不甲斐ないミナトくんの選択問題

千花

第1話

 たとえば右か左かの選択を迫られた時、僕は迷わず右を選ぶ。なぜなら左を選んだところで、大して変わらないものだと知ってるから。

 という訳で、その時も右側にいる子を選んだ。僕にしてみれば、当たり前の選択だった。むしろたまたま右にいるというだけで、自分に縁があると思っちゃうぐらい。なのに隣のえりちゃんは腑に落ちなかったようで、

「ミナトくん。本当にそっちの子でいいの?」

 と上目遣いで僕を睨んだ。あれ? さっき僕に選んでほしいって頼んだよね、あなた。

「僕はこの子がいいんだけど。えりちゃんは左の子が良かったの?」

「ううん。そういう訳じゃないんだけど」

 何、その煮え切らない言い方。

「どう言えばいいのかな」

 えりちゃんは体を左右に振っている。漫画ならモジモジとか書いてそう。

「つまり、そんなに早く決めちゃって後悔とかしないの?」

「しないしない。だって可愛いじゃない」

 僕は駅員さんに渡された子猫を抱き上げた。茶色のとら模様だから、名前はトラで決まりだなあとか思っていると、

「でもね、この子も可愛いんだよ」

 えりちゃんがしゃがみこんで、もう一匹の子猫をなでた。

「両方もらってくださってもいいですよ。最後の二匹なんで」

 駅員さんが、壁に貼ってあった子猫あげますのチラシに手をかけながら、こっちに笑顔を向けた。白い歯で結構イケメンの駅員さんだ。

 なんとなくふたりで顔を見合わせる。

「待って駅員さん。それ剥がすの、もうちょっと待ってね」

 彼にそう言った後、えりちゃんと同じようにしゃがみこんだ。

「ねえ、えりちゃんは二匹とも飼えるの?」

「うん。多分大丈夫。ミナトくんも協力してくれるでしょ?」

「ん?」

「みんなで一緒に住めばいいじゃない」

 えりちゃんは僕を見て、にっこりと微笑んだ。

「ちょっと待って。それは猫の話だよね?」

 僕は少しうろたえる。えりちゃんは首を横に大きく振り、

「ミナトくんもね。みんなで一緒に住みたいな」

 そう言って照れたように笑った。

「え? 僕も一緒に?」

 僕が聞くと、彼女は笑ったまま大きく頷いた。

「やったあーーっ」

 僕はガッツポーズを取った後、抱いてた子猫をみかん箱に戻した。箱の中でにゃあにゃあ鳴いている子猫たちが、更に愛おしく見えた。


           ☆                     ☆


 えりちゃんとこんな風になるなんて、ちょっと前の僕には想像もしなかった。

 彼女と再会したのは半年ほど前になるだろうか。長い長い旅行から帰って来て、先輩の紹介で仕事を始めてしばらく経った頃だった。

「ここの広場、最近人気のスポットらしいですよ」

 街を歩いていると、一緒にいたシンちゃんがそう教えてくれた。商業施設が立ち並ぶ一角に、空き地を利用したレンガ敷きの広場があった。石で造られたかわいらしい噴水や、常緑樹とハーブがあちこちに植えられていて、ヨーロッパ風の庭園という風情。

「広場の奥に階段があるでしょ? あそこが特に人気らしいですよ」

 彼の指さす方向を見ると、かなり横幅がある階段に、まるでベンチのようにたくさんの人が座っている。

「ほら、外国にスペイン階段ってあるじゃないですか。あんな感じで、みんなが座ってるんですよ」

「ふうん、そのスペイン階段なら行ったことあるよ」

「へえ。さすが元バックパッカー」

「あそこは確か、飲食禁止だったと思うけど」

 お昼時のせいか、その階段に座っている人のほとんどが何かしらを食べていた。その姿を見ていると腹時計が鳴ったので、思わずシンちゃんの手を握る。

「何ですか? ミナトさん」

「シンちゃん、僕たちも早く食べにいきましょう」

 そうして僕たちは広場を後にして、近くのラーメン屋に駆け込んだ。

 食べ終わって店を出ると、シンちゃんは例のごとくスマホをいじり始めた。

「歩きながらは危ないよ」

「じゃあ腕組んでもらっていいですか?」

 シンちゃんはそう言って、僕の右手に自分の腕をからませた。

「アホか。ホモみたいじゃん」

 僕は彼の腕から手を引き抜く。それでなくても、そっち系だとよく間違えられるんだから、紛らわしい行動は止めてほしい。

「ミナトさんってノーマルでしたっけ?」

 シンちゃんがにやにやしてこっちを見ている。

「そんなに髪を伸ばしてるから、てっきりネコだと思ってましたよ」

「ネコって何? でもそれ違うよ。これはどっちかって言うとロッカーですよ」

 エアギターを奏でる僕をあっさり無視して、シンちゃんはスマホを閉じた。

「シンちゃん好きだよね、SNS」

「好きっていうか、習慣ですね」

「僕わかんないの。そういうデジタルなこと全般」

「その方がいいですよ」

 シンちゃんはまだにやにやしている。ひょっとしてこいつ、本当にホモなんじゃないだろうか。


「言わなかったっけ。シンちゃんはバイだよ」

 小玉さんがさらっと言った。えっと、バイってバイセクシャルのことだよね。

「ほうほう」

「何、そのおじいさんみたいな返事」

「小玉さんの友達はやっぱり、小玉さんの友達なんだなあと思って」

「ふふっ。まあそうね。類は友を呼んじゃうもんだからさ」

 彼女は鼻にしわを寄せて微笑んだ。その可愛らしい表情に、僕の胸がどくんと波打つ。

 小玉さんは、僕が今まで会ったニューハーフの中で一番美しい人だ。この店でも女性のママとして接客していて、今のところ誰にもバレてないらしい。真実を知ってる僕だって、本当には信じていない。きっと僕は、かつがれているんだ。彼女を紹介してくれた僕の先輩と二人で、あいつまだ騙されてるよって笑ってるに違いない。

 グラスに氷を入れた後、小玉さんは僕に背を向けてジンのボトルを取った。細くくびれた腰、豊かで形のいいお尻。ヤバイ。まぶしすぎる。

 僕は彼女の体から目をそらしたくて、後ろを振り返った。それにしても今日はお客が全く来ない。カウンターとテーブル席が三つほどの小さな店内に、残っているのは僕と彼女だけ。そろそろ帰ろうかと、僕が時計を見た時だった。

 からんという音と共にドアが開き、ショートカットの女の人が店に入って来た。

「いらっしゃい、えりちゃん。ちょっとお久しぶりね」

「ごめんね、遅い時間に。まだ大丈夫?」

「ぜーんぜんいいわよ。今日はヒマでヒマで。ねえ、ミナトくん」

 小玉さんが僕を見て、

「えりちゃん、こちらはミナトくん。ワタシのダーリンの後輩なの」と、紹介してくれた。

「こんばんは。って、あれっ?」

「やだ。本当にミナトくんなの?」

「きゃーーーー久しぶり。えりちゃん」

 僕は思わず立ち上がって、彼女にハグをした。

「ミナトくん……。外国帰りかもしれないけど、私は恥ずかしいよ」

「あ、ごめんね」僕は素早く腕を離す。相当恥ずかしかったのか、えりちゃんは顔を真っ赤にしていた。申し訳ない。

「ねえねえ。どういうお知り合いなの?」

 なぜか目をきらきらさせて、小玉さんが僕の袖を引っ張った。

「ああ、小玉さん。えりちゃんは高校の同級生なんだよ」

「そうなんだ。久しぶりのご対面なのね」

「うん。僕が大学を辞めて、旅行を始める前だから……。五年ぶりぐらい?」

「そうね。あの頃ちょうど同窓会があったんだよね」

 えりちゃんがそう言って、僕の隣の席に座った。

「懐かしいなあ。えりちゃんは全然変わってないけど」

「ミナトくんだって変わってない……。でも、髪は伸ばしてるの?」

「うん、まあ。これがなかなか不評で」

「アハハ。似合うか似合わないかっていうと、似合わないかも」

 ごめんねと言って、えりちゃんは笑った。

「そんな笑うほど似合わないの? ちぇっ。もう切っちゃおうかな」

「あら、やっと決心したの?」

 小玉さんも笑って、

「そうだ、今からえりちゃんに切ってもらったら? 彼女の腕はプロ並みなんだよ」と言うなり、有線のスイッチをオフにした。ぶつっという音の後で、間の抜けたような静けさが始まる。

「ってあれ? お店閉めちゃうの?」

「うん。今日はもう閉店にする。ごめんね、えりちゃん。良かったらこの子連れて帰ってくれない?」

 そう言って小玉さんはテキパキと食器を片づけ始めた。

 えりちゃんには、小玉さんの言葉がうまく伝わらなかったみたいで、

「私は何をすれば?」と言って僕と小玉さんの顔を何度も見ている。仕方ないから、僕はえりちゃんの手を取った。

「そういう訳で、今からえりちゃん家に行きましょう」


 小玉さんの店から十分ほど歩いた場所に、えりちゃんの住むマンションがあった。鍵を開けてもらって中に入る。

「おじゃまします」部屋の奥に声をかけると、

「誰もいないって」えりちゃんが笑った。

 入ってすぐのリビングと、奥に六畳ほどの和室がある小さな部屋は、何と言うか足の踏み場がなかった。

「ごめんね、散らかってるでしょ」

 無造作な感じで片づけを始めたえりちゃんは、さっきと違って表情がまるでない。

「いいよ。こっちこそ急に来ちゃってごめんね」

 僕は差し出された椅子に座ろうとして、

「変な流れでつい来ちゃったけど、よく考えたらすごい迷惑だよね。こんな時間なのに」と立ち上がった。

「迷惑じゃないよ」

 片づけていた手を止めて、えりちゃんが微笑んだ。

「誰かと話がしたくて、真琴さんの店に行ったんだから。全然気にしないで」

「そうなの? じゃあちょっとだけ」

「うん。とりあえずミナトくん、シャワーしてきてくれる? その間にセッティングしておくから」

「シャワーって……。そんな厚かましいことを?」

「今更厚かましいとか、ミナトくんって相変わらず面白いね」

 えりちゃんは笑いながら、僕にタオルを渡してくれた。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、片づいたテーブルの上に鏡やらハサミやらが用意されていた。きらりと光る銀のハサミはプロ仕様という感じだし、これは思ってたより本格的に切られるかもしれない。

「どんな長さがいいかな? 今、結構長いから、肩ぐらいまでにしとく?」

 美容院で使う雨合羽のようなマントを着せてくれながら、えりちゃんが僕の顔をのぞきこんだ。細くて華奢な首元が、少し色っぽい。

「いや、もう何でもいいんで。えりちゃんにお任せしますよ」

「え? こだわりあるんでしょ?」

「ううん。この髪型の人に憧れてずっと同じにしてただけ。でもそろそろ、切ってもいいかなって思ってはいたんだ」

「ふうん。難しいね」

 えりちゃんは腕組みをしながら、また僕の顔をじいっと見つめた。似合う髪形を検索しているのか、目が真剣だ。

「適当でいいよ。髪ってすぐ伸びちゃうしね」

「わかった。ちょっと長めだけど、男の人っぽいのにするね」

 えりちゃんは思ってたよりも大胆に、僕の髪をばさっと切った。ドキッとして緊張で体が固まる僕。ばさっ、ドキッ、ばさっ、ドキッが何回か続いて、ようやくハサミらしいチョキチョキという音が聞こえ出した。

 ふいに高校生だった頃の思い出が浮かんできた。

 窓際にあった僕の机はみんなの溜まり場で、その輪の中にひときわ可愛らしく微笑むえりちゃんがいた。清楚でおとなしい彼女は男子達にとても人気があって、僕たちは仲のいいグループに彼女がいることに優越感を持ってたし、他の男子から守ってるような気でいた。

 でも卒業と同時に、えりちゃんは担任の田島先生と結婚した。その時に感じた敗北感は今でも忘れられない。側面ばっかりディフェンスしていたら、頭の上からひょいっとUFOキャッチャーのように宝物を取られた気分。まさか先生が? という驚きと、全く気づかなかった自分たちのまぬけさに、歯痒い思いをしたっけ。

 それにしても、先生はどこにいるんだろう。

「えりちゃん、話してもいい?」

「いいよ。でも変な話はやめてね。手元が狂うから」

 そう言われると聞きづらい。どう言えば、危険じゃないのか。

「この部屋っていつから住んでるの?」

「一年ぐらい前かな? 先生と別れてすぐ、ここに越して来たの」

「え? 別れたの?」

「うん」

 そうだったのか。まあ女性が夜中ひとりでバーに来た時点で、察しのつくことだったよね。

「それはどうも、大変だったね」

「いえいえ。もう落ち着いたんで」

 僕の顔をまっすぐ見て、えりちゃんは微笑んだ。

「前髪はどうする?」

「いや、ホントにもうお任せで」

 目を閉じた僕の顔の近くに、えりちゃんがいる。そう思うと落ち着かなくて、黙り込んだ。

 パチパチとハサミの音だけが聞こえて、だんだんボーっとしてくる。くじらと戦う夢を見てたら肩を揺すぶられた。

「終わったよ。見て」と鏡を手渡される。

「おおっ。男前じゃん」

 長い前髪をふわっと分けた感じも、毛先がはねた横の毛も、僕の好みに合ってて嬉しくなった。

「ミナトくん、ゆるい天然パーマだからいい感じになるよね」

「うん。男っぽくていいね」

「良かった。気に入ってもらえて」

 えりちゃんは笑いながら片づけを始めた。僕も手伝いながら、

「美容師さんになればいいのに」と言ってみた。

「それもいいかなと思って、前に勉強したことがあったの。でも他にやりたいことがあったから止めちゃった」

 そうなんだ。才能ありそうなのに、もったいない。

「ありがとう。何かお礼しなきゃ」

「そんなのいらないって言いたいところだけど」

 冷蔵庫を開けて、えりちゃんは缶のビールを取り出した。

「一緒に飲んでもらっていい?」

「ええっと。どうしようかな」

 僕はちらっと時計を見る。二時半か、そろそろ帰らないと。

「じゃあ一本だけ付き合って。それに、眠くなったら泊っていいよ」

 泊っていい……。高校時代のマドンナに誘われて、断る男がどこにいるのでしょう。

「喜んで!」

 僕はしっぽを振るように、えりちゃんからビールを受け取った。


 次の日、目を覚ますと、すやすや眠るえりちゃんが隣にいた。

 音を立てないように布団から出て、僕は服を着る。開店時間には間に合うけど、いったん家に帰る時間はなさそうだ。

 マンションを出て、通行人に最寄駅の場所をたずねた。近くにいる女子高生たちが、きゃーきゃー言ってるので振り返ると、

「すみません。Yさんですよね?」と近づいてきた。

「へ? 違いますよ」何だろうと思って歩き出したら、まだ何やら言って付いてくる。

「ごめんね。人違いだよ」

 そう言って僕は走った。なんで逃げてるんだ僕。そのYさんって一体誰なんだよ。

「おはよう」

 店に入るとスタッフのリコちゃんが、

「ビックリした。ミナトさんだよね。あのYさんが入って来たのかと思った」と胸を押さえている。

「あ、それ誰なの? 朝から間違えられたんだけど」

 僕は棚に積んである服の中から、好みのTシャツを手に取った。

「これ着ていい? 代金は給料から引いといて」

 シンちゃんにそう言って僕は服を脱いだ。

「ミナトさんっ。急に脱がないでーーっ」

 リコちゃんが赤い顔してレジの奥へ逃げていった。シンちゃんは逆に近づいてきて、

「本当にミナトさんって面白いですね」とお尻にタッチした。

「何触ってんだよ。僕はノーマルだってば」

「それにしても、Yさんに似てるなあ。これじゃあ誰でも間違えますよ」

「ふうん。そんなに似てるんだ」

 シンちゃんはスマホを取り出して、ネットの画像を見せてくれた。

「この人がYさん。有名なロックバンドのボーカルですよ」

「え? この人?」

 確かに雰囲気は似てるような気がするけど、髪型が近いだけって気もする。

「似てないよー。そもそも本当に似てるなら、髪が長い時でも似てるでしょ」

「なるほど。そう言われれば髪型のせいかも。どちらも特徴のある顔立ちじゃないですもんね」

「特徴ないって、それ悪口だよ、シンちゃん」

 僕は金庫を開けてレジにお金をセットした。それから入口のドアを開ける。もわっとした熱い空気が店に入って来て、体が汗ばんでくる。

 今日も良い天気になりそうだな。僕は空を見上げて大きく伸びをした。ドアの前にセール品を並べたワゴンを置いて、商品をチェックしていると、

「あの……Yさん、ですか?」と若いお姉さんに声をかけられた。


 仕事が終わって店を閉めた後、繁華街を通り抜けて喫茶「プリンス」へ。

 純喫茶という言葉がよく似合う、小さくてちょっと古臭い店は、現在僕の住処でもある。店の二階部分を、友達のご両親から格安な家賃で借りているのだ。

 クローズの札が掛けられた扉を開けて中に入ると、カウンターにはもうヤスが座ってて、「お疲れ」と僕に手を上げた。

 カウンターの中には王子がいて、椅子に座ると水を出してくれた。この二人は高校の同級生で、今でも大切な友達だ。

「ミナト、髪切った?」

 王子が不思議そうな表情を浮かべてこっちを見る。

 浅黒い顔と短い髪は、高校球児の時代から少しも変わってないけど、彼はこのメンバーの中で唯一の既婚者だ。しかも二児のパパだったりする。

「なんか芸能人に似てない?」

「あ、オレも今思っててん。えっと……誰やったっけ?」

 ヤスも頭をひねっている。彼は関西人のご両親に、こてこての関西弁を仕込まれて育ったため、生まれてこのかた標準語を話したことがないらしい。二重の大きな目を持ち、アイドル並みに可愛い顔立ちなのに、なぜかあまりモテないという不思議な奴だ。

 いつまで待っても答えが出ないので、どうせYって奴でしょと教えてあげた。

「それや。めっちゃ似てるやん」

「今日はもうその名前、聞き飽きたって」

 僕が水を飲むと、

「ひょっとして、知らないでその髪型にしたのか?」と王子が半笑いになった。

「うん。お任せで切ってもらったの。昨夜偶然えりちゃんに会って、切ってもらう流れになってさ」

 そう言うと二人が同時に、えっ? と大声を上げた。

「えりちゃんって。まさか、藤本絵里子?」

「王子、違うやろ? 田島絵里子やんな」

 僕が頷くと二人とも、うおーっと叫んだ。いちいち大げさだな。

「でもね、王子の答えで多分合ってる。なんか離婚したらしいよ」

「マジで?」

 王子はカウンターから体を乗り出した。ガタイのいい体がどーんと飛び出してきて、僕は思わず後ろに体をそらす。

「一年前に別れたんだって。田島先生ってさ、女癖が悪いらしいよ」

「てことは浮気されたんや、えりちゃん」

「うん。担任してたクラスの子を妊娠させたんだって」

「ほんまか。そらアカンわ」

「えりちゃん、可哀想にな」

 王子は遠い目をして天井を見上げた。こいつ、ひょっとして今でも好きだったりするのかな。

 僕はカウンターの中に入って、自分のために焼きそばを作り始めた。入れ替わるように王子はエプロンを外し、カウンターの椅子に座る。

「えりちゃん、変わってた?」

 ヤスが聞くので顔を上げて、

「ううん。変わってないよ。前より痩せて、髪は短かくなってたけど」

「そうなんや。また会いたいよな」

「ミナトが外国へ行ってから、あのメンバーとは疎遠になったからな」

 王子はそう言って、結婚指輪を触りながら唇をゆがめた。

「何それ。僕のせい?」

「そうやで。あの杏花が、ミナトいないなら集まる意味ないよね、とか言いよったんや」

「あいつは昔から、はっきりしてるよな」

「まあ会わんけど、杏花とはSNSで、たまに会話するで」

 ヤスがスマホを操作して、画面を見せてくれた。

「最近の写真とか載せてるけど、あいつもそう変わってへんわ」

「ホントだ。変わってないね」

「えりちゃんに負けず劣らず、杏花も可愛かったよな」

 王子はまた遠い目をした。なんだ。ただのロマンチストか。

「ちょっと化粧、濃いけどな」

 ヤスは口ひげを触りながら画面を見ている。こいつは杏花と幼なじみで仲が良かったから、他の奴とは違う目で彼女を見ているかもしれない。

 僕がカウンターから出て焼きそばを食べ始めると、

「なんやおまえ、気いきくな」

「いただきまーす」

 二人が割り箸を持って、焼きそばをつまんでいく。多めに作って良かったと思いながら、僕はもくもくと焼きそばをすすった。

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