第3話
「ミナトさん、メガネ落ちてますよ」
店の倉庫で品出しをしていたら、リコちゃんから声を掛けられた。倉庫の中は冷房がないので、汗でずり落ちるメガネを頭に掛けてたら、いつの間にか落としてたようで。
「ああ、もうこれ飽きちゃったな」
メガネを受け取ってシャツのポケットに入れると、
「じゃあ、これ巻いてみます?」と腰に巻いていたバンダナをくれた。
「わあ、ありがと」
僕が鉢巻のようにくくると、
「その巻き方だと余計Yさんに似てますよ」と笑って去って行った。
「何それ。意味ないじゃん」
僕はひとりごとを言ってバンダナを外した。面倒だから、今度えりちゃんに髪を切ってもらおう。バンダナをジーンズのポケットにつっこむと、指の先に硬いものが当たった。
そういえば杏花の名刺を入れたままだったっけ。取り出そうか少し悩んで、やっぱり止めた。
あの日のことは喉に刺さった小骨のように、ちくちくと痛んで、今でもしつこく存在している。
でも杏花の気持ちを確かめるなんて、僕にはハードルが高過ぎる。小骨だって、そのうち自然に取れるだろうし、えりちゃんと始める方が僕には無難に思えた。
ようやく倉庫を出て、したたり落ちる汗をタオルでぬぐった。それから店に入って商品をシンちゃんに渡し、
「ねえ、汗かいたから、家に帰ってシャワーしてもいい?」と聞くと、
「いいですけど。ミナトさんって、リュージさん並に自由人ですね」
そう言って笑われた。リュージさんに比べたら僕なんて、ただの小市民ですけど。
喫茶「プリンス」の店内に入ると、珍しくお客さんがいた。王子も忙しそうにしていたので、声をかけずに二階へ上がる。シャワーした後で一階へ降りると王子が気づいて、
「ミナト。ちょうど良かった」と手招きした。
「この店を取材したいって言われたんだけど、どう思う?」
「へえ、いいじゃん。お客さんが増えるかもよ」
そう言って立ち去ろうとすると、腕を引っ張られた。
「おまえ、他人事だと思って」
「何よ。仕事中だってば」
「すみません。ひょっとしてYさんですか?」
リクルートスーツを着た女の人が、僕たちに近づいてきた。
「ああ、人違いですよ」
僕は会釈して、王子に手を振り店を出ていった。後でえりちゃんに電話して、今日会えるかどうか聞いてみよう。もうマジで面倒くさい。
「それで? 店の取材受けるんか?」
「まあね。掲載費が無料って聞いたから、とりあえず契約書を送ってもらった」
僕は王子とヤスのやり取りを聞きながら、カウンターの中でパスタを茹でていた。さっき、えりちゃんに電話をしたら、友達と遊ぶという理由で断られたのだった。
「取材が決まったら、おまえらもお客さんとして来てくれよな」
「何それ。サクラ?」
「店内写真で人がいるんだよ」
「ふうん。オレはええけど。あ、そや」
ヤスがスマホを取りだした。
「杏花に声かけてもいい? 女の人いてた方がええんちゃうの?」
「女の人なら、奥さんがいるじゃん」
僕はあわてて、
「子供と一緒に撮影したら? アットホームな感じで、いいと思うけど」
そう言って、まな板に置いた唐辛子を刻む。
「それはそうやろうけど」
ヤスは不満そうな声を出して、
「王子はどうなん?」と振り返った。
「うちの奥さんはスタッフだからね。杏花が来れるなら一番いいかも」
ちぇっ、うまくいかないな。
「ほな声かけてみるわ」
ヤスが嬉しそうにスマホをいじる。しばらくして、マジかいなとひとりごとを言った。
「どうした、ヤス」
「杏花から返事が来て、取材は出来る限り行くって。でもビックリや。最近お見合いしたらしくて、その人を連れて行ってもいいかって」
僕の意志とは別に、包丁を持つ手が止まった。
「ごめん。ちょっと出かけてくる」
二人の返事を待たずに僕は店を出た。近くの電話ボックスまで走って、ポケットから名刺を取りだす。
杏花に電話をかけると、ミナト? という小さな声がした。
「そうだよ。よくわかったね」
「そりゃあわかるよ。公衆電話なんて、あんたぐらいだもん」
僕は受話器を持ち替えた。心臓の音が大きくて、彼女の声がよく聞こえない。
「お見合いしたって本当なの?」
「うん。結婚するの、私」
「なんで? 僕のせい?」
「当たり前でしょ」
立ってられなくて、僕はしゃがみこむ。おかしいな。なんでこんなにショック受けてるんだろ。
「あのさ、本当のことを聞かせてよ」
「本当って?」
「僕のこと好き?」
杏花はしばらく黙って、僕がお金を入れなきゃと立ち上がった時に、
「好き……でした」と小さな声を出した。
「ていうか、なんで気づかないの? 私があれだけ迫ってるのに。いつも、めちゃくちゃアピールしてたでしょ?」
「そんなのわかんないよ。だって言ってたじゃん。好きな人は他にいるから誤解するなって」
「え? それって、いつの話よ」
「高二、ぐらい。僕にキスをした後で、あなたそう言ったんだよ」
杏花はまたしばらく黙って、信じられないとつぶやいた。
「そんなの、照れ隠しに決まってるじゃない」
「何それ」
次は僕が黙る番だった。照れ隠しで、そんなキツイこと言うだろうか。
僕は百円玉を投入した後、またしゃがみこんだ。顔を見ていないせいか、今なら何でも素直に話せそうな気がした。
「ミナトは? 私のことどう思ってるの?」
「好きだよ。高校の時もずっと好きだった」
「……」
「結婚するって知ってたら、もっと早く言えば良かった。……怖かったんだよ。あんたなんか好きじゃないって言われるのが」
「そんなこと言わないよ。もう高校生じゃないんだから」
「良かった。拒否されなくて」
僕は笑った。笑わないと泣いてしまいそうだ。
「じゃあね。結婚式には呼ばないでよ」
そう言って、僕は電話を切った。終わっちゃったなと思いながら立ち上がる。
店に戻るとカウンターにはラップがかかったお皿が乗っていて、メモ用紙に『何があったか知らんけど、これ食って寝ろ』と書いてあった。
有難く頂戴することにして、僕はラップを取り外した。
「それはツンデレってやつですよ、ミナトさん」
「何それ?」
シンちゃんと小玉さんの店で飲んでいて、杏花のことをざっくり話すとそう言われた。
「好きな人にツンツンするタイプ。わりと多いですよ」
「そうなの? 初めて聞いた、その言葉」
「ミナトは日本が久しぶりだからね」
小玉さんがバーボンのロックグラスを置いて、
「普段冷たい人がたまに優しくする、みたいな感じでしょ?」と聞いた。
「うーん、彼女はずっと冷たいよ」
「あら。優しいとこないの?」
小玉さんは笑って、
「今度ここに連れて来て。私がミナトの扱い方を教えるから」
そう言って去って行った。
「僕そういうの、よくわかんないんだよね。ウソつくのも下手だし」
「ミナトさんは素直だから」
シンちゃんはタバコを一口吸って、正面を向いた。
「でもいいんですか? 僕ならすぐ会いに行って、彼女の気持ちを確かめますよ」
「そう?」
「ミナトさんが旅行中も、ずっと待ってくれてたんでしょ? 僕ならそんな貴重な人、簡単に諦めませんよ」
シンちゃんは、にやりと笑って僕を見つめた。
「まあ、ミナトさんはモテそうだから。別にその人でなくても、大丈夫なんでしょう」
「そんなことない」僕はうつむく。
「シンちゃん。僕は行った方がいいのかな」
「いえ。行かなくていいんじゃないですか」
僕が顔を上げると、
「行った方がいいか、なんて言葉を遣うぐらいなら、たいして好きじゃないんですよ。その人のこと」
そう言って彼はグラスを持った。
「詳しくは知りませんけど。ミナトさんは面倒なことを避けるタイプだから、そういうややこしい人が苦手なんでしょう。だから、諦める方が楽だって思ってません?」
「そう。それ本当にそうなんだよ」
「でしょ? なら行かなくても後悔しませんよ」
後悔という言葉が波紋を呼んで、僕の心が騒ぎだす。
「そっか。ありがと、シンちゃん」
「どういたしまして」
「行ってくるよ」
僕はスツールから降りて、あっけに取られた顔のシンちゃんの手を握った。
「ありがと。本当に。今日はおごるから、後で領収書を渡してね」
僕は店を出てタクシーを拾った。そして杏花のマンションへ着き、チャイムを押そうとしたけれど、部屋の番号がわからない。
とりあえず電話しようと思いエントランスを出ようとした時、こちらへ歩いてくる杏花を見つけた。彼女はダンディなおじさまの腕を組んで、楽しそうに笑っている。こんな年上の人とお見合いしたんだ。お金は持ってそうだけど、浮気とか平気でしちゃいそうなタイプに見える。
いつもの僕ならここで逃げるところだけど、今日はそういう自分を変えてやろうと思った。僕に気づいた杏花を無視して、まずはおじさまに頭を下げた。
「初めまして。僕は杏花さんの高校の同級生で、吉川湊といいます」
「あ、どうも」
おじさまは驚いた顔で、僕と杏花を見た。
「突然ですみません。今日はどうしても杏花さんとお話がしたくて、ここまでやってまいりました。少しの時間でいいので、彼女と話をさせていただけませんか?」
「ああ、それは構わないけど」
おじさまは杏花を見て、
「それじゃあ、俺は帰るよ」と言った。
「うん。ごめんなさい」
「いえいえ、帰っていただかなくても大丈夫です。すぐに済む話ですから」
僕は彼を引き止めて、正面から杏花を見る。
「本当は杏花のこと、諦めようと思ってた。でも自分でも気づいてなかったけど、僕は杏花のことが本気で好きみたい。他の人と結婚しないで、僕と付き合ってほしいんだ」
一息にここまで言って、ふうっと大きく深呼吸した。
「とりあえず、これだけ伝えたいと思って」
驚いた表情の二人に向かって、僕はお辞儀をした。そしておじさまに、失礼しましたとまた頭を下げて、足早にエントランスを出て行った。
ああ、スッキリした。高揚した気分のまま歩いていると、後ろから杏花が僕の名前を叫んだ。
振り向くと彼女はすごい勢いで、こちらに向かって走ってくる。
「信じられない……。あんたって何考えてるの」
はあはあ息を切らして、僕のシャツをつかんだ。
「お父さんの前であんなこと言うなんて」
「え? お父さん?」
顔を上げると、おじさまが笑顔で近づいてきて、
「外じゃなんだから、家に入って話をしたらどうだい?」と僕の肩をたたいた。
「……お父様、でしたか」
「見合い相手だとでも思ったのか。面白いね、君」
わははっと大声で笑って彼は去って行った。
リビングのソファに座って、僕は小さくなっていた。
「ったく、ありえない」
コーヒーを出してくれた杏花にお礼を言うと、
「あのね。物には順序ってのがあるのよ。なんであの場で言おうと思った?」
冷たい目で彼女に見下ろされた。
「ごめんね。今日じゃないと言えない気がしたんだ」
「それならお父さんが帰ってから、二人の時に言えばいいじゃない」
「お父さんだって知らなかったし。それに、彼の前で一発ぶちかましたいと思ったし」
「ああもう」
杏花もソファに座って、深いため息をついた。
「まあいいわ。ミナトにしたらきっと、めちゃくちゃ頑張ったんだよね」
「さっき、勤務先の友達に言われたんだ。杏花のこと、そこまで好きじゃないんでしょって。だから放っておけるんだみたいな」
「……それで?」
「一瞬そうかもって思った。高校から時間がだいぶ経って、僕も外国ではたくさん恋愛したし。僕ってさ、淡泊なんだよ。あんまり人に深入りしないの」
「知ってる」
コーヒーを一口飲んでから、彼女を見る。
「でもね、杏花だけはずっと好きで。面倒くさいのに好きって、僕の中では珍しいことなんだって気づいた。それなら本当に失った時、死ぬほど後悔するかもしれないって思ったの」
そう言って、彼女の手を握った。
「結婚なんてしないでよ」
杏花の目から涙がひとすじこぼれる。
僕は彼女の頬を両手で持って、やさしくキスをした。自分からしたのは初めてだなあと思いながら、少ししょっぱい唇を何度も吸う。
胸を触ると杏花は切なそうな声を出した。ブラウスのボタンを外し始めたら、ここでするのと聞いてくる。スイッチが入った僕には、場所とかそんなのどうでもいいんだって。
ベッドで目を覚ますと、彼女はもういなかった。
裸のままリビングに入りダイニングテーブルを見ると、朝ごはんらしきプレートが載っていて、その横に鍵が置いてあった。
それにしても豪華な部屋だなあと今更ながら思う。
二十畳はありそうな広々としたリビングに、シンプルできれいに片づいているキッチン。
昨夜彼女は、ここで僕と一緒に住みたいと言った。そしてこうも言った。
僕との子供が欲しいと。
バスルームに入ってシャワーを浴びる。それってつまり、結婚したいって言われたんだよね。相変わらず遠まわしにしか言わないけど、つまりはそういうことだよね。
仕事場に着いて、僕は真っ先にシンちゃんにハグした。
「ミ、ミナトさん?」
「ありがとう。シンちゃんのお陰でうまくいったよ」
「それは良かったですね。でも、これ以上ハグされると惚れちゃいますよ」
「あ、それは困る」
僕は腕を離す。
「彼女にプロポーズされちゃった。なんか幸せ過ぎてヤバイ」
鼻歌を唄いながら開店準備をする。商品を整理していると、リコちゃんが隣にやって来て、
「シンちゃんがさっき、あの腰に蹴りを入れたいって言ってましたよ」と小声で言った。
「え? 何それ?」
「彼に背中を見せない方がいいですよ」
リコちゃんが僕の腰をパーンとたたいて、笑いながら去っていく。
おかしいな。シンちゃんを怒らせるようなこと、何か言ったっけ。
その夜、杏花からもらった鍵でドアを開けると、彼女は玄関まで飛んで来た。
そして僕の手を繋ぎ、早く早くとベッドへ誘う。排卵日だから頑張ってねと言われ、強壮剤を持たされた。わお。
「子供が欲しいって本気だったんだ」
「もちろん」
てきぱきと服を脱いでベッドにもぐりこみ、杏花は部屋の電気を暗くした。
「ねえ、シャワー浴びたいんだけど」
仕方なく服を脱きながらそう言うと、
「後で一緒にお風呂入ればいいじゃん」と彼女は微笑んだ。うーん。嬉しいような、怖いような。
とりあえず役目を果たしてお風呂に入り、ようやく晩ごはんにありつけた。朝ごはんも美味しかったし、杏花って案外、料理がうまいんだよね。
「この炊き込みごはん、美味しいね」
「そう? 良かった」
杏花は嬉しそうに笑う。可愛らしいけどスケスケのパジャマを着てて、
「そんなの、どこで買うの?」と聞くと、通販だよと顔を赤くした。照れ屋のくせに、そのパジャマを僕に見せてる時点で、恥ずかしくないのが不思議。しかも紐パン履いてるし。
「あのさ、言おう言おうと思ってたんだけど」
「何?」
僕はえりちゃんとの関係をうちあけた。杏花は眉毛を片方だけ上げて、
「知ってる知ってる。えりに聞いたから」と顔色も変えずに言った。
「え? いつ?」
「んーと。二ヶ月ぐらい前かな? えりから電話あったの」
杏花はお水を飲んで、指をこめかみに当てた。
「偶然ミナトと会って、なんとなくそういう関係になったけど、好きになってもいいかって聞かれたんだ」
「それで?」
「好きにしたらって。そう言うしかないじゃん。私に何の権限もないんだから」
ムッとした顔になって、杏花はまた水を飲んだ。
「えりと寝たこともだけど、帰って来て何の連絡もしてくれないことに腹が立ったんだけどね。あの約束のこと、絶対に忘れてると思って」
「ごめんね。杏花が僕を待ってくれてるなんて、知らなかったんだ」
「もういいの。でも食べ終わったら、もう一回しようね」
「……はーい」
僕はお味噌汁を飲む。早くえりちゃんに会って、杏花のことを話さなきゃ。彼女も僕と始めようと思ってくれていたのなら、きちんと謝りたかった。
でも――それから何度かけても、えりちゃんは電話に出なかった。彼女が入院していて、かなり危険な状態だったことを、その時の僕は知る由もなかったのだ。
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