2-4
天碧が集め終わった硝子を両手に抱えて立ち上がる。
「そもそも穂白もあまり嘘が上手な性質じゃないよ。君の露悪癖は分かりやすいし、鳰と鳩も気づいていると思うな。君の振る舞いは、他人から自分を守るために、そして自分から他人を守るために、必死に威嚇をしている健気でやさしい小動物みたいだ」
「……喧嘩売ってる?」
「君の根があまりにまっすぐで美しいと褒めている」
「とても褒めているようには聞こえないけれど」
天碧は硝子を机上にぱらぱらと置き、ぱちんと指を弾いた。破片は引き寄せ合うように元の椀を形作るも、そこにはつぎはぎの痕跡が残る。
「この世には数多の術があるけれど、壊れたものを完璧に戻したり、時を巻き戻す術ばかりはいつまでも開発されない。一生をかけて探究している人もいると聞くけれど、少なくとも今日までに完成した話は聞かないね。それだけ、取り返しがつかないものなのだろうし、取り返しがついてはいけないものなのかもしれない」
ふと、穂白の腹になにかが乗る感覚がして見れば、こんがいた。こんは穂白の胸元まで這いのぼるとすりと頬擦りをした。
「それならば、もう二度と後悔しないように、尽くすのみだ。だから、僕は穂白を呼び出した」
天碧は穂白の方に向き直り、寝台のふちに腰を下ろした。
「だから、僕は穂白の真実が聞きたい。あのとき、穂白の中から穢れが溢れ出したのは穂白じゃない——誰かの悪意によるものだったと僕は考えている。どうかな」
今の話を聞く限りであれば、天碧は大穢変災にまつわるなんらかの後悔を抱えていて、その真相を探るべく、穂白を呼び出したということになる。たしかにそれなら、呼び出す対象が穂白でなくてはいけないことも、穂白についてやけに詳しいのも得心がいく。穂白が秘密裏に使用していた洞窟まで知っていたのは驚いたけれど……穂白にというより、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、深い事情を含んだ声音で語られた後悔に嘘があるように思えなかった。
穂白は浅く呼吸をした。それから、唇を開いた。
「……少し前から、調子がおかしかった」
少しだけ声が震えたのは、この話を他人にするのははじめてではなかったからだ。捕えられ審問にかけられたときも、穂白は訴えた——あの変災を起こす少し前から、調子が悪かった。
あの頃の穂白は、首から下がほとんど真っ黒になるほどの穢れを常時引き受けていた。だから常に頭痛や吐き気が伴っていた上に、穢受術を身につけたばかりの頃に様々な患者から話を聞いて知ったのだが、〝穢れの言語が理解できる〟のはどうやら普通ではない……少なくとも穂白が知る限りでその症状を持っているのは穂白だけだった。もしかしたら穢受術の副作用なのかもしれないそれのせいで、穂白の頭の中には常に何かを囁き合う声が響いていた。
そして大乱の最中、あちこちの地域を東奔西走し祓穢事や穢受をしていたあるとき、そこに突然奇妙な声が入った。他よりも特別な、言葉にし難い不快感をもった歪な声が、「もうすこし」と囁き出すようになった。穢れの言葉なんて大概意味がないものだから無視をしていたけれど、不快な声は日毎に大きくなっていく。さすがに穂白も不安になったが、最前線で戦い救援に走る穂白は休める状況でもない。それに、同じ感覚を共有できる人もいない。相談してもしょうがないと思った穂白はその不安を抱え続け、そして迎えたあの日——穂白の体から穢れが溢れ出る直前、その声は「くる」と言った。なにがくるのか、と思った直後、穂白の耳に激しい金属音が響いた。思わず全身を震わすほどの音だったのに、周囲は一切気づいてない様子で困惑してすぐ、穂白は全身の血が逆流するような恐ろしい感覚に襲われた——まるで、金属音に呼応するように。穂白の中に溜まっていた穢れは吹き出し、落ち、そして強い力を持った不浄と成った。
「信じるかどうかはあんた次第だけれど」
少しつっかえそうになりながらもひとしきりを話し、最後にそう付け足す。
穂白自身、不調を相談しなかったり、穢れをたっぷり抱えた身で無防備でいたのはよくなかった。だがそれと同時に、しょうがなかったじゃないかという思いもあった。国の未来を賭けて必死に奔走していた、誰にも自分の状態を理解してもらえないと思った、そして実際審問で聞き入れてもらえなかったときはやっぱりなと思った。そして信じてもらえなければもらえないほどに、穂白自身もあれは穂白の咎だったのかもしれないと思えてきた。あの声を聞いたのは、音を聞いたのは、少なくともあの場では穂白だけだったから。そう思うのが一番、楽だった。だって、懸命に思考し推理したところでもう誰も穂白を信じてはくれない。分かってはくれない。だから、諦めた。諦めようとした——それでも、奥底ではずっと、誰かに。
「信じるよ」
まっすぐな声が穂白の鼓膜を揺らす。見た天碧の顔は、やっぱりどこか軽薄に柔和な微笑みが浮かんでいるけれど、それでもその眼差しがとてもまっすぐな光を宿していた。
天碧は演技が上手いように思う。口も達者だ。絆されているのかもしれない。それでも、彼の眼差しは眩くて、穂白の胸はたしかに震えて、詰まった呼吸を吐き出すとともに瞳を細めた。
「この国なのか、世界なのか、それとも私個人なのか。どこに向けたものかは分からないけれど……そこに、誰かの悪意はあったと思う」
「穂白はその真実を暴きたい?」
難しい問いだった。
この世に穂白を嵌めた誰かがいる。それが誰か、その目的は何か、知りたくないと言えば嘘になるけれど。
「……分からない」
見つけてしまえば、果たして穂白は恨まないでいられるだろうか。それがどんな目的だったら許せるだろうか。もしかしたらどんな理由でも許せないかもしれない、醜い理由だったら穂白は酷いことをしてしまうかもしれない。
あの出来事から封印されるまでの日々は痛苦の塊でしかない。同僚も、助けた人たちも、誰も穂白を信じてくれなかった。諦めず反抗していた穂白が折れたのは、かつての友が穂白の弟を盾に取ろうとしたからだった。彼らに弟のことを話したことを心底後悔したし、今も許せずにいる。その憎しみが、悲しみが、たまらなく辛かった。
だからこそ封魔の香炉での安寧が恋しかった。そう思うと、真相を知るべきではない気もするのだ。
今の穂白には真実を受け入れる覚悟も、それでいて真実を諦めるという決断もくだせそうになかった。
「僕は、穂白を陥れたのは決して小さな悪意ではないと考えている。それにしては、穂白が封印されてからやけに落ち着いた状態が続いていたんだ。だが、今この国にはあやしい気配が漂っている。国家転覆、支配征服、それとも別の思惑か……とにかく、国を巻き込んで何かを起こそうとしている者たちがいるのはたしかだ。この二つが結びつくとは限らないけれど、無縁ではない気がしているんだ」
「気がしているって」
「明確な根拠はない。まぁ、勘だね。でも、僕の勘は結構当たる」
天碧は人差し指でとんと自分の額を叩いてみせた。
「君に手伝ってもらいたい太子主催の社交界はね、その糸口を掴むためのものなんだ。最近、宮廷には良からぬ噂があってね——宮廷に出入りすると穢れを患うらしい」
瞬いた穂白に、天碧が続けた。
曰く——ことの発端はひと月ほど前。ある貴族の子どもが穢れを患った。やんちゃな子だったからどこかで不浄と遭遇したのだろうと思われていたが、その数日後にまた別の貴族夫人が穢れを患った。さらに数日後、さらに数日後……と似た事態が続きさすがにこれはおかしぞと調査をしたら、どうやらこの貴族たちには共通点があったという。皆、穢れを患う前日に一家で宮廷に足を運んでいたのだ。そして揃いも揃って似た、爪で引っ掻かれたような小さな傷跡を負い、そこから穢れを患っていた。傷の大きさからして穢れの注入量も多くはない。しかし、それにしては進行がやけに早く、子どもにおいては一週間あまりで
もしや宮廷内に禍穢が紛れ込んでいるのではないかと刑部と上級の祓穢で宮廷内をくまなく捜査したのだが、怪しい人物や荷物は見つからない。そうしているうちに魔の手はついに皇太后にまで及んだ。
それを憂いた太子は上級など大雑把な括りに任せるのではだめだと花樹国に所属するすべての紫格祓穢に召集をかけ、そして宣言したのだ——なにものかが宮廷と民を利用しこの国を陥れようとしているようだ、ならばこちらから王侯貴族を招いた社交界という美味しい場を用意してやろう、そこで犯人を誘き出すなり炙り出すなりし捕まえ悪を企てたことを後悔させてやろうぞ、と。
「原因究明できていない状態でそんなことをしたら、下手を打ったら全員穢れを患っておしまいじゃない。穢れを患ってもどの不浄によるものか分からない、退治できないんじゃ詰みでしょ」
「僕もそう思って進言したけれど、太子の決意は固くてね。曰く、君たち紫格がつくのだからなにも恐れることはないだろうと」
「ずいぶんと立派な太子様がいたものね」
解決したら太子の手柄、解決しなかったら国よりも祓穢の信用が落ちそうな案件だ。
「君も接見したことはあるんじゃない?
ひく、と穂白の眉根が強張る。
「こちらも、あまり好きじゃないみたいだね」
天碧は喉をくつりと鳴らした。反射的に睨みながらも、好きじゃない、というのはやはり的を射ていた。
穂白も紫格としてそれなりに宮廷に招かれ、帝や太子と接見したことはあるし、十年で変わる状況があるとすれば、代替わりくらいなものであるが……あの太子にまつわるいい思い出はない。
「可能な限り会いたくなかったわ」
「あの地位と美貌で、市井の女性どころか男性も一度は接見したいと憧れる相手だというのに」
今度はくすくすと声を立てながら天碧は笑った。その姿を見ながら、顔がいいと性格にどこか歪みを抱えるものなのか、と穂白は息を零した。
ひとしきり笑ってすっきりしたらしい天碧はひとつ咳払いをして話を続けた。
「この件の少し前に世婦と御妻が数名、不浄となり退治られる事案があった。二、三名は穢れを患っていたけれど、それ以外はもとから精神が不安定だったり病み臥していた。だから彼女たちにおいては自発的になってしまったと考えられるけれど……それでもあまりに時期が重なった。それに、この後宮での祓穢事は密命だったにもかかわらず、なぜかすぐに市井に噂が広がったんだ。それから、教育機関に入ったばかりの祓穢が行方不明になるという事案なんかも起きている。加えて今回の件だ。民は不安を煽られているし、宮廷はいつになく殺伐としている。そして残念ながら、僕たちはまだその尻尾をほとんど掴めていない」
天碧が語った事案がもしすべてつながっているのだとしたら——たしかに、組織級の人員が暗躍し、その中にはある程度の地位の禍穢もいて、じわじわと国を陥れようとしているように思える。そしてここまでしても尻尾を掴ませないとなれば、浅くはない思惑と策謀があるのだろう。
「ただこの出来事の中にひとつだけ、引っかかることがあってね」
「引っかかること?」
「穢れを患って不浄になるかと思われていた……未然法間際にいた御妻がひとりだけ、急に回復したんだ」
「対応した不浄を退治したわけじゃないの」
「その可能性もないとは言えないね。彼女を穢した不浄は判然としていないし、偶然が起きた可能性はある。ただ、その回復した御妻は間もなく、自死した」
「自死」
「それも、僕が事情聴取を依頼したその夜に。だから真実は闇に葬られたわけだけれど。本当に偶然が起きたのか。それとも」
——誰かが彼女の穢れを取り除いたのか。
少なくとも穂白が知る限りであの術が使えたのは穂白のみだった。それに、穂白自身は頻繁に活用はしていたし善のための術と信じてはいたが、使用者にやさしい者ではない……失血もするし、自浄を身につけねば待つのは不浄化のみ、その自浄もまた容易に習得できるものではない。だからこの術を後世に残すかどうかについては悩み、結局答えを出さないまま封印された。
もちろん穂白がそうであったように、どうしても助けたい人がいて、血眼で術を編み出し身につけた人間がいる可能性もありえなくはないけれど……もしその御妻に穢受術が施されたとするなら、彼女をどうしても助けたいと願う人間がいたということなのだろうか。
御妻の状態を知りそこまでの行動に出る人間はさぞ親密だろうし、聴取の対象になるだろう。しかし、天碧は彼女の周囲に言及することなく「真実は闇に葬られた」と話を閉じた。つまり、値する存在がいなかったのだろう。ならばやはり偶然が働いたのかと思うが、救われた彼女が自死を選んだことが引っかかる。
「かつて、穂白と穂白が引き受けた穢れを利用して国を揺るがした何者かがいた。そして今、何者かが不浄と穢れを用いて国を揺るがそうとしている。どちらも、悪戯なんて言葉ではおさめられない、下拵えのある悪意。そのうえ、奇妙な事案もある」
たしかにそのふたつに縁があるとは言い切れない。禍穢を筆頭に、それなりに力があるものが悪意を働く際に不浄と穢れを用いるのはある手段だから。
だが、御妻の件は少々、だいぶ、気になる——偶然でなければ、おそらく穂白が無縁とも言い切れなくなる。
「立ち込める数多の闇を晴らすきっかけを得るために、どうか穂白の力を借りたい。そして、その中で、考えてみてほしい。穂白が進みたい道を」
——私が、進みたい道。
天碧は微笑んで言う。
「それでもなお君がかえりたいと願うのならば。僕は君との誓約に、誠実に答えよう」
天碧が手を差し出してくる。
穂白は翡翠の瞳を、それから昨夜に躊躇いなく指輪を受けた手を見た。それから、ひとつ息を吐き、そこに自分の手を重ねた。
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