第2話
それから何日か経った頃、リュージさんが店にやって来た。
「ミナト、元気にしてる?」
トレードマークのテンガロンハットをかぶり、アロハシャツを着たリュージさんは、見るからにいかがわしい雰囲気を醸し出していた。
「どうなの? 売れてんの、この店?」
彼はシンちゃんに向かって軽くにらんだ。が、シンちゃんはお構いなしで、
「Tシャツの売れ行きは例年と同じで、悪くないですよ」と微笑んだ。
「ふうん。買取の方は?」
「そっちの方は、去年より増えてます」
パソコンの会計ソフトを立ち上げて、シンちゃんはリュージさんに見せた。オーナーなのに経理のほとんどをシンちゃんに任せていて、たまにこうして抜き打ちで店にやって来る。こういう社長の下で働くのって、楽なのか楽じゃないのか。今度シンちゃんに聞いてみようと思ってたら、
「ミナト、飯食いに行くよ」とリュージさんに腕を引っ張られた。
オープンカーに乗せられて、おしゃれな海辺のレストランで食事をした。いろんな国を旅したけど、料理はやっぱり日本が一番だよなと思っていたら、
「そのメガネって伊達?」とリュージさんに訊ねられた。
「そうですよ。知ってます? こんな顔の人」
僕はメガネを取ってテーブルに置く。
「おっ。Yさん」
「こないだ髪切ったら似てるって言われだして」
「うん。すっげー似てる」
「色々と面倒なんで、これで変装してるんです」
僕はまたメガネをかけた。
「いいなあ。Yさんならオレも似てみたいわ」
「どうなのかな。僕には価値がわかんなくて」
「いや、いいと思うよ」
僕は苦笑いをしてカフェラテを飲み、窓の外を眺めた。白いパラソルが並んだデッキスペースと、その向こうに広がる青い海。僕の前にはリュージさんがいて、一瞬ここが日本だということを忘れそうになる。
「マジな話していい?」
彼は葉巻を取り出し、ゆっくりと火をつけた。こういう時は、お金か女の話か、どっちかなんだよな。僕が頷くと、
「オレさ、そろそろ身を固めようと思って」と微笑んだ。
あ、女の方か。
「小玉さんとですか?」
「笑わせんなよ。なんでオカマと結婚できんだよ」
彼は楽しそうに笑った。やっぱオカマだったのか、小玉さん。
「真琴のことは愛してるよ。でも現実には子供産めないじゃん。オレさ、そろそろ子供欲しいんだよね。オレの後継者っていうか、そういう存在が欲しくってさ」
詳しくは知らないけどリュージさんって、うちの古着屋以外にバーとかスナックも経営してるし、不動産もたくさん持っているらしい。譲れる財産があってこそ、後継者っていう考えが出てくるんだろうな。
こうして仲良くしてもらっているけど、彼は謎の多い人だ。アメリカを放浪している時に出会って、同じ大学出身ということで気に入られ、一ヶ月ほど一緒に旅をした。そして僕は、彼の考え方や物事の処理の仕方に、とても影響を受けた。
僕の常に右を選ぶやり方も、リュージさんに教わったことだ。彼はこう言った。
『いいかミナト。自分に与えられるものは大体、同じような価値の品物なんだ。だから右であろうが左であろうが、そんなに大差ないんだよ』
その言葉に納得した僕は、それからは基本的に右を選択するようになった。もちろん大事な選択以外だけど。
「ミナトが未成年なら、養子にしてやるんだけどな」
にやにや笑うリュージさんは、いつもながら本心が見えない。
「結婚を考えるような人、いるんですか?」
「まーねー。オレってモテモテだからね」
ガハハと笑って葉巻を消し、
「今度おまえにも会わせてやるよ」と立ち上がった。
彼が選んだ人は小玉さんより素敵な人だろうか。
僕は彼女のくびれた腰を思い出した。あんなナイスバディを振るとは、なんてもったいない。
それから機嫌の悪くなった僕を見て、
「なんだよおまえ、妬いてんじゃないの?」とか言ってたけど、僕はそっぽを向いたまま彼の言葉を無視し続けた。
「ああ、その話ならだいぶ前に聞いたわよ」
仕事が終わってすぐに小玉さんの店に行くと、彼女はあっさりと頷いた。
「それでいいんですか? あの人、行動早いからすぐ結婚しちゃいますよ」
「だって。子供が欲しいとか言われても、ワタシには無理だもん」
小玉さんは色っぽい表情で笑った。今日は胸元が大きく開いたドレスを着ていて、いつもより目のやり場がない感じ。
「それに。彼が結婚したからって別れる気はないしね」
「え? そうなの?」
「当たり前じゃない」
彼女はウインクして、
「リュージがワタシを離す訳ないでしょ」と微笑んだ。すっごい自信。小玉さんはきっと、愛されることに慣れているんだろう。
僕はホッとして、ジンライムを飲んだ。それからふと、えりちゃんのことを思った。
実はあの夜、僕は誘われるまま彼女と寝たのだ。久しぶりなので痛いと言ってたのに、終わる頃には僕よりも腰を振ってたっけ。
なんとなく一夜限りの方がいいんだろうと解釈して、連絡先も渡さずに別れたけど、それで良かったのかな。
次に会う時、僕はどんな対応をすればいいんだろう。
なんて思ってたら、小玉さんにスマホを渡された。
「ミナトくん、えりちゃんから電話だよ」
「へ?」
「あんたが来たら電話してって言われてたの」
小玉さんが耳元でささやいた。ぞくぞくっとして鳥肌が立つ。
「もしもし」
僕が電話に出ると、
「あ、ミナトくん。良かったら今から会えない?」
ってすごく普通に誘われた。なんとなく救われた気分になる。
電話を切った後、僕は小玉さんの店を出て、えりちゃんが指定した場所へ向かった。そこはシンちゃんと歩いてる時に見た、階段のある広場だった。
噴水の前に立ってたえりちゃんは、僕を見つけると大きく手を振った。今日の彼女は短いキュロットスカートを履いて、赤い帽子と大ぶりのネックレスを付けている。
「えりちゃん、今日は雰囲気が違うね」
僕が感想を漏らすと、ふふっと彼女は笑った。そして僕の手を取って階段を上がった。
もう十時だというのに階段には人がいっぱいいて、僕たちは人に当たらないギリギリの場所を確保して座る。
「この前は言わなかったけど、私、学生やってるの」
リュックの中のテキストを見せながら、えりちゃんは微笑んだ。
「服飾の専門学校。といっても夜間の方だけど」
「へえ。そうなんだ」
「そこの友達が十代ばっかりで。合わせるつもりはないのに、自然と若い格好を選んじゃうんだよね。もう26なのに」
あははっと明るく笑うえりちゃんは、こないだ会った時よりも元気そうで、溌剌とした表情を浮かべている。
「やっと自由になれたから。今は好きなことが出来て本当に幸せなの」
田島先生のことだろうか。まだ聞かない方がいい気がして、僕は階段下を眺める。
昼間とは種類の違うざわざわした空気。ギターをかき鳴らし、色っぽくもなんともない声で唄っている若いお兄さんがいたり、居心地が良いような悪いような、何とも言い難い混沌とした雰囲気が漂っている。
えりちゃんが僕の手をぎゅっと握るので振り向くと、
「こないだはミナトくんと会えて嬉しかった。気づいてないと思うけど、ずっと好きだったんだよ。あの頃は先生と杏花がいたから……」
そう言って僕の肩にもたれてきた。
「ホントに?」
「うん。結婚なんて、本当はしたくなかった」
何も言えなくて、僕はただ黙っていた。しばらくして、
「あ、そう言えば」
えりちゃんが顔を上げた。
「こないだはゴメンね。髪型で迷惑かけたんじゃない?」
「迷惑って……。ああ、Yさん」
「そう。切ってるうちに似てるなって思ったんだけど、すごくいい感じだったから……」
「確かに面倒くさかったよ。もう、色んな人に声をかけられたんだからね」
「そうだよね。本当にゴメンね」
えりちゃんはくすくす笑った。
「でも、このメガネで変装してるから大丈夫」
「それ変装って言うのかな」
彼女はまた楽しそうに笑った。
「結婚して一年ぐらい経った頃に、自律神経失調症になったの」
えりちゃんは僕に腕枕をしながら、まるで子守唄のように話を始めた。彼女の小さな乳房が鼻先にあって、集中して話を聞くには適してなかったけど、それでも話の内容はよくわかった。
先生は独占欲が強い人のようで、彼女が他人と触れ合うことを極端なほど嫌がったらしい。
「とにかく禁止事項がいっぱいあったよ。就職もダメ、進学もダメ。女友達と会うのも月に一度だけとか。携帯電話も持てなかったし、パソコンも触れなかった」
えりちゃんはため息をついた。
「ずっと籠の中の鳥みたいで。子供がいたら違ってたんだろうけどね。一人で家にいるとおかしくなるんだよね。体がだるいし食欲もなくなって、体重が30キロまで落ちちゃって。それからずっと通院して、成人式の頃にようやく普通の体重まで戻った感じ」
「ああ、成人式で会ったの覚えてるよ。えりちゃん、とてもキレイだった」
「ありがと。とにかくみんなに会いたくて、必死で治療したから」
彼女は微笑んで、僕の髪を優しくなでた。
「お子さんは?」
「いないよ。いたら離婚してなかったかもね」
「そっか。……なんかゴメンね」
「ううん。ていうか、病気になってから、先生と出来なくなっちゃったんだよね」
可愛らしく舌をペロッと出した後、すごく怖くて、とつぶやいた。
「ちょっとでも触られると体が震えたの。拒否反応みたいに、じんましんが出たり。それで先生も求めて来なくなっちゃった」
そう言って、えりちゃんは僕の髪から手を離した。
「それから去年別れるまで、先生にはずっと愛人がいたんだよ。私のせいだと思ったし、離婚してほしいって何度もお願いしたんだけど、それだけは絶対に嫌だって。その代わりアルバイトしてもいいよって言われたの。ただし先生のご実家の散髪屋さんで。笑っちゃうよね。先生にとっては、最大の譲歩がそれなんだって」
僕は目を閉じて、田島先生のことを思い出そうとした。若くてメガネをかけて、おとなしい雰囲気の人だったっけ。他の先生と比べると存在感が薄くて、あまり印象に残ってないんだけど。
「それでもね、散髪屋さんの仕事は楽しかったの。お客さんと会話出来るし、お義父さんにも褒められて、理容師になろうかなって思ったこともあった。でも一番やりたいことを探してみたら、やっぱり服飾しかないって思ったの。それでお金を貯めて学校に通い出したんだけど、すぐに先生にバレちゃって。めちゃくちゃ殴られて、腕を骨折したの。仕事は出来なくなったけど、学校には通ってた。あの時はもうお互いに限界だったんだろうね。それから彼女の妊娠が発覚して、ようやく離婚することが出来た」
えりちゃんは笑ってVサインを作った。
「本当に……大変だったね」
僕は彼女を抱きしめて、ついでに胸に顔を埋める。
「あははっ。くすぐったいよ、ミナトくん」
笑っていた彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫だよ。今は最高に幸せだから。こんな風にミナトくんといちゃいちゃ出来るし」
顔を上げた僕に、えりちゃんはキスをした。
もっと幸せにしてあげたいな。そう思いながら僕は彼女と繋がる。高校の時とは少し違う気持ちで、えりちゃんを守ってあげたいと思っていた。
次の日の夕方、僕が接客をしていると、
「ミナトいてる?」とヤスが店に入って来た。彼は白いタオルを帽子のように巻き、酒屋の前掛けをしてて、いつもより男前な感じ。
「何の用? ヤス仕事中でしょ?」
お客様をレジに誘導した後で声をかけると、
「さっき小玉さんの店に配達したら、おまえとえりちゃんがええ感じみたいなこと言うてたから、気になって来たんや」と大声を出した。
「やめてよ。営業妨害」
僕は入口からヤスを連れ出す。
「なあ、ほんまに付き合ってるん?」
「付き合うっていうか……まあ、いい感じだよ」
僕は頭をかいた。
「付き合えればいいなと思うけど、彼女がどう思ってるかはわかんない」
「ふーん。もう寝た?」
ヤスが怖い目つきで近寄ってきた。
「うん、まあ」
「そうか。ほな今度、久しぶりにみんなで会おか」
「みんなって?」
「高校の時のメンバーやんか。こないだ杏花に、ミナト帰って来たってSNSで教えたら、すぐに会いたいって言うとったんや」
「え……杏花に会うの?」
「なんや? 会いたないんか?」
「ううん。そういう訳じゃないけど」
「ほな、今日はプリンス集合な」
ヤスは背中を向けて手を振った。杏花に会うのは、正直気が重かった。昔ほどではないけど、僕は彼女のことがどうも苦手なのだ。
仕事を終えてから、喫茶「プリンス」へ向かうと、カウンターには既に杏花が座っていた。
「ミナトっ」
いきなりハグされて、僕が倒れそうになったのをヤスが受け止める。
「あービックリした。襲われるかと思った」
僕が言うと、
「ホントに襲ってあげようか?」と可愛らしい声で笑った。
「いえ、結構です」僕は後ろに下がる。
「ヤスの言う通り、Yさんに激似じゃん。これで外歩いたら、人が寄ってきそうだね」
杏花は大きな目をくりっと丸くして、
「良いこと思いついちゃった」とスマホを取りだして、僕の写真を撮った。
「何だよ。事務所、通してよ」
「ねえこれ、SNSに上げてもいい? どれだけ騙せるか見てみたいんだけど」
「ダメだって。そんなことしたら、もう会わないから」
僕は杏花からスマホを取ろうとした。でも彼女は僕の腕をするっとかわす。
「ウソだよん。ミナトって相変わらず可愛い」
僕は呆れて王子の顔を見た。彼も同じような表情で、両手を上にあげる。
ヤスを見ると、いつも以上に両目が垂れている。前から思ってたけど、こいつは正真正銘のMだな。黙ってればイケメンなのに、お気の毒なことで。
「それじゃあ、同窓会の日程を決めようか」
テーブル席に移動して、王子はカレンダーを広げた。杏花はちゃっかり僕の隣に座って、当たり前みたいな顔で腕を絡ませてくる。そしてわざと胸を当ててくるんだ。うぶな高校生と違って、その誘惑には乗らないからね。
「じゃあ、また今度ね」
別れ際、杏花は僕に名刺を渡した。お水かな? と思いながら名刺を見る。
『株式会社 カシワイズム 代表取締役 柏原杏花』
「え? 社長?」
驚いた僕の顔を見て、彼女は微笑んだ。
「そうだよ。人材派遣の会社を経営してます。求職の際はぜひ弊社へ」
小さく手を振って、杏花は去って行った。白いスーツの後姿を見送っていたら、
「名刺もろたんや」
ヤスが僕の肩に腕を乗せた。名刺を裏返すと携帯の番号が手書きしてあって、
「あーあ。なんでいつもミナトばっかりやねん」
ふてくされた声を出して、ヤスも帰って行った。
店に戻ると王子は食器を洗っていた。
「王子、ヤスから話、聞いた?」
「何の話って?」
「僕がえりちゃんと、いい感じになってる件」
「うそ、マジで? あれからまた会ったの?」
「うん」
「そっか。えりちゃんの方か。オレはようやく杏花に行くのかなって、思ってたんだけど」
「それは無いよー。有り得ないでしょ」
僕が笑うと、王子は意味深な目をした。
「ふうん? おまえら高校の時、仲良かったじゃん」
「ないない。そんな過去は記憶にないから」
僕は冷蔵庫から水を取りだして、二階に続く階段に足を置いた。
「じゃあ、もう寝るよ。王子、戸締りよろしくね」
「わかった。おまえも火の元に気をつけろよ」
彼に手を振って二階へ上がった。キッチンと茶の間があって、襖で仕切られた六畳の和室が二つあるこの家は、元は王子の実家だった。
疲れていた僕は、敷きっぱなしの布団に寝転ぶ。目を閉じると、さっき会ったばかりの杏花の顔が浮かんで、ジーンズのポケットから名刺を取りだした。
あいつが社長なんて、世も末だよな。少しオウトツのある紙をなでてから、もう一度ポケットに押し込む。
その夜、夢を見た。
高校の制服を着たヤスと、並んで廊下を歩いていた。体育でやるマラソンかったるいよな、とか言ってて。後ろから走って来た杏花が、僕の腕にまとわりつくと、ヤスは面白くなさそうにそっぽを向いた。
前を歩いている王子が振り返り、ヤスの名前を呼ぶ。
王子の隣を歩くえりちゃんも振り返って、はにかむように笑った。そして横にいる女の子は……えっと誰だっけ。
「ありえない。名前忘れるなんて」
居酒屋の座敷で、杏花が頬をふくらませた。
「違うよ。忘れたんじゃなくて、ど忘れだってば」
「いいのよ、ミナトくん。高校の時はメガネかけてたし、今とは全く印象が違うから」
そう言って微笑んだのは、園田千代子――ソノちゃんと呼ばれていた彼女は、生徒会長をしたりテニス部の部長をしたり、何かと目立つポジションにいたのだけど、おっとりした性格と地味な風貌のためか、どちらかと言うと存在感の薄い子であった。
その彼女が……。今日は男性陣の目を釘付けにするほど、美人オーラとフェロモンをバンバン出している。何より目を引くのはそのスタイルの良さで、ぼーっとしてるとバストばっかり見てしまってヤバイことになりそうだ。
よりによってソノちゃんとえりちゃんは、テーブルを挟んだ向かい側にいる。しかもソノちゃんは僕の真正面。
今夜は彼女たちに挟まれた幸運な男子、王子のツラでも眺めることにしよう。残念だけど、それが一番無難だよな。
乾杯をした後、なんとなく座布団の上に手を置くと、隣に座っている杏花が手を乗せてきた。振り払おうとしたら、ぎゅっとつかまれる。
「やめてよ」
小声で言うと、
「じゃあ腕を組むよ」と脅してくる。
話題の中心がソノちゃんばかりだから、機嫌が悪いのかもしれない。僕は仕方なく左手で唐揚げをつまんだ。
「えりちゃんのことは、ちらっと耳にしたけど、ソノちゃんも離婚したんや」
ヤスが驚いた声を出した。
「そうなの。えりと同じでバツ一。うちは子供が一人いたんだけど、だんなに親権を取られちゃって……」
切なそうに眉を寄せて、ソノちゃんはため息をついた。おっと。よだれが出そうになる。
「お子さんっていくつ?」
王子が聞くと、
「五歳だよ。写真見る?」とスマホを出した。
「これが一番最近かな」
「おっ。可愛いな。じゃあ、うちの坊主も見る?」
王子もスマホを出して、子供の写真を見せ合っている。
「こっちにも回してえや」
ヤスが手を伸ばしてスマホを受け取り、しばらくして僕の方にも回ってきた。
「可愛い。もうこんなに大きくなったんだね」
杏花が笑顔で僕を見る。
「いや、僕は初見ですから」
幼稚園の制服を着て、カメラをにらむような顔付きの小さな男の子は、ソノちゃんにとても似ていた。
「ほれ、王子のスマホも回ってきたで」
ヤスからスマホを受け取り、杏花がきゃあと小さく叫ぶ。
「うわっ赤ちゃんだ。可愛いーー」
「これ二人目ね。長女の方は六歳だよ」
僕が教えてあげると、杏花は顔を上げて、
「ミナトも子供欲しい?」と聞いた。
「そりゃ欲しいよ。僕わりと母性本能があるんだよね」
「それ言うなら父性本能ね。わかった。私が生んであげるよ」
「いえいえ、間に合ってるんで」
僕はちらっとえりちゃんを見る。彼女がヤスと楽しそうに話してるのを確認して、
「ちょっとトイレ行ってくる」と立ち上がった。
座敷を出ると後ろから、ぱたぱたっという足音が聞こえてきた。振り向くと、えりちゃんが笑顔のまま近づいてきて、
「今日は全然話出来ないね」と僕の手を握った。
「ごめんね。席が遠いから」
「いいの。終わってから会える?」
「うん。じゃあ家に行くよ」
「わかった」
僕は周りに誰もいないことを確かめて、えりちゃんにキスをした。そしてさっさと背中を向けてトイレに向かった。
同窓会が終わって、ソノちゃんとえりちゃんは先に帰って行った。もう一軒行こうと王子に誘われたけど断って、僕はみんなと別れた。えりちゃん家に行く前に、DVDでも借りようか。そんなことを思いながら歩いてると、後ろから背中をたたかれた。
振り向くと杏花が立っていて、
「ちょっとでいいから付き合って」と僕の腕をつかんだ。
「ごめん。今から約束あるんだ」
「ちょっとだけって言ってるじゃん」とそのまま手を引っ張られる。
何も言わずにずんずん歩く背中を見ていると、どうしても高校の時のことを思い出してしまう。僕の事情をお構いなしに、自分のペースでぐいぐい迫ってくる彼女を、僕はいつもうまく振り払うことが出来なかった。面倒くさいなと思いながらも、杏花の言いなりになって――それは今でも変わらないみたいだ。
人通りの多い通りを抜けて、彼女はおしゃれな外観のビルの前で立ち止まった。そして地下へ続く階段を降りていく。
手を離した僕は一瞬、ここで帰ってしまおうかと思う。だけど、振り返った彼女のきつい眼差しに逆らえず、仕方なく階段を降りた。
木製のドアを開けると、シックな雰囲気のバーカウンターが見えた。何のためらいもなく、杏花はスツールに座る。
カクテルを注文した後、隣に座った僕をちらっと見て小さくため息をついた。毛先だけ巻いた髪を指でもて遊びながら、仕方なくといった風情で口を開く。
「ねえ。あの時の約束、覚えてる?」
「約束って?」
「本当に忘れたの?」
あきれたというような顔をして、僕の耳に口を寄せる。
「旅行から帰ってきたら、一緒に暮らそうって言ったじゃん」
「え……? 何それ」
とぼけている訳ではなくて、本当に知らなかった。っていうか、そんなこと言って忘れる男なんて、そうはいないだろう。
「あ、そう。じゃあやっぱり酔ってたんだね」
杏花は頭を抱えた。
「だと思った。あんたがそんなこと言う訳ないもんね」
「ごめん。何の話?」
「いいの。今のは忘れて。じゃあ……。あの日のことは覚えてるよね?」
「あの日って……旅行に行く前の、あの日?」
僕が聞くと、彼女は目をそらして小さく頷いた。少し頬が赤くなってて、不覚にも可愛いなと思ってしまう。
旅行に行く前の日、僕は杏花の家に泊まった。それまでも彼女から強引に、何度も唇を奪われていたけど、寝たのはその日が初めてだった。
「もちろん覚えてるよ。かなり酔ってたけど、ちゃんと出来たよね?」
「何言ってんの。バカ」
杏花は顔を真っ赤にしている。気が強いくせに、こういうのは照れるらしい。
「ひょっとして、その時に僕が、一緒に暮らそうって言ったの?」
「その話はもういいって」
カクテルを飲んで杏花は、ふうっとため息をついた。
「そっか。ミナトにとって私は、一夜限りだったんだね」
「杏花こそ覚えてないんだ。あなたが言ったんだよ? 今日だけだって。だから僕は……」
帰ってから一度も、連絡しなかったんだ。
「言ったよ。でもそんなの本心な訳ないじゃん」
「本心だろ? だって杏花は僕のこと好きじゃないのに」
「え? 何言ってんの?」
急に声のトーンを低くして、彼女は僕を見つめた。そしてバッグからお札を出して、カウンターに載せた。
「意味わかんない」
そう言ってスツールを降り、店を出て行った。追いかけようか迷ったけど、いいやと諦める。
僕は伊達メガネを外して、カクテルのお代わりを頼んだわ。
こっちこそ意味がわかんないよ。杏花はずっと言ってたじゃん。僕に構うのはヒマつぶしだって。好きな人は他にいるから、誤解しないでよって。
その言葉に僕がどれだけ傷ついてたことか。どう対応すれば正解なのかわからなくて、杏花のことがどんどん苦手になって――でも、どうしても嫌いになれなかったんだ。
カクテルを持ってきたバーテンさんが、
「すみません。もし宜しければサインもらえますか?」と聞いてきた。
あ、メガネ……外してた。
店を出た後、公衆電話を探してえりちゃんに電話をかけた。こういう時に思うけど、携帯電話を持たない人のために、もう少しだけ公衆電話の台数を増やしてほしいな。
えりちゃんに、体調が悪くなったので行けないと告げると、怒らずに僕の体を心配してくれた。ごめんねと言って電話を切る。やっぱり、こういう素直な人がいいな。杏花みたいに、無駄に神経すり減らされて傷だらけにされる奴よりも――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます