第3話 お兄ちゃんと幽霊

 トンネルに黄色い叫び声がこだました。


「な、なんなの……。びっくりしたぁ」


「な、七十二ななそふた先輩! どうしてこんな所に?」


 現れたのはお化けかと思いきや、なんと憧れの女性ひとだったのだ。


みおさん、お久しぶりですわ」


「君たちは、冬夜くんの妹とお友達だね。私は用事があって遅くなっちゃったのよ。あなたのほうこそ、どうしてこんな所に? もう夜中よ」


「学校に描いてた絵を置いてきちゃったんです。明日じゃ間に合わなくて」


「小春ちゃんは絵が得意だものね。よし、それじゃあ私も付いて行ってあげるよ」


 こうして五人になった俺たちは、無事に夜の小学校へとたどり着いた。


「やっぱり門が閉まってる。インターホンで守衛の人に聞いてみよう」


 だが何度鳴らしても、うんともすんとも。


「うーん、出てこないわね。お兄ちゃん、電話してみてよ」


「……ちょっと待って。なんだか様子がおかしいわ」


 突然、先輩はみんなを手で制す。彼女はオカルト研究会の部長だけあって、霊感が鋭いのだ。


「妖気を感じる。時間がない、乗り込みましょう」


「ええ、なんだって!? 警察に連絡をしたほうが──」


「どこか入れそうな場所を知らない?」


「付いて来てください、あっちの柵なら乗り越えられますわ!」


「ちょっ、秋歌ちゃん!」


 この子はおしとやかなようで、こういう怪しいものが大好きなのである。


「お兄ちゃん、土台になって。上を見たら承知しないわよ」


「見ないから早く行け、ぐえっ!」


 四人は遠慮なく俺を踏み台にしていった。

 すぐさま自分も金網をよじ登り、敷地の中へと侵入する。

 なんだか悪いことをしている気分だ。どうか警察に通報されませんように。


「こっちよ! 私から離れないで!」


「職員室の方か! なんだか懐かしいな……」


 子供のころの情景がにわかに蘇る。土足のままだけど、怒られやしないだろうか。


「あっ!」


 急に先輩が立ち止まる。前方に警備員の男性がひとり倒れていた。


「大丈夫ですか!」


「冬夜くんダメよ、離れて!」


「え? な、なんだ、あれはまさか!」 


『きゃあああああ!』


 暗い通路にぼんやりと、ひとりの白い女の子が虚空に浮かんでいた。

 年頃は日夏たちと同じぐらいか。愛らしいがどこか儚げで、病弱な雰囲気がある。

 少女は無表情でこちらを見下ろし、ぽつりと声を漏らした。


「……して……。……と、……して……」


 ひえ、なんだこりゃ!

 ぎゅうと三人の少女にしがみつかれる。ちょっと待ってくれ、俺だって怖いのに!


「そんな悪いことをしてはだめよ。さあ、早く天へとかえりなさい」


 先輩は優しく呼びかけるが、幽霊の少女は聞く耳をもたない。ゆらゆら揺れながら徐々に間合いを詰めてくる。


「かくなる上は……。七十二候しちじゅうにこう奥義、〝熊蟄穴くまあなにこもる〟!」


 出た、必殺技! 七十二ななそふた家は代々、幽霊退治を生業としてきたのだ。

 先輩が懐から取り出した札を掲げて叫んだ次の瞬間──

 幽霊は急速に先輩の体へと飛び込んだ。


「あああああ!」


「先輩!?」


 倒れかけた彼女をなんとか抱きとめる。柔らかくて心地良い重みが腕に伝わり、清々しい香りが広がった。


「しっかりしてください!」


 ぐったりとした先輩を揺り動かす。こんな事態だというのに、あでやかで色っぽくどきりとした。

 だが、その美しいまぶたが開かれたとき、すでに目の色は赤く変わっていた。


「ふふふ。ようやく体を手に入れた」


「せ、先輩……?」


「いいえ、わたしはあなたの先輩ではありません」


 そう言って体を起こし、立ち上がる。先輩では何者かは、手に入れた器をしげしげと眺める。


「ふむ、年上ですが、まあいいでしょう」


「君は何者だ!」


「わたしの名前は三条かなえ」


「ひっ、そ、その名前……!」


「知っているのか、日夏!」


「昔、この学校で亡くなったと言われる少女ですわ。病院を抜け出し、教室の前で力尽きたと……」


「なんてことだ、いったいどうすれば……。彼女の体を返してくれ!」


「望みを叶えてくれたら、返してあげてもいいですよ」


「……え?」


 俺は拍子抜けした。てっきりこれから悪さをするのだと思ったら、あっさり返してくれるだと?


「望みって何だ? 聞かせてくれ」


「それは……」


 幽霊と一体化した先輩は頬を赤らめ、もじもじと体をくねらせた。


「キ……」


「き?」


「……キス」


「キス釣りに行きたい!?」


「んなわけあるかーい!」


 彼女は大量の霊気を放出し、俺たちは全員ぶっ飛ばされた。


「いったーい……」


「ぐう……。大丈夫かみんな。日夏、ケガはないか」


「なんとか平気だけど、お兄ちゃん、さすがにそれはないわよ」


「情緒がなさすぎですわ」


「乙女心をわかってないです」


「で、でも、釣り好きの少女だったかもしれないだろ」


 幽霊少女は呆れたように首を振った。


「あなたは奥手なんですね。でも、それもまたよし」


「お兄ちゃんは生まれてこのかた彼女がいないんです」


「余計なことを言うな!」


「わたしの望みはただひとつ。生前に果たせなかった熱いベーゼを交わせたら、この体は返してあげましょう」


「そんな! どうすればいいんだ……?」


「単純なことです。わたしとキスをしてください、そこのお兄さん」


「キ、キ、キ、キ……先輩とキス!?」


 思わず仰け反った俺は、壁にもたれかかった。


七十二ななそふた先輩とお兄ちゃんがキスするの!?」


「まあ、口吸いですって!」


「これは絵になりそうです!」


「うふふ……」


「な、なに言ってんだお前たち! そんなことできるわけないだろ!」


「チャンスじゃないの。お兄ちゃん、先輩のこと好きなんでしょ」


「それとこれとは話が違う! 先輩の意思も確認せずに、そんなことできるか!」


「あら、なかなかモラルがあるのですね。それもまた好みです」


「当然だ!」


「でもご安心ください。わたしが乗り移ったこの方も、じつはあなたのことを好いていらっしゃるようです」


「なんだって!?」


 ドカンと血圧急上昇。手足がガクガクと震え、壁からずり落ちる。


「せ、先輩が俺のことを……?」


「はい」


「よかったじゃない、お兄ちゃん。これでようやくあたしも一安心よ」


「日夏さんはお兄さん思いですわね」


「良い構図が浮かびました。これは筆が乗りそうです」


「……そ、そうか。そういうことならば仕方ない。先輩とのファーストキスがこんなシチュエーションになるとは思ってもみなかったが、かなえちゃんの願いを叶えて、先輩を救うにはこれしか手段がない。よし、ここは一肌脱ぐとしよう」


 俺も男だ。鼻の下をつうと流れ出た熱いものをぬぐうと、すっくと立ちあがった。


「で、では……。みんなは目をつむってるんだ」


「えーなんでよ! ちゃんと見届けるわよ」


「じっくり観察し、この情景を詩に残したいと思います」


「私もしっかり目に焼きつけて、絵を描かせていただきます」


 幼女に見つめられながら、愛しの先輩に乗り移った幼女とキスをする。

 これは犯罪だろうか?

 否、犯罪ではない!


「えー、こほん。うっうん! ……準備完了です」


「えへへ。ずっと心残りだったのです。これでようやくわたしも……」


「うう、あの万年彼女なしのお兄ちゃんが。あたし泣けてきた」


「ごくり。若い男女の口吸いなんて、初めて生で目にしますわ」


「はぁはぁ。早く描きたいです」


 幽霊に憑りつかれた先輩は、長いまつげを閉じて口の先をとがらせた。

 ……美しい。じつに可憐だ。

 ほんのりと朱色に染まった頬に、ぷっくりとした紅色の果実。

 では、美味しく頂きます。

 俺は瞳を閉じ、震えながら唇を近づけていく。



 ちょっぴり温かいものに触れた気がした。



「きゃっ、恥ずかしい!」


 声がして目を開けると、正面にどアップの顔がある。

 と突然、先輩にがっしりと頭をつかまれ、引き剥がされた。


「りょ……」


「りょ?」


 ぷるぷると震える先輩の背後に、顔を覆う幽霊の女の子がいた。

 分裂した? と思った矢先、胸ぐらをむんずとつかまれる。


「こんの……! 慮外者ぉーっ!!」


「ぎゃあああああー!!」


 才色兼備の七十二ななそふた先輩は柔道をたしなんでいる。

 たしか黒帯を持っているという噂も耳にしたことがあった。

 軽々と持ち上げられた俺は、そのまま廊下の果てまで吹っ飛ばされていく。


「おにいちゃーん!!」


 小学生のときスライディングが流行って、すねを擦りむいたりもしたっけ。

 さいわい厚着をしていて平行に飛ばされたから、背中に強い衝撃を感じたあとは、ただ廊下を滑っていくだけだった。

 優に教室ふたつ分の距離を移動し、ようやく動きが止まる。


「お兄ちゃん!」

「冬夜さま!」

「冬夜さん!」


「いっけない、つい条件反射で……。と、冬夜くーん!」


 先輩と妹たち、幽霊少女の五人が俺のもとに駆け寄ってくる。ひとりは飛んできたという表現が正しいか。


「お、お見事です、先輩……ぐはっ」


 彼女に殺されるなら本望だ。俺は意識を失った。

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