2-2

「……夢」


 目を開けたら、赤の天蓋。紗が煌めいていないからまだ夜なのかと思ったら、窓を激しく打つ音がした。どうやら雨が降っているらしかった。

 あのあと天碧が持ってきたやけに美味しい粥を食べ、特にやることもなければなにも考えたくなかったからすぐに寝台に横になった。しかし、うまく寝付けず広い寝台の上で何度も寝返りを打ったところまでは覚えているけれど……気付けば寝落ちていたらしい。懐かしい夢を見た。

 故郷と、弟と、夢と、師。なんともやさしい憧憬と、その終わり。

 ——かえりたい。

 目覚めてからずっと、穂白の胸にはその思いがある。自分が本当にかえりたい場所はいったいどこなのだろうか。

 もし過去に戻れたとしても……例え、弟以外にあの術を使わない道を選んだとして。穂白は果たして、自分を許すことができただろうか。穢れに侵され苦しんでいる人たちを見て、それを救える術を持っているのになにもしない自分のことを。


「たらればなんてしょうもない」


 過去はどうしようもない、やっぱり穂白がおさまるべきはあの封魔の香炉の中しかないのだ。天碧の仕事とやらに力を貸して、その見返りとしてもう一度封じてもらうしかない——無事封じてもらえることを願うしかない。

 穂白はため息をひとつ吐き、上体を起こした。さんざん寝返りを打ち、睡眠も決して質が良いものじゃなかったからだろう、頭が少し痛い。まぁ穢れを身に受けたときの苦痛と比べたら大したものではないとそれからは意識を逸らせたが、喉の渇きは放っておけそうになかった。

 寝台から降りると、この世界に戻ってきてから記憶にある限りずっと寝台の上で過ごしていたからだろう、足が絨毯を踏む感覚が新鮮に感じられた。

(そういえばあいつはどこで私を解放したのかしら。この部屋にそんな大術を使った痕跡はないし)

 もしこの屋敷のどこかに封魔の香炉があり、自己封印の術もあったならば、穂白は天碧と誓約を結ぶこともなかった。

 ひとつ、天碧の行いに祓穢としての意思が見受けられなかった場合。

 ふたつ、天碧が悪意を持って無辜を傷つけた場合。

 みっつ、天碧からの依頼を達成した際に彼が穂白の望む報酬を齎さなかった場合。

 よっつ、胡散臭い言葉を穂白に向けないこと。

 あのとき、天碧がそれを守らねば指を切り落とされる誓約をしたように、穂白もまた彼の仕事を手伝う誓約をした。

 しかし穂白が賭けているのは指ではない、この術は行使側が一貫して担う業は一切の自由だ。誓約を破ったと相手が判断した際に意識を有したまま自身の主導権を失う、相手が満足するまで相手が指示した行動しか取れない最悪のからくり人形と化すのだ。それにより恥辱を晒すことになった術士たちの説話はそれなりにある。果てして、指ひとつ失う方がましか、一切の自由を失う方がましか。なんとも絶妙なところである。

 仮に封魔の香炉を見つけられたとして、穂白は自己封印術を知らず、既知の術を混ぜては組み合わせ試しての研究をその場でしなくてはいけなくなる。運に賭ける行き当たりばったり、そもそもそんな膨大な霊力を使えば確実に天碧にバレるだろう。そうなれば……最悪を想像して穂白は頭痛がわずかに強くなるのを感じた。

 他の道も浮かばなければ、誓約はもう結んでしまった、穂白はそれを果たす他ない。あくまで穂白は〝祓穢事を手伝う〟と宣誓しているし、天碧に課している業の方が難儀だから、そう大事にはならないと思いたいところだ。

 ひとつ息を吐き、とりあえずさっさと喉を潤そうと、数歩歩いて辿り着いた扉に手をかけると。


「きゃ」

「わ」


 開けてすぐの壁際に、黒の衣服に白の前掛けを纏った茶髪を引っ詰めた少女——鳰がいた。


「し、式神様、どうかなさいましたか」

「いや、どうかなさったっていうか……喉が渇いたから、水でも取りにいけたらと」

「かしこまりました! ご用意しますね!」

「あ」


 自分で取りに行く、と言う前に、鳰はぴゅうっと駆けていく。あの子めちゃくちゃ足速いな……なんて思いながらその背を見ていると、うしろから声をかけられた。


「すみません。鳰はせっかちなあがり症なもので」


 振り向けば、そこには鳰と瓜二つの顔があった。だが、声は鳰より低く、茶の髪はさっぱりと短い。顔も、先に見た鳰の下がり気味の眦とは対照的な吊り目。きりりと理知的な印象がある。


「慣れない相手を前にすると特に先走る節があるんです」

「もしかして、鳩?」

「はい。天碧様よりあなた様のお世話を拝命しております、鳩と申します」

「拝命って……別に、世話なんかしてもらわなくて結構なんだけど」

「ご主人様からの命ですので」

「揃いも揃ってあれに忠実なのね」


 肩を竦めてから、穂白は少し気になったことを尋ねた。


「あなたたちは双子?」

「一応」

「一応?」

「厳密には鳰が姉で俺が弟です。が、大した差ではないです」

「ふぅん」

「式神様、お待たせしました!」


 と、跳ねた鈴のような声が飛んでくる。お盆に椀を乗せた鳰が駆けながら戻ってきた。


「鳰、お盆を持っている時に走るな。転んだらどうする」

「大丈夫、転ばな——わ!?」


 なんて見事な振りと回収だことか——あと数歩で穂白と鳩にたどり着くというところで鳰は躓き転んだ。宙に高らかに飛んだ椀は目掛けたのかと思うほど見事穂白の上でくるりと一回転し、とっぷりと水を降り落とした。


「あ、わ……」


 青ざめた鳰が震えた声をこぼす。


「すみません、穂白様。今すぐ布とお風呂のご用意を」


 わずかに眉を上げた鳩がどこかへ向かおうとする。


「大丈夫」


 かつて弟子入りしたばかりの穂白に丹和様は尋ねた——どんな術を使ってみたい、と。

今でこそ祓穢は不浄退治の専門職のようになっているが、今よりももっと不浄や穢れ被害が少なかった昔には、人々の生活を支えるのも祓穢の仕事だったという。だから霊術も戦闘のためのものだけではなく、人や草木に少し霊力を分け与えて元気にしてあげたり、空気を司って長距離の移動を楽にしたり、多種多様なものがある。そういった、なんでもできるようでなんでもはできないのが霊力なのだと師は言っていた。

 人に少し元気を分け与えるというのならばやったことがあるかもしれない、とあの雨の日に弟の背を撫でていたときのことを話せば、丹和様は驚いた顔をしてさすが私が見込んだ子だとか褒めてくれたっけ。懐かしい思い出だ。雨の日の話をしたからこそ、そのときの穂白が真っ先に閃いて丹和様に教えを乞うた最初の霊術は、濡れたものを乾かす術だった。

 穂白がわずかに手をあげ、術を唇に乗せながらきゅっと握る。すると次瞬には、濡れた髪も衣服も、すっかり元の乾きを取り戻していた。


「す、すごい」


 鳰が感心した声を零してから、また、は、と青ざめた。


「す、すみません、式神様。とんだご無礼を働いてしまい……天碧様からも式神様を丁重に扱うよう仰せつかっております、どうぞ罰でも呪いでもなんなりと」


 服の裾を掴んで鳰がその場に跪く。と、その前に鳩がやってきた。


「鳰がすみませんでした。ですがどうか……鳰に罰を下すのだけは」

「きゅ、鳩、何してるの、あなたは下がって。私、あなたになにかあったら……式神様、どうか鳩だけは」


 目の前ではじまった姉弟の庇い合いに穂白は少し呆然とした。明らかに被害者は穂白なのだが、なんだかとても悪いことをした気分になる。

(でも、私も同じ立場だったら)

 弟がいる前で、式神でもなんでも得体の知れない存在に粗相を働いたら、絶対に気を張って守ろうとするだろう。そして弟も……あの子はとてもやさしい子だから、きっと、強くはない体に鞭を打って私を守ろうとしてくれる。その光景が易々と想像できて、目の前のものとあわく重なって、穂白は小さく笑った。


「罰なんて下すわけないでしょ。たかが水を被ったぐらいで。もう乾いてるし」


 鳰と鳩の言い合いがぴたりと止まり、血のつながりを感じる藍色の瞳がよっつ、穂白を捉える。


「それにそもそも私は誰かを呪うことなんてできない」

「へ」

「あんなのははったりよ」


 鳰が瞳を丸くしてぱちりと瞬く。鳩はいまだ警戒を解かずに穂白を見ている。あの底の知れない主人の使用人たちでありながら、ずいぶんと純粋で眩しい子たちかと穂白はわずかに瞳を細めた。


「それより井戸の場所を教えてもらえる?」

「お、お水でしたら私が」

「ありがたいけれど、喉が渇くたびに呼びつけるのはなんでしょ。それに……ああ、今、何刻?」

「えっと、午二つごろです」


 午二つ。昨夜布団に入ったのが亥の三つごろだったから、なんだかんだずいぶんと横になってしまっていたみたいだ。

 しかし真夜中というわけでもないなら、天碧のもとを訪ねて仕事について聞いてもいいだろう。


「あなたたちのご主人様はどこにいる?」

「ご主人様は昨夜、式神様との夕餉を終えてすぐに祓穢事におでかけになりました」


 鳩の答えに、穂白はわずかに目を見開く。


「昨夜って……それから帰ってきていないの?」

「普段からこんな感じです。ご主人様は祓穢事で多忙で……屋敷に戻ってくるのは寝食のときぐらいです。それも、ほんの短い時間ですが」


 と、今度は鳰が心配そうな面持ちで答えた。

(それだけ多忙ってなると、霊術にもだいぶ長けているようだし青格せいかくか……いや、あの封印が解けるなら、紫格しかくか)


 祓穢は上から紫格、青格、赤格せきかく黄格おうかく緑格ろくかくの五階級に分かれている。教育機関に入った段では皆緑格だが、三か月に一度試験資格が与えられ合格すれば昇級や飛び級ができる。上に行けば行くほど給金も高くなるが、請け負う依頼量の数も重みも段違いとなる。そのため、あえて試験資格を行使せずとどまる人間も、特に青格、赤格周辺にはそれなりにいる。

 穂白は師の勧誘で教育機関に入ってから、弟が自由に暮らせるだけの給金も稼ぐために、困っている多くの人を助けるために、少しでも早く強くなりたいと必死に学んで試験も都度受け、すぐに紫格へと昇級した。

 それ故に、大乱の最中はそこかしこに現れる禍穢や不浄を退治するために東奔西走していたし、穢れ被害にあった人の治療にもあたっていたから、まさに寝食を惜しむ状況だった。

 だが大乱前は、連続での出張や睡眠がまともに取れない日もままあったけれど、それでも定期的に弟と食卓を囲んだり、新しい魔術の研究に勤しむ時間くらいは取れたものだ。


「今のこの国の状況ってそんなによくないの」

「私たちもお買い物以外では表に出ないので詳しくはないのですが……少なくても、五年前……私たちがご主人様に拾っていただいてからは戦争などは起きていませんし、物価も落ち着いていると思います」


 穂白はぱちりと瞬いた。

 (そういえば、この子達は花樹の生まれじゃないんだっけ)

 二人について、最新の情勢を追ったり学べるような環境にも身を置いていなかった、と天碧は言っていた。だから穂白についても知らない、と。

 彼女たちが天碧に拾われたのが五年前からは少なくともこの国の状況は変わっていない——じゃあ、それより前になにかがあっとしたら。十年前、穂白の身から溢れた大量の不浄による被害影響が今にも及んでいたら。それにより祓穢事は穂白が働いていて頃よりも多忙なものになり、痛苦に嘆いている人が増えていたら。

 一瞬、目の前がくらりとした。呼吸が苦しくなって、胸が詰まった。封印の間際まで浴びせられた糾弾の言葉が脳裏に蘇る。

 なんて悪辣で卑劣か。この裏切り者。偽善者。お前はこの世の何よりも穢れた醜い存在だ——。


「式神様?」


 呼ばれた声に、は、と顔をあげる。薄暗くなっていた視界が緩やかに戻り、そこには怪訝な顔した鳰と鳩がいた。


「どうかなさいましたか、もしかして、お体の具合が」

「……いいえ、大丈夫。水を汲みにいくついでにあなたたちのご主人様に聞きたい話があったのだけれど、いないなら仕方ないわね。井戸の場所だけ教えてもらっていいかしら」


 再び鳰と鳩が顔を見合わせ、それから鳰が「承知いたしました」と頷いた。

 鳰の後について屋敷を歩いていく。廊下もたまに見える他の部屋も、質の良い調度品が誂えられているが華美ではない。昨夜に見た天碧の身なりからしても、いかにもな派手物を好む性質ではないのだろう。屋敷の広さも主人ひとり、使用人ふたりの生活ならばこのぐらいだろうというほどよさ、井戸がある小庭へと続く勝手口までもそう遠くはなかった。


「案内ありがとう」

「いえ……あの」

「心配しなくても、ここから脱走したりしないから」


 傘を借りて、扉を開ける。仰げば何の変哲もない雨空がそこにあるが、目を凝らせば薄い光の膜が見えた。昨夜に天碧が言っていたとおり、この屋敷の周りには結界が張り巡らされているようだった。

 井戸から汲んだ水を椀に移して口に含む。ひんやりとした冷たさが通りぬけ、少しだけ頭がすっきりする。渇きは癒えた。雨のにおいがする空気を何度か吸った。夢見た昔日がうっすら浮かぶ。


「鳰」

「は、はい」


 同じく傘を開いて穂白のそばで控えていた鳰が突然名前を呼ばれて驚いたように、肩を跳ねさせた。


「大事なものを簡単に他人に教えないほうがいいわよ」

「え……?」

「先達からの教訓。さっき、もし私があなたに罰を下さずに、彼の方に手を出していたら。あなたはきっと一生後悔したでしょう」


 と言っても、見る限り彼女は穂白とひとつ、ふたつぐらいしか変わらない年頃だろう。もし封印されていなければ穂白は今頃三十手前になっていてそれこそ先達と胸を張れたかもしれないけれど、香炉の中の停止した世界にいた穂白は体も気持ちも十九歳のままである。三十になっていたかもしれない自分は想像がつかないし、十九歳のまま十年が過ぎた自分も実感が湧かないけれど。


「室に戻るわ。もし天碧が帰ってきたら、仕事の話をしにくるよう伝えてもらっていい?」


 勝手口に戻り、傘を閉じる。室の方に向かって歩き出したとき。


「でも」


 勝手口に突っ立ったまま、俯いたまま、鳰は口を開いた。


「でも、式神様は、私を許してくださいました。鳩にも手を出しませんでした。それだけが事実ではありませんか。私は……最初は、式神様が、怖かったですけど。でも、あのとき、式神様の笑顔を見たときに、もっとあなたの笑顔を見たいと思いました。それだけが、事実ではありませんか」


 持ち上がった顔の、眦や唇は少し震えていたけれど、それでも、眉はしっかりとしていて、藍色の瞳はまっすぐだった。

 穂白は肩を竦めた。

 たしかにあのとき、穂白は使用人の双子に手を出すことはなかった。心火を燃やすような事柄ではなかったからだ。

 たしかにあのとき、穂白は庇い合う二人につい笑いをこぼした。どうしようもない懐かしさを覚えたからだ。

 しかしそれだけで心を許すのは、許したようなことを言うのは、あまりに早計ではないだろうか。穂白の過去も罪も知らず、ほんの短い時間のたったあれだけの出来事で、あまりにお人よしがすぎる。いっそ、愚かなまでに。


「それに、天碧様があなた様を信頼していますから。天碧様が信頼する方が、悪い方なわけがないと思います」


(本当にあいつへの忠誠心が強いわね)

 この様子を見ていると天碧に仕えているのもそのお人よしが故だったりしないだろうかと思ってしまう。彼に拾ってもらったと言っていたからなにか深い事情と恩義があるのかもしれないけれど、あの一見甘美に映る完璧な微笑みに唆されてことだったとしたら。

(そうだとして、私が口を出すような……出せるような問題ではないけれど)

 この忠誠っぷりは穂白が二、三言注意したところでどうにかなるものでもないだろう。それに、天碧が悪人と決まったわけでもない。もし鳰達の言う通り、今留守にしているのが本当に祓事で奔走しているためだったら、とりあえず悪いやつではないのだろう——しかし、この国における大罪人である穂白を私情私欲のために呼び戻したというこの上なく大きな懸念がある。その引っ掛かりが解けない限り、穂白は天碧への疑念を晴らせそうにない。


「あなた達がそれほど信頼を寄せている天碧っていったいどんな人なの」

「君のことが大大大好きな普通の男だよ」


 上から降ってきた声にさすがの穂白も驚き、ぱっと飛び退いて応戦態勢を取った。それを見た天碧は「さすが無駄のない動きだ」と手を叩く。


「音を立てずに人の後ろに突然立つやつが普通を名乗るな」

「驚かせようと思って。跳ねる君は猫みたいでかわいかったよ」

「殴りたい」

「それで君の中で晴れるものがあるのなら」


 それを言われると殴ったら負けな気がして、結局かためたこぶしを震わすことしかできなくなる。なんと腹立たしいことか。


「恨みがましそうな顔だ」

「そりゃああんたを恨めしく思ってるからね」

「有無を言わさず殴ればいいのに。君はやさしいね」

「……もしこの屋敷で私の霊力が暴走することがあったら九割九分あんたへの苛立ちよ」

「それは大変だ、誠心誠意食い止めないとね」


 ああ言えばこう言う、この男との口論は本当に疲れる。仮に天碧がまともな祓穢だったとしても、穂白と馬が合わないのはたしかだろう。穂白が現役だった頃にこの男が同僚でなくて良かったと思う。厄介な祓穢事の際には複数人合同で動くこともままあるし、遠方に赴く場合は野宿で寝食もともにすることもある。この男のやたら回る口を朝な夕なと聞いていたら多分、穂白は過度の気疲れから本当に宣言なしでこぶしを振りかざすようになっていたかもしれない……いや、今もちょっと、あやしいけれど。


「そもそも同じ穴の狢だと思わないかい?」

「なにがよ」

「大事なものを簡単に他人に教えないほうがいいっていうのはつまるところ、知り合っても間もない相互理解のない相手に自分の内側を晒すのは危険だって言いたいんだろう」


 そこから聞いていたのか。


「君だって知り合って間もない鳰のことを心配して助言している。お人よしは君も同じじゃないのかい」

「私は、別に」

「鳰がいい子だと思ったからというのであれば、鳰も君がいい人だと思ったからこうして信頼を示したまでだ。だろう?」


 天碧が視線を向けた先をなぞり見る。そこにいた鳰がぱちりと瞬いてから、なぜか赤い顔をこくこく頷かせた。


「あ、あの……ご主人様と式神様はその、夫婦めおとでいらっしゃったんですね」

「は?」

「そうだよ」

「なに言ってんの?」

「君もご覧の通り、彼女は素直じゃないところがあるんだ」

「おいこの状況でそれを言い出すと信じられちゃうでしょうが」

「お、露悪を認めたね」

「あんたねぇ!」

「つう……かあ……!」


 やけに感嘆に満ちた声を上げた鳰はいっそう顔を赤らめた。それから、は、としたように「わ、私はお邪魔ですね! 失礼いたします!」と何度もお辞儀をしてから厨を出て行った。


「今夜の夕餉は豪華になりそうだね」


愉快げに微笑む天碧に、穂白はため息を吐いた。


「あんた、結婚後すぐに嫁に逃げられたご主人様になるわよ」

「おや、どうして」

「あんたの依頼を果たす対価に私が望む報酬がそれ以外だとでも?」


天碧はしばし穂白を見つめた。翡翠の瞳が、瞬きひとつすることなく、まっすぐに穂白を反射し続ける。


「なに」


先まで続いていた応酬がぴたりと静かになりまじまじと見つめられたら居心地が悪くなる。穂白が怪訝に尋ねれば、天碧はまたにこりと微笑んだ。


「鳩から聞いたよ。君が僕に会いたいと言っていたって。嬉しさのあまり目眩がしてしまった」

「会いたいとは言ってない。やることもないし仕事の話を聞こうと思っただけよ」

「僕の祓穢事もちょうど落ち着いたところだ。穂白の部屋でお茶でも飲みながら話そう」


すっかり元の調子に戻った天碧が厨でお茶の用意をはじめる。穂白は、自分と天碧のやりとりは決してなどではなくしょうもない言い合いに過ぎないだろ、と思いつつ、その様子を眺めていた。

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