がようわからんねん。街の人気店とか、クラッシックな雰囲気に女性客が急増中、やって」
「それは……。そうなればいいなと思って、書いてもらったんだよ」
王子が照れたように頭をかく。
「フィクションだね」
僕が言うと「詐欺やで」とヤスが笑う。
「いいじゃないか。いつか本当になれば」
王子がふてくされているので、
「じゃあ、今からナポリタン作ってよ。ちゃんとお金払うから」そう言ってみると、
「本日の営業時間は終了しました」とすげない。
「ん? 杏花からメールや」
ヤスがスマホをさわって、
「えりちゃん、見つかったって」と言った。
「良かった。何してたんだって?」
王子がスマホをのぞく。
「わからん。とりあえずえりちゃんの家にいるから、ミナトに来るよう言うて、やて」
「あ、そうなんだ。じゃあ行ってくるよ」
僕は店を出て電車に乗り、えりちゃんのマンションへ行った。チャイムを鳴らすと杏花がドアを開けて、
「すごく痩せてるから、驚かないでね」と小声で言った。
おそるおそる僕は部屋に上がる。彼女は布団に横になっていて、僕を見ると泣きそうな顔をした。
「ミナトくん」
がばっと布団をはねのけて、立ち上がろうとするのを杏花が止める。
「危ないよ」
「大丈夫」
ゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくるえりちゃんは、痛々しいほど衰弱してかなり痩せていた。
「待って。とりあえず布団に戻ろうか」
僕は彼女の手を取った。血管が浮き出ている細い手を触り、これって本当にえりちゃんの手だろうかと不思議な気持ちになる。
布団に横になった彼女は、僕の顔を見ながら、
「会いたかった。でも痩せて体力が落ちたから、ずっと入院してたの」
そう言って涙ぐんだ。
「ごめんね」
僕は頭を下げる。こんなに辛そうな状態だったのに、気がつかなくて。
「何かしてほしいこと、ないかな?」
「ううん。ミナトくんが傍にいてくれるだけで嬉しい」
「じゃあ、傍にいるから」
えりちゃんは目を閉じた。それからしばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
襖を閉めてキッチンに行くと、椅子に座ってた杏花が顔を上げた。
「よく見つけたね」
僕がそう言うと杏花は小さな声で、田島先生と言った。
「最後の手段だと思って、相談してみたの。先生なら、居場所がわかるような気がして」
「先生は知ってたの?」
杏花は首を横に振って、引きつった笑顔になった。
「GPSでえりの居場所を見つけたって、連絡くれたの」
「そうなんだ」
GPSってことは、スマホで見つけたりしたのかな? いまいちよくわからないけど。
「とりあえず場所がわかったんで、教えてくれた病院に行ったの。そしたら、ロビーでえりに声をかけられた。あんなに痩せてるのに、ニコニコして明るいんだよ。しばらく入院してたけど、やっと退院できたって嬉しそうにしてて……」
杏花は口を押えた。今にも泣きそうな顔をしている。
「拒食症なんだって」
「拒食症……?」
「私も詳しくは知らないけど。心の病気のひとつだよね」
心の病気。そう聞いてもピンと来ない。確かに非常に痩せたとは思うけど、さっきの雰囲気はいつものえりちゃんだったし。
「学校の友達に、いい子がいるみたい。その子が心配して病院に連れて行ってくれたって」
「そっか」
「私、明日時間があるから、その友達に会おうと思うの。それから病院に行って、話を聞いてくる」
「うん。わかった」
杏花は立ち上がって鞄を持つ。
「じゃあ、ちょっとえりのこと見てもらっていい?」
「うん。今夜はここにいるよ」
「そうしてあげて。ちゃんと聞いてはいないんだけど……、えりはミナトに執着してる気がする。もし発症の原因が私だったら……」
言葉を途中で飲み込んで、杏花はまた泣きそうな顔になる。
「私のせいであんなに痩せてしまったんなら、私……」
立ち上がって杏花を引き寄せた。
「それなら僕のせいだよ。あなたは何も悪くない」
彼女の髪をなでながら、僕は思っていた。
もしも僕が原因なら――えりちゃんを全力でサポートしようと。
次の日、大丈夫だからとえりちゃんに言われて、僕は仕事に出かけた。お昼を過ぎた頃、杏花が店にやって来た。
「いらっしゃいませ」
笑顔で近づくシンちゃんに挨拶した後、彼女は僕に手招きする。
「今から時間取れる?」
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあすぐ来て。タクシー待たせてるの」
僕が振り返ると、シンちゃんがまだ笑顔で、
「いってらっしゃい」と手を振った。
「今から先生に会うの。ミナトも一緒に話を聞いた方がいいと思う」
タクシーに乗ってすぐ、杏花が言った。
「さっき、えりの友達に会って来たけど……あの子、あなたのことが本気で好きみたい。同窓会で、あなたと仲良くしている私を見て、すごく落ち込んでたんだって。それから急に痩せ始めたそうよ」
「……そう」
それから杏花は黙ってしまって、僕が何を話しかけても上の空って感じになった。
病院で心療内科の先生と会って、えりちゃんの症状や今後の治療について話を聞いた。
誰かが傍にいて治療のサポートをしてほしい。本来なら家族が最適だけど、それが無理なら他人でも、と先生は言った。
すぐには治らないかもしれない。だから根気よく、愛情を持って接してほしいと。
診察室から出て、僕は杏花に言った。
「えりちゃんを助けたい」
振り返って僕を見つめ、杏花は首を縦に振った。
「でもね」僕は彼女の手を取る。
「嘘をつくのは苦手だから、えりちゃんとは付き合えないよ。それでもサポートできるかな」
杏花は何も言わず、僕の手を引いて歩き始める。
この背中をずっと見ていたい。いつまでもこうやって、彼女に手を引かれながら歩いていたいと思う。
病院から出てタクシーに乗り、店まで送ってもらった。
降りる前に杏花にキスをすると、
「何すんのよ、バカ」と泣きそうな顔をした。
「やめてよ。そんなことしないで。まるで別れるみたいじゃない」
「ごめんね」
僕はタクシーを降りて、窓越しに手を振ってみた。でも彼女は一度も振り向いてくれなかった。
仕事が終わって、喫茶「プリンス」に行き、二人にえりちゃんの話をした。
「そうか。拒食症って心の病気なんや」
ヤスが大きなため息をついた。
「うん。難しくてよくわからない部分も多いんだけど、色々と指導してもらったよ」
「大変そうだな。俺らも何か手伝えることあったら、いつでも言ってよ」
カウンターから出てきて、王子は僕の肩をぽんと叩いた。
「ありがと」
「なあ、ミナト」
ヤスが真剣な目で僕を見た。
「えりちゃんの病気、お前のせいとちゃうで。多分、根っこに何かあるよ」
「根っこって?」
「そらオレにもわからんけど。例えば、人間不信とか」
僕はふと田島先生のことを思いだす。
「でないと失恋ぐらいで病気にはならんやろ?」
「ヤス、言い過ぎ」
王子が怖い目でにらんで、僕を見た。
「まあでも、ミナトのことだから、助けたいとか思ってるんだろ?」
「うん。出来れば力になりたい」
「力になるって、例えばどんな風に?」
ヤスが顔を寄せてくる。
「杏花を捨てて、えりちゃんとより戻すとか?」
「どうしたんだよ。今日はちょっと絡むね」
そう言って王子がヤスの肩を引っ張ると、彼はその手を払った。
「そんなことしたら、オレが許さんからな」
僕にそう言い捨てて、ヤスは店を出て行った。
「ねえ、王子。前から気になってたんだけど」
僕はドアを見つめながら、
「ヤスって杏花のこと、本気なんじゃないの?」と聞いてみた。
「どうだろね。オレにはわかんないな」
王子はカウンターの中に戻る。
僕は店の二階に上がり、えりちゃんにメールをした。
『体調はどうですか? さっき自宅に戻りました。明日はそっちに行こうと思ってます』
そう書いて送信すると、一分も経たないうちに返信が来た。
『メールありがとう。今日は食欲もあって、だいぶ元気になりました。明日楽しみに待ってます』という文章の後にハートマークがあって、それを見ると心が痛んだ。
えりちゃんの気持ちには応えられないのに、そんな僕が彼女の治療の手助けなんてできるだろうか。
杏花に電話をしてみたけど、留守電に切り替わって話をすることができなかった。
どうすればみんなが幸せになるんだろう。そんな大げさなことをマジメに考えているうちに、僕は眠ってしまった。
仕事を終えてえりちゃんのマンションに行くと、エントランスからえりちゃんが出てきた。声をかけるとその後ろから、十代らしい若くて少し派手な格好の女の子が出てきて、僕を見て怪訝そうに会釈した。
「ああ、テルちゃん。この人がミナトくんだよ」
えりちゃんが紹介してくれて僕も挨拶する。
「こんばんは。想像してたよりカッコいいんで、ちょっと焦りました」
テルちゃんは右手を差し出し、握手を求めてきた。気さくな子だなあと思う。
「ではこれにて」
僕たちに敬礼して、彼女は走り去った。
「面白い子だね」
「ふふっ。すごくいい子なの」
えりちゃんは僕の手を繋ぐ。部屋に入ってからも、僕の手を離そうとしないので、
「ちょっと、手を洗わせて」と言って洗面所に行った。
部屋に戻ると、えりちゃんはキッチンに立っている。
「お腹すいたでしょ? チャーハンあるけど食べる?」
「えりちゃんも食べるの?」
「私はもう無理。今日の分はもう食べちゃった」
「じゃあ僕もいいよ。ここに座って」
僕は椅子に座って、えりちゃんを待った。彼女も椅子に座り、
「どうしたの? 怖い顔してるよ」と笑った。
「僕は嘘が苦手なんだ。だから最初に言っておくね」
えりちゃんをしっかり見つめながら話を始めた。
「杏花のことを本気で好きになったんだ。ていうか、前から好きだった。それで今、付き合ってるんだ」
「あ。やっぱり」
えりちゃんは微笑んだままで、
「多分、そうじゃないかと思ってたよ。同窓会の後、二人で会ったでしょ」妙に明るい感じで、僕にひとさし指を向けた。
「ミナトくんから電話があって、来られないって聞いた時にピンと来たんだ。杏花と会ってるんだろうなって」
「ごめんね。僕はえりちゃんの気持ちには応えられない」
「いいよ。たまに会ってくれるだけで」
えりちゃんは僕の手を両手で握った。
「そういうの慣れてるの。先生もずっと浮気してたし。杏花には絶対にバレないようにするから」
「違うよ。そういう付き合いはできないんだって」
僕は少し目を閉じて、また彼女を見つめた。
「恋人にも浮気相手にもならない。友達として、えりちゃんを支えたいと思ってる」
ふっと彼女の顔から笑顔が吹き飛んだ。代わりに現れたのは、仮面のような無表情。
「なんだ。振られちゃったか」
えりちゃんは立ち上がり、和室の方へ行ってハサミを持ってきた。僕はぎょっとして、
「え? 何するの?」と思わず立ち上がる。
「髪が伸びてるなと思ってたの」
テーブルにハサミを置いて、テキパキとカットの用意をし始めた。
「いいよ。髪なんて」
「いいから座って」
仕方なく椅子に座ると、またあの大きな雨合羽のようなマントを被らされた。彼女は霧吹きで僕の髪を濡らし、迷うことなく髪を切り始める。
チョキチョキという音を聞いていると、ここへ最初に来た日のことを思い出した。
あの日に戻れたら――もう絶対に、間違いは犯さないのに。
「終わったよ、ミナトくん」
巨大なカニと戦う夢を見ていたら、えりちゃんに起こされた。
「ごめんね。ちょっとYさんに似てるかも」
「え、また?」
渡された鏡を見ると。う……っ、またこの人だ。
「えりちゃん、この人以外のカットはできないの?」
「できるんだけど、ミナトくん見てたらつい」
えりちゃんは楽しそうに笑う。
「まさかとは思うけど……これって嫌がらせじゃないよね?」
「そうかも。私を振った腹いせだよ」
えりちゃんは切った髪をほうきで掃いて、また楽しそうに笑う。その笑顔を見ているうちに、僕はつい口走ってしまった。
「一緒に住もうよ」
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