第42話 無音の小夜曲

 エルダの婚約。

 彼女が私から祝福の言葉をほしがっていないのは、顔が見えずともわかる。闇に溢れた声は痛ましかった。


「この頃、昔のことを夢見るの」


 暗闇に目が慣れてきたところにエルダがそう呟いた。私はベッドに腰掛けたままで、窓辺にそのままいるであろう彼女に近づけずにいる。


 エルダが初めてナパボルト工房に足を踏み入れたのは彼女が八歳の秋で、今からおよそ十年前だ。その時はまだ正式に弟子入りが決まっておらず、領地から馬車と開業したばかりの鉄道で、父娘の二人で下見をしに王都を訪れたのだという。

 ナパボルトの規定ではいかなる身分であっても、弟子入りが許されるのは十歳以上の女子と定められていた。


「八歳の私に、お父様は言ったわ。この工房へと入らなくてもいいように、木彫り以外の分野で何か突出してほしいものだ、と」

「それはつまり……時勢を読んで?」


 木彫りに明るい未来がないと考えて。


「さあ、どうかしら。お父様は芸術全般に疎いのよ。もちろん、教養の範囲内では知っていたけど。お父様には王都に急ぎの用向きがあって、あくまでついでに工房を見学する段取りだったの。お母様がそう望んだ」


 パンフィーネ家の他の娘たち、すなわちエルダの姉たちは自ら木彫りに慣れ親しむことはなかった。父親の方針で、鑿を含む刃物類に一切近づくことが許されなかったからだ。


 末女にあたるエルダもまたそれに倣うはずだったが、エルダの生まれた頃に社交界でにわかに木彫りの価値が上がったことを受けて、母親がエルダに木彫りを専門的に学ばせるのを決めたのだと言う。

 彼女の誕生年は、たしかカシラギが神樹の彫り人として女神像を造った年と一致するだから、察するにカシラギという美しい一流の木彫り師の存在が上流階級たちの教育にも影響を少なからず与えたというわけだ。


「十歳になったばかりの私はまだ、木彫りの道を自分が進むだなんて思っていなかった。私の関心はピアノや他の学問にあって、木彫りはそれほど私の心を揺さぶらなかったの」

「けれど工房へと入った」

「ええ。実は、抵抗してみたのよ。その一つがピアノ。もし私のピアノが特別だって認められれば、領地でしばらくそのままピアノを学ぶのを許すとお母様は言ったわ」


 結果は不合格。

 講師の先生も、領内の音楽家も、居合わせたエルダの姉の一人も、口を揃えて「ただうまいだけのピアノ」と評したのだった。


「結局、木彫りもそうなのよ」


 そう言うとエルダが動く。足音は私のすぐ目の前で止まった。


「特別にはなれない。私の木彫りでは、女神を彫ることはできない。ただうまいだけの、木彫り。市場の端っこに並べれば売れるかもしれないけど、美術館には並べられない」

「エルダさん……」

「何も言わないで、リラさん。何も」


 エルダは慎重に私へと近寄ると、私の顔に触れてきた。それは数日前にユウがエルダの像を彫る前にした、触覚での輪郭の確認を思わせた。

 あたかも盲人が手触りで物の大きさや質感、形を捉えるようにユウは目を閉じてエルダの全身に触れたのだ。真昼に行われたあの作業。私は目が離せずに見守っていた。

 ユウの指先がエルダの身体、通常は触れ合うことのない部位にも這い、添えられた時に私は何とも言えない気分になった。そしてあの時のエルダの面持ちもまた冷静ではいられない心中を示していたのだった。


 今、エルダは暗闇で私の顔に触れている。私は言われたとおりに黙っている。


 額、頰、目元、鼻先。

 また頰を撫でて、右耳、顎、上唇、それから髪の毛、左耳へと。


 生暖かな指先が私の顔をなぞる。音なくなぞって、やがて離れた。


「――もしも貴女が」


 上擦った声でエルダは仮定する。

 現実に反すること。しなかったこと、できなかったこと。


「私の婚約を聞いてすぐに『おめでとう』なんて言ってきたのなら、この唇に私は舌を突っ込んでいたかもしれないわ」


 つんっとエルダがもう一度、指先で私の唇に触れた。それがおまじないのようになって、私はずっと閉じていた口を開いた。


「……よくわからないよ。敢えて言わせてもらうと、そんなことして何になるの」

「強いて言うなら思い出よ。私がまだ少女だった頃の、大切な思い出に」


 もうすぐエルダは少女でなくなる。そう彼女自身が予感、あるいは確信している。


「相手がどんな人だとか、そういうの聞いてもいい? 友達として」

「身分は貴族。それ以外の素性、体格だったり性格だったりは、納涼祭の時にわかるわ。その時に初めて会う人なのよ。私の十歳上。まだ十分に若いわ」


 私は自分の村のこと、家族のことを思い出す。父と母は村出身の同年代に幼馴染で、父が町へと出稼ぎに行っていた期間を除けば、いっしょに生きてきた人たちだ。

 こうした夫婦は村では珍しくない。私自身の結婚について聞いた覚えのあることは……まずは兄が結婚してから母が言っていたような。もしも私が木彫りに出会わずに村に残っていれば今頃、誰かと結婚しただろうか。


「リラさん、貴女さえよければうちに客人として招く、いいえ、それだけではなく木彫り師として雇うこともできるわ。ええ、きっと。貴女の腕なら認めてくれると思う。貴女は特別になり得る」

「神樹の彫り人にはなれない?」

「ユウさんがいるから。言わせないで、こんなこと。知っているくせに」

「ううん、言うよ。だって、ユウが特別かそれ以上の存在なのは前からだよ。それでも私たちは友達になって、それで三人いっしょにこの神彫院で過ごして――――」

「やめてっ」


 エルダが私をベッドに押し倒す。荒い吐息が降ってくる。


「ユウさんのことは好きよ、嘘じゃない。友達のままでいられると信じていたわ。叶うことなら貴女たちといっしょにどこかで長閑に過ごしたい、ただ木を彫るだけでいい生活をしたいと願っていたのよ。時々、ツェツィーリアさんも呼んで、ヴァイオリンを演奏してもらうの。そうね、私もピアノを弾く。ユウさんは歌ってくれて……リラさん、貴女は座って私に微笑みかけてくれるだけでいい。そんな日々を夢見たこともあったわ」


 あたたかくてつめたいもの。

 液体。ああ、涙だ。エルダの見えない、でも感じられる涙。次々にそれが降ってくる。

 重力には逆らえない。森に聳える木々はああも空を穿つように伸びていくのに。私たちは大地から仰ぎ見るだけ。


「私はここまでよ」


 エルダが目を手でこするのがわかる。溢れる涙を止めようとしているのがわかる。


「ここが終点。私はあの子の、そして貴女の隣にいられない。女神は私に微笑まない。私は……帰ることにする。鑿を置き、代わりに綺麗なドレスを纏い、知り合って間もない男の妻となり、抱かれるのよ。それは長い目で見れば幸福の始まりなのだと信じているわ。少女であり続けるのは、想いを引きずり続けるのは堪え難い不幸なのよ」


 エルダが去ろうとする。ここは紛れもなく彼女にあてがわれた部屋だというのに、彼女はどこか遠くへ、夜を駆けていこうとする。そんな気がした私は堪らなくなって、彼女を精一杯抱き締めていた。

 仰向けのままで暗闇の宙へと手を伸ばし、そこにまだ彼女がいると信じて抱き寄せた。


「いかないで」


 自分が出した声とは思えない、間の抜けた幼い声だった。


「……ちがうかたちで聞きたかった。貴女の優しさをこんなふうに知りたくなかった」


 もう遅いのだ。そもそも私はこの人をここに留めようと努力しただろうか。私たち三人であり続けようと努めただろうか。


 私はまだユウの、稀代の木彫り師である少女の隣に立つことはできていない。私の終点はどこだ。私が今、抱き寄せている人を失ってなお、私は鑿を振るうのやめないでいられるか。そうだ、いられる。できる。

 ――ただちょっと、さよならが痛いだけ。


「ユウさんには私から言う」

「うん」

「納涼祭の日、私は将来の夫と会い、そしてここを発つ。貴女たちはダフネ・スフォルツァと話す。そうよね?」

「……うん」

「どんな結果であれ、ここを貴女が出る時、行く宛がなかったら私のもとへ来て。友達としてでかまわない」

「わかった」


 約束はできない。行く宛は、帰る場所と会いたい人はいるのだから。ミカエラの顔とあの手を思い浮かべる。それから、あの軒下の狼を想う。




 私とエルダはその後、しばらく闇の中で重なり合ったまま二人分の息遣いと心音を聞いた。その夜、言葉はもう交わさなかった。

 部屋を出る前に、私の左頬に彼女が口づけをしてくる。雛鳥の啄ばみにも満たない弱々しい口づけだった。

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