3-1
「……かえりたい」
「まだ屋敷も出ていないよ、穂白」
社交界当日の夜、穂白はそれはもうげんなりとしていた。天碧が術で用意した水で作った鏡に映った自身の姿があまりにもあんまりだったからだ。
「本当にこの格好しないと駄目なの」
「社交界は皆正装が決まりだろう」
それは、たしかにそうなのだけれども。
穂白のかつての同僚にも常に人型式神を連れている者が数人いた。彼らは社交界のたびに式神にもきちんと華やかな衣装を着せていた。それを見た穂白はこういった会に参加する人型のものはおしなべておしゃれをしなくてはいけない決まりなのだろうか、大変だ、と他人事のように思っていた。いや、式神使いでもなければ式神そのものでもなかったからまさに他人事であったのだが。
(まさか、式神になる日が来るなんて)
天碧の術によって穂白は今、彼の式神であるこんと融和していた。容姿と精神の主導権は霊力が高い方が取ることになる、一歩間違えれば神に乗っ取られる禁術ではあるが、昨夜毒味をするかの如く天碧がこんとの融和術を披露して見せてくれたし、穂白もこんより強い霊力を持っている。それに融和術への興味もないわけではなかったから、そこは躊躇いなく受けたし、つつがなく穂白が主導権を握った。
だが、式神の性質も一部は現れる。昨夜見た天碧がそうだったように、今の穂白の頭には狐の耳が生え、尻にはふんわりとした尻尾が生えていた。それだけでももうなんともいえない痛々しさを覚えるのに、天碧が穂白に用意した衣装が真紅を基調とし金糸が施されたずいぶんと華やかなものだった。
かつての穂白が持っていた正装は、穂白が紫格になった記念に丹和様が贈ってくれた一着のみだった。それも、穂白の瞳の色である淡水を基調としつつ穂白の嗜好も考慮した穏やかな雰囲気のもの。服を吟味する趣味もなければ変に目立つのも好きではなかった、それでも正装のひとつぐらいは持っていないとそれはそれで悪目立ちをするからありがたい贈り物だった。
それ故に、こんな赤と金の華美を纏うのは人生で初めてだった。そのうえ、狐の耳と狐の尻尾。どうしてもやめられないげんなり顔も相まって奇怪な姿である。
「し、式神様、よくお似合いですよ」
着付けを手伝ってくれた鳰がきゅっと握った両手をわさわさ振りながら言う。
「耳と尻尾も大変かわいらしくて! それが式神様の本来のお姿だったのですね!」
「それ以上言わないで……惨めになってくる……」
「えぇ……?」
「君って罪だね」
「あ? この衣裳用意したのはあんただろうが」
「それがよく似合っているのに自覚がないから罪だって言っているんだよ。雑面をつけてしまうのがもったいないけれど、雑面をつけなければ虫がたくさん寄ってきてしまいそうだ」
そもそも雑面をつけなければ顔で穂白とばれる可能性がある。そうなれば、投げこまれる言葉の石の中に「封印を破ったうえに奇怪な格好をして天上を馬鹿にしにきたイカれた極悪人」なんて不名誉極まりない文言が混ざることになりそうだ。それは避けたいと、目元を隠す雑面を固く結びつけた。
天碧によって術が施されているそれは、向こうからは穂白の顔は見えないが、穂白からは面の外側が見える代物だ。しかしあまりに常と変わらない視界に雑面をつけている実感がわかなくて、試しに眦を綻ばせてみる。
「そういう表情は雑面をしていないときに見せてほしいな」
「術切れてるんじゃない?」
「鳰、彼女が今どんな表情しているか分かるかい」
「わ、分からないです」
ぱちぱちと瞳を瞬かせて首を傾げうかがってくる鳰を見るに、ご主人様に振られたからと嘘を言っているわけではなさそうだ。ならば天碧の方が布の向こうを見る術を使っていたりするのだろうか。無駄なことを……としたり顔を浮かべている彼を半目で見る。
さすが容姿が整っているだけのことはある、天碧は穂白が纏うのと似た赤色と金糸の衣裳を完璧に着こなしている。どこぞの王侯貴族ではないかと見紛うほどの華やかっぷりは、いくらあの太子も美男子と呼ばれる類とはいえ面子を潰しかねないのではではないかという妙な心配が生まれてしまう。
「その格好大丈夫?」
「え? 似合っていないかい?」
「大変似合っていらっしゃいますけど……」
「似合ってるって声じゃないね」
実際王侯貴族はこれよりも派手な衣裳を纏うだろうけれど、元の素材のよさというのは恐ろしい。まぁ、でもこれだけ華やかなのがそばにいたら穂白への関心はほどほどで済むかもしれない。
「大変似合っていてよいと思います」
「なんだか含みがある響きだけれど、君がそう言ってくれるなら喜んでおこう」
是非とのそのきらきらの笑顔で少なくても集まってくるだろい女ども、あわよくば男ども意識を是非とも根こそぎ持っていってくれますようにと穂白は内心で手を合わせた。
馬車に乗って宮廷を目指す。祓穢の多くは憧れと便利そうという観点から
天碧は穂白に社交界の話をした後もまた祓穢事に出て行くほど多忙の身だ——本人曰く、自分で勝手に仕事を増やしているそうだけれど——そう考えると、馬車も華美な衣装も、これがたまの散財のあらわれなのかもしれない。
一緒に乗っている鳰が二人分の茶を用意してくれて、天碧はそれを優雅に飲んでいる。
穂白も椀に口をつけ、昨日と同じ茶葉のようだが少し味が違うなと感じた。茶は少しの淹れの違いで味は変わるもの、鳰が淹れたのも美味しいのだが、しかし天碧が淹れた茶がどうにもよぎってしまって、なんとも言えない気持ちになった。祓穢になる前はどこぞで茶汲みでもしていたのだろうか。
祓穢になる経緯は様々だ。もともと祓穢を生業としている一家もあれば、様々な形の憧れをもとに志願する場合もあるし、穂白のように推薦をもらうこともある。
天碧は穂白についてずいぶんと詳しいけれど、思えば穂白の方は彼についてあまり知らないなと思った。憧れの人が紫格だったとは言っていたけれど。
「君は今回の件、今のところどう見てる?」
なんて考えていたところに話を振られ、穂白は咽せかけた茶をなんとか飲み下した。
「大丈夫?」
「……ちょっとぼうっとしてただけ」
天碧のことを考えていたなんて素直に言ったら何を言われるか分からないし恥ずかしいからそれも一緒に飲み下し、穂白は質問への回答を口にした。
「話を聞く限りだと、宮廷に支えている人間の中に禍穢はいると思うわ」
「その心は」
「怪しい人物はいなかった。怪しい荷物はなかった。穢れを患った者についた傷跡は一様に小さかった。その三点を考えると、以前から宮廷に支えている人間が、買収かかねてからの狙いかは定かじゃないけれど宮廷を陥れるために動き出した、見えない不浄を使ってって考えるのが妥当に思える」
雑面をつけていたら普通は面の向こうを見ることができない。だが、霊術のおかげで穂白は常と変わらない視界を得ている。そんなふうに見えないものを見えるようにする術があるのならば、その反対の、見えるものを見えないようにする術があってもおかしくはない。
「あんたもここまでは検討ついていたんでしょ。この雑面の術、いつどうやって身につけたの。少なくとも、私が読んできた霊術書には物を透かし見たり透けさせる術は載ってなかったわ」
「昨今のきな臭さを検討しているときに、他者にバレないよう悪事を働くならば見えなければいいのではと思ってね。術書を色々捲ってみたんだけれど、不浄退治って隠密で動くことがあまりないからか、全然見当たらなかった。だから編んでみた。完成したのはつい最近。見えるようにする方も、見せないようにする方もね。君も試している?」
興味はないでもないし、大罪人となった身にそれは便利かもしれないけれど。
「手取り足取り教えるよ」
「必要になったら自分で考えるから結構」
「なら僕は君が考えているところを眺めていたいな」
「断固拒否」
「残念。ああ、透明になって見ればいいのか」
と、天碧が指を鳴らすとその姿が消える。鳰が困惑した声をあげるが、穂白は少し思案して天碧がいるであろうあたりに触れて術を唱えたら、天碧の姿が元に戻った。
「……もし見えない不浄が本当に存在している場合、それを操っている禍穢を割り出すには霊力封じを使うのが手っ取り早い」
「けれど、霊力を封じるには相手の霊力の形を把握している必要がある。霊力封じをものに仕込むにしても、直で仕掛けるにしてもね」
「握手のひとつでもすれば形の把握も術の行使もできるだろうけど……気が遠くなるし怪しすぎるわね」
「ああ、そこが困った点だ。万一会場内で「あいつと握手をすると霊力が止まる感覚がする」なんて噂が経てば確実に避けられるし。いっそ会食に術を仕込めたらいいんだけどね」
「それで仮に禍穢が割り出せても祓穢も機能しなくて取り逃がしそうだけど」
そういえば、天碧は穂白に霊力封じの錠をかけていた。あれを天碧は事前に用意したものだと言っていたが、もしそれが本当だとしたら彼は穂白の霊力の形を知っていたことになる——直接接触したことがあるということだ。成長しても多少の面影はあるだろうと、この男に近しい雰囲気の子どもがどこかにいただろうかと記憶を手繰ってみるけれどやはりぴんとこない。
「もし不浄がなにかしようとしたら把握する術はある」
穂白は自身の手の甲に爪を立てた。が、天碧に手首を掴まれれる。
「なにする気」
「穢受術は穢れを引き寄せる。常時発動させていたら、誰かが侵されたらすぐに分かるわ」
「……それは、たしかに便利かもしれないけれど」
でも、と天碧がまっすぐな眼差しで穂白を見た。
「使ってほしくない」
「未然に防げるのが一番だけれど、それでも万一が起きた際に不浄を割り出すにはこれが手っ取り早いでしょう」
「でも、君が傷つくだろう」
「傷つくって……そりゃあ血を用いた術だから」
「僕はこの世のなにより君に傷ついてほしくない」
誓約を結んだときにも天碧はそんなことを言っていた。
「それに、事件の真相に辿り着けるとも限らない。不浄の正体は突き止められるかもしれないけれど、それを操っている禍穢までは分からないし、宮廷で患った穢れの進行が早い理由も突き止められない」
「一度でその全部が解決できたらそりゃあそれが一番よ。けれど、方法はあるの」
「常時発動させるなら、透視術だっていい」
「なるほどね。たしかに下級の不浄ならそれで割り出せるかもね。けれど、いくら透過していてたとしても黒々とした肉体の生き物をそこらに出すかしら」
これだけ尻尾を掴ませないように気をつけていた禍穢がそんな杜撰なやり方をとるだろうか。それに、刑部と祓穢の検閲を潜り抜けられたのだ。
「上級の不浄を従えているか、変化の術を施しているか。少なくとも、気配ごと化けられるか化かす術を持っている。あんたの透視は、皆に見えているものと皆から見えていないものの判別はできるの」
「特定の対象だけ異なって見えるようにする……例えば、霊術が働いている人間だけ色が違って見えるようにする、ぐらいならできなくはなかったんだけれど、これだと式神と式神使いは全員引っ掛かる、馴染みの祓穢に守護をかけてもらっている貴族もいる。ならば、透過術が働いているものだけに絞れたらと思ったけれど、それはさすがに難しかった。だから君にひとつずつ確認するしかないね」
「結局力技じゃない」
「あとは、これは祓穢の会議でも出たけれど、
たしかに、事前に陣を敷くなり、歩き回って描くなりすれば不浄は退治できるだろうが。
「禍穢は確実に警戒して宮廷から距離を置くでしょうね」
「だから却下となった。そこで退職を志願したり行方不明になった参加者がいれば追えばいいって話になるけれど。自死か処分でもされたら、ね」
「その会議で不浄に見えない術が施されている可能性は共有していないの。そうしたら招待客から守護術と式神使いを除外してもらえたんじゃない」
「万一祓穢の中に犯人がいたら。共犯がいたら。宮廷とずぶずぶの人間がいて漏洩させたら。ことだろう」
たしかにそれもない話ではない。祓穢機関が一枚岩ではないのは昔からだ。
例えば師同士が不仲であれば弟子も不仲になる、術法によって派閥が分かれる、他をやっかんだり嘲ったりする者もいる、救済を目的とする低級もいれば給金を目的とする上級もいる。不浄に比べたら母数は少ないがそれでも集団ではある以上、さまざまな思想が混濁し衝突するものだ。
それでもかつての穂白は皆根には正義を持っていると信じていたものだけれど、弟を質に取ろうとした友の顔は忘れられない。あのときは穂白こそが悪で、悪を捕らえるための手段として使ったにしても、あの友の顔は……信じていた姿とまるで違った。祓穢機関内に裏切り者がいる可能性もあるかもしれない。
「この依頼を受けてから色々な案を考えたけれど、なにをとっても穴や懸念が生まれる。禍の心を持っている人間を炙り出す、なんて術があればいいけれど、肉体は霊術の標的にできても心は標的にできない。霊術はなんでもできるようでなんでもはできないというのを痛感する」
穂白は瞬いた。それは、穂白の師もよく言っていたことだった。かつては不浄退治だけでなく人々の生活を支えていた祓穢だが、なんでもできてしまっては人間は怠惰になる。だから、なんでもできるようでなんでもはできない、便利で不便なものとなるよう神様に定められているのが霊術だと、それでも熱心に術を編み出そうとする人間には神様も振り向き答えを与えてくれるものだと、師は言っていた。穢受術や自浄を編むときはその言葉を何度も胸で唱えたものだった。どうか神様、振り向いてくれと。
「なら、未然に防ぐ案としては透視術の虱潰ししかないのかしらね。でも、それならやっぱり保険は必要だわ。まずは手の届くものを確実に救うために。そのうえで、災穢を極力警戒させずに炙り出すために」
「……正論だね。でも、それは、僕にとっとは正論じゃない」
やけに神妙な物言いだ。どうしてこの男はそんなにも穂白を傷つけたくないというのだろうか。天碧が穂白を傷つけないというのは彼が勝手に口にしただけで二人の誓約に含まれてはいない。それに、穂白はこの仕事を手伝うと決めたし、手伝うからには助けられる人は助けるべきだと思う。一番は未然に防ぐこと、けれど今はその術が甘いものしか浮かばない。ならば、穢れを齎した不浄を確実に退治し、それに動揺するものを見つける手段も用意するべきだ。
穂白はため息をひとつ吐き、掴まれていない方の手を動かした。
「別に大怪我を負うわけじゃないんだから。必要な量の血と受け皿を用意するだけよ」
掴まれている方の袖を捲って腕に小さな円を描く。そこに傷が浮かんで、滲んだ血を懐から取り出した札に染み込ませて、止血を施す。札は血を吸った部分が隠れるように細長くたたんで小指に巻きつけた。これで、もし近くに穢れが発生したばあいは、小指の札がそれを招き、腕の傷を導こうとするだろう。
一通りの処置を施して顔を上げたら、そこにはみたことのない顔をした天碧がいた。
顰んだ眉、歪んだ眦、色を失った顔。どうしてそんな表情をする、そんな表情をするまでのことが起きたかと穂白の方が驚いた。
「し、式神様、手当を!」
二人に落ちた奇妙な緊張と静寂を破ったのは鳰だった。
「え、いや、でも、止血したから」
「菌が入ってしまっては大変です!」
鳰は持ってきていたらしい薬箱を開けると、塗り薬と包帯を用意して、穂白の腕に施した。意外な手際と処置の綺麗さに穂白はまた少し驚きつつも礼を口にし、ちらりと天碧を見た。
天碧は穂白の腕に巻かれた白をじっと見つめていた。ふと、彼の手元に違和感を覚え目を向ければ、それはかたく握られていた。穂白は咄嗟にそこに手を添えた。
「そんな強く握ると、傷がつくわよ」
天碧はまた少し翡翠を開くと、困ったように細めた。
「……君の性質を甘く見ていた。いや、僕の勉強不足のせいだな。もっと、強くならないと」
札がついた穂白の小指に天碧の人差し指がそっと触れる。それから、天碧は静かに呼吸をし、「ごめんね」と言った。それから、「ありがとう」と紡ぐと、天碧はすっかり黙り込んでしまった。穂白もなんとも言えない気分になり口を開くことができず、会場に着くまで車内には、馬の嘶きと車輪の音ばかりが響いた。
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