3-2
王族主催の社交界ほど絢爛煌びやかなものはない。あたりには、鮮やかな花々が飾られ、たくさんの灯火が輝き、二胡や琴の演奏が響いている。
なにより、食事形式が風変わりだ。十年前から既に太子は西洋にある文化らしい立食形式を取っていた。大きな器にいくつもの料理がたっぷりと盛られ、その中から各々が食べたいものだけを器に乗せて取っていく。噂によれば西洋への憧れだけでなく、太子自身が食の好き嫌いが激しいが故に選んだものと聞くが、真実は定かではない。ただ招待客側からは気に入った料理だけを食せると評判だった。穂白としては、好き嫌いを選べる贅沢とはそもそも無縁だったし、好きな場所で好きなように食事ができる立食形式はつまり誰とでも接触しやすく絡まれやすくなるため、あまり好きではなかったけれど。
馬車を降りてから天碧は穂白の手を取り導きたがる素振りをした。相変わらずの甘い笑みと言葉をかけてきたから気分を持ち直したのかとなんとなく安堵したが、式神を案内する式神使いなどいない、変に見られるからと断った——これは英断だったと思う。
会場に入るなり、天碧の周りにはすぐに男女問わず貴族祓穢問わず、様々な人々が集まった。
「天碧様、お目にかかれて光栄です」「本日も大変麗しいですね」「そちらは天碧様の式神様ですか」「さすが天碧様が喚ばれた式神様だ、目元が見えずとも美しいのが分かる」「天碧様、先日は我が家の近くに現れた不浄を退治してくださり」「天碧様」「天碧様」「天碧様」「天碧様」
(うっっっっっっっっっっるさい!)
致死量の天碧様が鼓膜が揺らされ、穂白は叫びそうになるのを必死に堪えた。さすがに声で穂白だと気づくものはいないだろうけれど、どんどんと人が増えていく会場には見かけた顔もあるから極力控えるに越したことはないし、なにより主に文句をいう式神などいない。
一方で、かけられる言葉すべてにいちいち丁寧に対応している天碧に感心も覚えていた。穂白も紫格になりたての頃は頑張っていたが、途中から失礼にならない境界線を見極めつつ逃げ出していた。
少なくても天碧の反応を見る限り、残念ながら宴会場内にあからさまな不浄は見つからなかったのだろう。天碧様と呼び止める声が延々に止まず動けないため、穂白はひとますそれを横目にあたりを観察した。
明らかに怪しい動きをしているものはいない。湯気が立った料理が次々と運ばれ、卓上に置かれていく。太子主催の社交界といえば、高級食材を優秀な料理人が調理した宮廷料理が振る舞われる。縦横の繋がり作りよりもそれを楽しみにして社交界に足を運ぶ者もいるらしい。
中でも、会の後半で毎度必ず登場する汁物は絶品で、穂白も気に入っていた。材料や調合は秘匿、宮廷料理人でも料理長しか把握していないという。その怪しさに皆様々な具材を予想しては囁き合っていたが、どれだけ醜怪な噂がたってもその味には抗えず宮廷に足を運んだものは大抵が口にした。
(……そういえば、昔、師について宮廷に訪れたときに、飲ませてもらったことがあったな)
ふと面映い記憶が蘇る。かの汁物は皇族の食卓には毎度必ず並ぶものらしく、常に用意されている。だから、社交界の場でなくとも客人が望めば振る舞ってくれる。
宮廷が会場の社交界に初参加したばかり頃で、穂白があの汁物が美味しかったと言ったのを師は覚えていてくれたのだろう、そのうえ彼は皇后と妙に気安い仲だった、仕事の話がひと段落するなり、穂白に汁物を振る舞ってはくれないかとわざわざ頼んだのだ。
穂白としては仕事できているのになんたることかと思ったし、子ども扱いはやめてくださいと顔を赤くして訴えた。そうしたら皇帝にずいぶんかわいらしい弟子を持ったものだなと揶揄されて……かの太子とはじめて接見したのもそのときだった。皇帝が太子を、そして師が穂白を、互いに将来有望な子だと紹介すると、太子の方が穂白をまじまじと見て言った——これなら妃に迎えても構わない、と。穂白が、あ、こいつ苦手だなと思ったのはあの瞬間だったし、以来宮廷で遭遇するたびに構われて厄介だった——。
「天碧殿」
だれかが呼んだその声に、周囲が一気に静まった。さすがに観察に勤しんでいた穂白もそれには違和感を覚え、一ヶ所に集まった視線をなぞると、豪奢な黄の衣装を纏った男がいた——当時は穂白と同じ年だったから、今は二十九か、噂をすればなんとやら、そこに立っていたのは記憶よりもいくらか精悍になり妖しくなった太子・洛星の姿があった。
「此度は我が宴に参上頂き、感謝いたします」
「こちらこそ、このような素敵な会にお招きいただきありがとうございます」
「して……私の記憶では天碧殿は式神使いではなかったと思ったのですが」
「最近喚んだんです」
「名前はなんというんです」
「水と書いて、すいと呼びます」
(初耳なんだけど)
あまりにすらりと答える天碧からは、今この場で生み出したのか、それともあらかじめ用意していた名前なのかは判別つかない。
「なるほど、まさに天の式神ということですか」
洛星は瞳を細めると、穂白の頭からつま先までをまじまじと眺めた。それからにっこりと笑んだ。
「これが人間でしたら、是非ともお声掛けしたい美しさですね」
「式神使いの中にはそういった人もいますよ」
「噂には聞きますが、いずれ皇帝となる立場としましては……ほら、成せないでしょう?」
「そのような話はたしかに聞いたことがないですね」
「だが、本当に美しい。その面の向こう側を覗かせていただくことは」
「残念ながら。一目見た時に心奪われまして。契約のときに、決して素顔を他人に見せてはならないと誓いを結んでいるんです」
「ほう。その誓いを破ったらどうなるんです」
「太子殿下」
微笑みかける天碧に洛星は肩を竦めた。
「いえ、気になっただけですよ。その美しさもですが、引く手数多のあなたがどうしてそういった道に足を踏み入れたのか。気を悪くしないでください」
「今後とも、どうぞ我が国のためにご尽力を」とにっこり笑って拱手した洛星に天碧も一礼する。太子が去っていくと、皆一様に天碧に先の件を聞きたそうにしながらも躊躇しているようだった。式神使いの中に、実際に式神と恋をしたものがいるというのは歴史でもまま聞く。だが、特に霊術を使わない普通の人間からしてみれば、人間以外と恋をするというのが理解の範疇じゃない。好奇心と恐れの狭間に揺れているのだろう。
「それでは僕も師へのご挨拶をしに行きたいので、これで」
すっかり静かになった周囲に天碧は優雅に一礼して歩き出した。その側を行きながら、小声で話す。
「あんたもずいぶん太子様と仲がいいみたいじゃない」
「好かれてはいないだろうね」
「まるで自分の方はそうでもないかのような言い方ね」
天碧は穂白をちらりと見た。なんだと穂白が首を傾げると小さく笑う。
「君はかわいいね」
「……もしかして、私を人避けに使おうとしてる?」
必要以上に踏み込ませないような平等で丁寧な振る舞い、式神と特殊な関係であることの匂わせ、この男はあまり他人と関わるのが好きではないのだろうか。人好きのする姿と振る舞いに反して、いや、だからこその鎧なのか。
「まさか。全部本心だよ。君が好きなのも、君の素顔を見せたくないのも」
「師に挨拶に行くのも?」
「ああ。とてもお世話になっている師が来ているはずなんだ」
それが彼の言う、尊敬する紫格だろうか。師になる年齢の人間ということは、十年前には祓穢として仕事をしている、顔見知りの確率がありそうだ。つい雑面のふちに触れる。
「大丈夫だよ」
瞳を細めた天碧が正面に向き直る。その大丈夫はいったいなにを意図したものか。穂白の知り合いではないということか。それともこの変化によってバレないと思うということか。
尋ねようとしたとき、先の太子の声が響いた。
「皆様、本日は我が会に参上いただき、誠にありがとうございます。お食事、ご歓談ともども是非とも心ゆくまでお楽しみいただけたらと思います」
天碧も穂白も足を止める。皆の視線が太子に集まる。開会の挨拶ということは、今日招いた客人はこれで全てということだろう。
煌びやかな部屋を見渡せば、なにも知らず招かれた王侯貴族と、密命が課せられた祓穢が数多いる。一見は平常の社交界となんら変わらない光景だが、果たして、これだけの餌と障害を前にして宮廷に潜んでいるだろう禍穢は尻尾を出すのか。
「少なくてもあんたがさっき話していた連中は白ね。あんたとあんたに群がる人たちの応酬は全て成立していたし私も姿を確認できた。逆にあの中に紛れて言葉を発していたとなると十度の不浄になるからそれはそれで厄介だったけれど」
「さすが。ちゃんと見てくれていたんだ」
「この仕事のためでなく日頃からあの対応しているんでしょ。感心するわ」
「なるべく敵は作らない方が便利だろう。他人を信じることは難しくとも、活用はできる」
……やっぱりこの男、他人のことが嫌いなんだろうか。それでいて紫格の祓穢として、自ら積極的に仕事を受けては多忙を極めている。金を求めてというわけでもあるまい。彼の正義感がどこから来るものなのか、不思議だ。それとも、それも穂白を呼び出したのと同じ、大穢変災の中にあるかと思われる彼の後悔の真相を探るための行動なのだろうか。
天碧について知らないことばかりだけれど、これから知っていくことになるのかは、分からない。穂白はまだ、巻き込まれた悪意の真相を探るかの決意がついていない。
「あの人は見える?」「見える」という天碧との問答を繰り返しながら思う。天碧の方は決意をしているのだろうか。その後悔の真相が明らかになったときの身の振り方をだ。どんな後悔かは定かではないけれど、たとえばその根源となるような存在がいたら、手を下すなどは決めているのだろうか。
なんとなく——彼が人を殺すところは見たくはないなと思った。もちろん誰であっても誰かを殺めるところは見たくはないし、この仕事の果てに穂白が真相を闇に葬る、封魔の香炉に帰してもらう選択を選べば見ることはありえないのだけれど。
残念ながらこの仕事も一筋縄では行かなさそうだ、封魔の香炉に帰るか、真相を追うか、彼の後悔を聞くか、教えてもらえるか……考える時間はまだある。
「あれ」
そのとき、穂白は視界の端に違和感を覚えた。それを追うと、壁飾りの布がふわりとはためいた。その前を人が通ってはいるけれど、それで発生するようなはためきじゃない。
「天碧、あっち」
天碧の袖をぐいっと引っ張りながら、考える。
不浄は負の感情を抱えた生きとし生けるものの末路。人間じゃない、動物皆不浄になりうる可能性がある。そして被害者には一様にして爪で掻いたような小さな傷跡がつけられていたという。
「栗鼠がいる」
「私には見えないわ」
小動物ももちろん、不浄になる可能性を持っている。だが、脳の小さな生き物は負の感情を溜めこまないから、不浄になり難い。穢れを患えばもちろんなるけれど、それでも思考が弱いから他を穢そうという害意を働かさない。だから本来小動物の不浄は大した害ではないのだけれど。
「野放しにもしておけないけれど、今捕まえたら確実に犯人に警戒されるね」
「うろちょろと動き回るから見逃しそうだ」と天碧はゆうゆうと言いながらも、集中を張り巡らせているのが伝わる。穂白の小指の札はまだ反応を示していない。件の栗鼠はまだ仕事をしていないようだ。
「一見は自由に動き回っているようだけれど……絶妙に、人目につかない位置を取っているな、あれ。透過がかけられているにもかかわらず賢しい。相当調教が施されていそうだ」
「情報収集中とかなら、そのまま一旦主のところに帰るなりしてくれたら一挙両得なんだけれどね」
「悲しいことにそう都合よくいかないもんだよね」
調教されたちょこまか動く小さな不浄。なかなか厄介ではあるが、引っ掛かるところはある。
その栗鼠が一連の実行犯だとしたら、被害者の傷が小さいのは納得がいく。だが、その小さな傷から、所詮小動物が齎せる穢れの量はさほど多くはないのではいか。穢れの進行が早いというのはいったいなにが働いているのか。
「あ、きたわ!」
「あれが宮廷の逸品汁物か」
男女の声にふとそちらを見れば、使用人が数人がかりで大鍋と椀を運び込んでいた。誰かが蓋を開け、そばに用意された黒の椀に注ぐと、馥郁たる香りが漂った。仕事がなければ是非とも味わいたい品だ。それから視線を戻そうとしたとき——穂白の小指がほんの微かな痺れを捉えた。
「誰かやられた?」
「いや、あそこの梁で止まっている」
穂白は目を見開く。具合が悪そうな人がいないか見渡してみるが、しかし、小指に伝わる痺れからして非常に軽度だ。穢れを患ったことに気づいていないのかもしれない。
(でもどんな不浄に侵されたとしても、もっと反応が出るし違和感は覚えるはず——)
とりあえずこの微弱な気配を辿ろうと意識を集中させ、導かれるままに一歩踏み出した先には、先に運ばれたばかりの汁物とそこに群がる客たち。脳裏に蘇ったのは、天碧としたいくつかのやりとりだった。
「穂白?」
急に様子がおかしくなった穂白に、天碧は栗鼠がいるであろう位置に目を向けながらも微かに首を傾げる。
「宮廷に行ってから穢れを患った人たち、食欲がなくなったり、粗相をするようになってない?」
「ああ。どちらも穢れを患った人には少なくない症状だと思うけれど」
「宮廷でなにか飲食したか、聞いた?」
「いや、そこまで聴取したとは聞いてないね。僕が赴いたときにはもう口が聞けない状態で……けれど、そういえば。最初の被害者である子どもの面倒を見ていたらしい侍女が、「この間まで、とても美味しい汁物を食べたとはしゃいでいた」って——まさか、汁物の中に、不浄の体液が混じっている?」
穂白も最初はそうかと思ったが、だとしたら、皇帝と皇后、太子が無事なのはおかしい。なにせ、かの汁物は宮廷の食卓には必ず並ぶ、故に、いつでも用意されているという話だ。それに、これは完全なる主観の推測だが、かつて師が皇帝に穂白のための汁物を要したとき、師の分もきちんと用意された。また他の機会に同僚の祓穢数人と宮廷を訪れたときも、その人が要したら全員に汁物が振る舞われた。汁物を要されたらその場にいる客人全員に提供するのが宮廷の流儀なのだと思っていたし、あの美味しいものを断る人はそういないのではないだろうか。なのに、穢れを患ったのは、子どもだけ、夫人だけ。
ならば犯人の狙いは——宮廷で異変を起こし国に不安を迸らせること、対応にあたるだろう刑部や祓穢を撹乱すること、特定の誰かを穢すことではなく、不安定でおかしな状況作り。そのためには穢れを患う人間は不規則である方がいい。
穂白はばっと卓へ駆けると、人波を分けて椀を取った。そのひとつひとつのふちを一周なぞっては口に運ぶ。
突然機会な行動を取り出した式神に周囲は騒然とした。穂白が四つめの椀のふちをなぞり口に含んだとき、刑部の男が穂白を取り押さえた。
「貴様、なにをしている」
「この椀に不浄の体液がついている」
穂白の淡々とした返答に、辺りはまたざわめきだした。
「黒いから分かりづらいけれど、たしかにその味がするわ」
「なんたる狂言を!」
「この椀を用意したのはあんたね」
刑部の声を無視し、先に椀を運んでいた使用人の男を指せば、その人は困惑した顔を浮かべる。
「そうですが、不浄の血なんて、そんなもの私は知りません……!」
「まぁ、あなたっていう確証はないわね。けれど、そこのひとも、そこの人も」
穂白はすでに椀をつけている、そして小指が痺れを完治する方に目を向けた。
「穢れてる」
指名された二人の客人はぞっと肩を震わせた。他の汁物を嗜んでいた客もそわそわしはじめる。
「けれど、そこの人たちは穢れてない。この椀の中に、不浄の血がついている椀とついていない椀がある。この椀を運んだのはあなただとして、用意したのは誰」
使用人たちが視線を交わし合い、それから、ひとりがぽつりと「料理人のひとりです」と答えた。
「じゃあ、その人を連れてきて、ここで霊力封じをかけて」
「で、ですが……」
「お前が指した人たちのどこが穢れているというんだ」
「そ、そうよ、私は穢れてなんかいないわ!」
四方八方から声が上がり、穂白はこめかみを抑えたい気持ちになりつつ、口を開いた。
「そりゃあ椀についた微量の不浄の体液じゃ自覚症状がまだ出てなくてもおかしくないわ。けれど、次第に飲食物が喉を通らなくなる、排泄がままならなくなる、進行していけば全身に黒が広がり、やがて不浄となる」
「そんな狂言で人を脅かしてなにがしたい!」
「狂言じゃなくて事実よ」
「そもそも不浄の体液の味が分かる式神なんているのか!」
「いや、まぁ、式神だって多種多様でしょうよ」
「水様」
飛んできた慣れない呼び名に顔を向ければ、そこには太子・洛星がいた。穂白は思わず顔を顰めそうになるが、堪えて「なんです」と返す。
「根拠もないのに騒ぎ立てて、我が宮廷の使用人を悪く言うのはやめていただきたい」
まるでこれが普通の社交界で起きた事件かのように、宮廷への誇りと威厳を含めて太子は言った。
(まぁ、そうよね。この場内にいる祓穢はともかく、貴族たちは何も知らない囮だもの。ただでさえ私への信頼がない状況で、それを公言するような真似はしないか)
「なら、私が指名したお二方を霊術が使える医師に見ていただいたらどうでしょう。優秀な医師なら見つけられるはずです」
「天碧殿のことは信頼しています。ですが、天碧様が最近召喚されたばかりの貴方様のことは、正直はかりかねます。なにせ、我々凡人は霊術においては門外漢。仮に、祓穢の皆々様が式神は信頼に値するものと太鼓判を押したとて……正直、心から納得はできないのですよ。それで我が使用人に嫌疑をかける真似はしたくないと言っているのです」
なんでこんなに食い下がってくるんだこの男は。被害者を少し医者に見せろと言っているだけなのに。平常の社交界を装いたい気持ちは分かるが、ここで新参の式神を信じるのはそんなにおかしなことだろうか。
「……私は、ご主人様とかたく誓約し、一人でも多くを救うように厳命を受けています。なので狂言や虚偽を発することはありません」
「ならば、その証明を見せていただきたいのですが。この中にいる式神使い様、式神が主と正しく深い誓約をしていると見定める術はありますか」
あたりが顔を見合わせ、一人の男がおずと声を上げる。
「誓約を結んでいれば、体のどこかに主の名が刻まれた紋が現れるはずです」
「ほう、紋ですか。水様。見せていただくことはできますか」
穂白の眉がひくりと動いた。一応、こんと融和した今の穂白は式神という分別になり、その紋もあるといえばある。着付けをしてもらう前に確認もしたが……。
(本当、この男、好きじゃない)
穂白は察していた。この太子は建前や正義のためにこの振る舞いをしているのではなく、自分を玩具認定したのだと。
昔からそういう悪癖があった。穂白に「妃にしてやってもいい」というなんとも尊大な宣言をした彼は、その後穂白に会うたびに絡んでは厄介なことを押し付けてきたり、人目につくところで過度に触れ合ってきたり、悪戯をかましてきた。なんでこんなことをするのかと問えば「面白いから」と悪びれもなく返し、彼の当時の使用人も「穂白様の反応を見るのを楽しんでいるようです」と申し訳なさそうに言っていた。
(どうしてこうも同じ運命を辿るのか)
穂白はため息を吐き、抵抗すればするほど喜ばせるだけだと諦めた。
「その紋を見せたら、その二人を医師に見せ、あなたの使用人に霊力封じを行使することを許可してくださりますか」
「そうですね、許可いたしましょう」
にっこりと笑った彼に、穂白はもう一度息吐きながら、腰紐に手をかけた——。
「失礼、夫人」
澄んだ声が響いて顔を上げると、先に穂白が穢れを患っていると指した女のそばに天碧が立っていた。女が見惚れている間に、天碧は彼女の方口からなにかを剥がすような仕草をした。それを見ていると、天碧がこちらを向いて、絡んだ視線にそっと微笑んだ。
「どうも、私の式神がお騒がせしてしまっているようで」
「これはこれは天碧殿。虐めるだなんて人聞が悪い。ただ、貴方との誓約の証を見せていただきたいと頼んだだけですよ」
「それで女性の裸を晒させるのが、太子殿下のやり方ですか」
周囲がざっとざわめくが、太子はゆったりと瞬いた。
「おや、それはそれは……失礼いたしました。天碧殿のご趣味ですか」
「お好きにご解釈ください」
天碧と洛星の間に妙な緊張感が走るが、しかし、穂白ははっとする。本来はこんなやりとりをしている場合ではないのだ。
「天碧、それどころじゃない」
「大丈夫だよ」
先にも聞いたその言葉に穂白が瞬くと、会場の奥から、二人の男が現れた。片方は前掛けをした料理人、それを連行しているもう一方は——。
「まぁ、皆様。とりあえず、試してみればいいんじゃありませんか。減るものでもあるまい。それに、その式神のお嬢さんが言っていることが真実だとしたら、大事ですよ」
穏やかで朗々とした喋り、記憶よりも少し老けた容姿。
「丹和様」
穂白が思わず呟いた呼び声は、その小ささから幸い誰に拾われることもなかった。
「丹和様、その人は」
祓穢らしい一人が尋ねる。
「なに、そこの式神のお嬢さんの話を聞いてちょいと厨に顔を出したら、件の料理人を見つけたから連れてきたのさ」
「な、なんなんですか、一体。僕がなにをしたというんですか」
丹和様に連れられた男は困惑をその身に湛えていた。そして穂白もまた困惑していた。
丹和様とて、この国に一等信頼されている紫格の祓穢だ。今日の大捕物に参加していてもおかしくないとは思っていた。だが、どうして、穂白たちに協力するような振る舞いをするのだろうか。丹和様は決して事なかれ主義というわけではないが、物事の流れを一番最後まで眺め見極めてからぽんと核心をつく性質だ。騒ぎが起きた段階では静観していることの方が多い。丹和様らしくもない。
「ときに天碧。その手に何か握っているように見えるが」
「ええ、丹和様。こちらは会場内を彷徨いていた不浄です。先ほど、私の式神指した夫人を侵そうとしていました」
穂白、洛星、天碧、丹和様を中心としてすっかり輪をなしていた客人たちは皆ぽかんといた。たしかに、天碧はなにかを掴んでいるように見えるが、なにも見えないのだから。
「透過させる術が施されているようです」
「君にはそれが見えているんだな」
「私の方も特殊な術を使っています故」
天碧と丹和様が視線を交わすと、それぞれ、捕らえていた使用人と料理人に術を唱えた——瞬間。
「きゃっ、なに⁉︎」
「灯りが消えた⁉︎」
突然、場内の灯の火が落ち、真っ暗になった。先まで明るさを浴びていた目が慣れるまで数秒、ようやく暗闇の中で物を識別できるようになったとき——丹和様が捕らえていた料理人が揃えた指を構えているのが見えた。
「丹和様!」
穂白は駆け寄り、男の胸ぐらを掴む。男は舌を打つと、穂白に蹴りを入れながら、丹和様の手を振り解いた。
穂白は蹴りは躱したものの、男との間に距離ができ、追いかけると彼は人の群れに紛れた。
「なにが起きてるの⁉︎」
「刑部でも祓穢でもいい、どうにかしてくれ!」
人々の騒ぎ声が響いて、穂白は顔を顰めながらも、人並みをくぐっていけば、男は窓に術をぶつけ、出て行こうとしているところだった。
そうはさせまいと穂白が床を蹴り、跳躍する。男は窓から飛び降りるが——思えば、何段もの階段をのぼった先にある宮廷、その宴会場。窓の向こうに飛び降りたら、普通の人間はひとたまりもない高さで、下に広がっているのは海である。霊術を使える人間だとしても、この会場にいる間透化をずっと施していた人間が果たして、安全地まで風操術を使えるほどの霊力を持っているだろうか。
「この、馬鹿!」
悪態をつきながら、穂白も窓の向こうに飛び出した。風操術を使い、男を追ってその腕を掴み上げる。しかし、男はじたばたと暴れる。
「離せ、くそが!」
「この高さから落ちたら死ぬわよ。それとも、ここから移動するだけの霊力が残ってるのかしら」
「死んだって構わない!」
「ここで死んだ方がマシって思うぐらい、あんたのところの拷問はひどいってわけ」
「何のことだか」
「ちゃんと聴取に答えれば極刑にはならない。それで牢屋にいればあんたの周りも手出しはしてこないでしょ。大人しく捕まりなさい」
「はっ、お前らはまだ何も分かってねぇんだな」
唐突に男は呵呵と声を上げた。
「俺はどうしたって死ぬ運命にある」
「どうして」
「この国の核は既に腐敗してんだよ」
穂白が眉を顰めたそのとき——風操術が解けた。
「は」
「ずいぶんなお人よしもいたものだな。道連れにされると思わなかったのか」
穂白が男を掴んでいたはずが、いつの間にか、男が穂白の方を掴んでいた。そしてその手からは、霊力封じの術が放たれていた。
「っ、馬鹿なことを」
この男を切り捨てれば、霊力封じは解け、穂白はまた風を操れる。しかし、禍穢だからって見殺しにするのか。
春の夜の冷たい空気の中をどんどんと降下していく。決断を下さなくてはいけないと思う、けれど、でも——。
「
声が聞こえた気がした。
まっすぐに澄んだそれは、天碧の声だった。
顔を上に向ければ、見下ろす男がいた。そして、ふいに、穂白の小指につけていた札がするりと解けて、大きくなっていく。それが、やがて穂白と男を包み込むと、ふんわりと浮き上がった。すぽっとなにかを潜り抜ける感覚がすると、巨大化した札が解け、宴会場に戻ってきたことが分かった。
怒涛の展開に穂白の隣の男はぽかんとしていた。そうだ、この男を捕らえねば、と穂白が動くより先に——そばに立っていた天碧が男の頭を思いきり踏みつけた。およそ人体から鳴るべきではない音が鈍く響く。
「身の程を知れ」
穂白と男以外は皆、天碧より後ろに群がっていたから、幸か不幸か、彼のその呟きと表情を捉えたのはきっと穂白だけだった。冬の植物よりもくすみ冷えた翡翠の冷酷を見たのは。
天碧は男の頬を蹴り横に倒して、頸にも一発とんと足を打つ。
男は床に力なく横たわり、微動だにしなくなった。
「この禍穢は気絶してしまったようです。お手数をおかけしますが、お運びいただいても」
打って変わった穏やかな笑顔で天碧が振り返り告げる。使用人たちが顔を見合わせながらも慌てて駆け寄り、男を運んでいった。
誰とかが灯火術を施し、会場内の明るさが戻れば、客人たちは天碧に群がり好奇と感嘆を向けた。てっきりそれにまた律儀に応えるのかと思ったら、天碧は拱手をした。
「今宵は大変お騒がせしました。今回の騒動について検討したいことができたため、本日はこれにて辞させていただけたらと思います」
天碧がちらりと洛星に目をやる。彼は特段引き止めることなかった。
「承知いたしました。何卒お願いいたします」
「ああ、それから。先の重要参考人については丁重な管理をお願いいたしますね。くれぐれも、損なったりしませんよう」
「ええ、番に厳命しておきます」
上辺が漂う丁寧な応酬を終え、天碧は穂白を一瞥して扉の方へと歩いく。穂白も早足でその後をついていった。
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