第40話 モデル
ユウとダフネが再会する予定の夏の催事、すなわち納涼祭を目前にした夏の日のこと。
私たち候補生にとって最後の通常課題の内容が掲示板にて発表された。日夜、前倒しして開始されることに決まった選出課題について少女たちの間で噂が飛び交い続けている中で、その通常課題はあまり重要視されていないみたいだった。
制作に与えられている期間というのが一週間しかなく、いつもより短いことも候補生たちの意欲を削いでいた。
嘘か本当か、何もしないで選出課題の開始を待つのが精神的につらい候補生のために用意したものだと噂されてもいるのだ。
早い話が、つなぎの課題。なんと講評会も開かれず、講評自体は希望制、別個で得られると詳細に記されていた。
「この『高貴なる人物』というテーマは女神像に通じるところがあるわよね」
掲示板の前、エルダが隣に並ぶ私とユウにそう言った。
エルダの提案で始まった、ユウの文字の読み書きの練習は滞りなく進められているが、掲示板に張り出された手書きの通達はなかなかの癖字で私とエルダでも所々怪しく、ユウはというと「こんなの習っていない!」と頰を膨らませていた。
職員の担当替えがあったのか、今回限りなのか、それは見覚えのない筆跡だった。カシラギのあの美しい字とは雲泥の差だ。
「でもエルダさん、人物って言うからには人を彫らないとでは?」
「貴女がこれまで資料で見てきた女神たちはそこまで人とかけ離れた姿をしていた? いいえ、そうではないはず。翼や光輪、他の超常的部位……そう言ったものは必ずしもいらないのよ」
「それでも私は人間が纏うことのできる高貴さと、女神らしさって別物だと思う」
「人は神になれない。そういうこと?」
ユウのためにも、エルダは私の主張をぎゅっと簡潔にしてくれた。
肯く私に彼女は優しげに微笑み、けれどその瞳に真剣さが増す。
「リラさんのその考え、否定するつもりはないわ。ただ私としては、神の中に人がいるのではなく人の中に神はいるものだから」
「それは……」
わかるような、わからないような。
国教の聖典に書かれている一節でないのは確かだ。
「ねぇ、それで二人はどんなのを彫る気?」
見つめ合う私たちの脇から、ユウが朗らかな声をかけてくる。
「わたしね、コウキって聞いた時に真っ先に思い浮かべた人がいるんだ。リラ、誰だかわかる?」
「私とユウとで高貴の意味がいっしょなら、きっと思い浮かべた人もいっしょだよ」
「そうかな、そうだったらいいなぁ」
「へぇ……残念ながら私とは違うわ。私はお母様のことを、そしてお父様のことを思ったから。いつの日か、貴女たち二人に紹介できる日がくるかしらね」
そんなことをエルダが平然と言うので、私とユウは顔を見合わせ、それからエルダをじいっと見た。すると「な、なに? べつに何が何でも紹介したいってわけではなく……」と言い出すのだった。
「エルダだよ!」
「はい?」
「わたしとリラが思い浮かべたの。コウキなる人物ってエルダだもん」
「思い切ってエルダさんをモデルに彫ってみるのもいいかもしれないね」
「じょ、冗談よね?」
本気だよ、と口にする前にユウの反応をうかがった。
彼女であれば乗ってくれると思ったからだ。今回は私たちの大切な友人であるエルダ・パンフィーネを彫り上げる。それは試みとしては十二分に興味深く、やり甲斐があるはずだ。――だと言うのに、ユウは「うーん……」と唸っていた。
「えっと、ユウはエルダさんをモデルにするつもりはない?」
「したいよ。してみたい。でもね、わたし、ダフネから禁止されているの。生きている人を木に写し取ろうとすること。それはしかるべき時が来てからだって」
「然るべき時……それはいつなの?」
そう訊いたのはエルダだ。
私はダフネがユウに課している禁止事項の意図が何なのかが気になった。
「それは、わかんない。あっ、けど、もしかしたら今日だったりするのかな」
ぱぁっと表情を明るくするユウ。しかし私もエルダもどう答えればいいか迷う。
「エルダさん、そもそもモデルを引き受けてはくれるの?」
しかたがないので話題を少しずらした私に、エルダは自慢の金髪、夏の日差しに照り輝くそれを愛しげに触れて応じる。
「まぁ……もし本気であれば、かまわないわ。次は選出課題で、そういう機会もなくなるわよね」
照れ臭さそうな声。
話を聞くに、私たちが入学する以前の課題で他の候補生の首から上の像を彫ったことはあるらしい。その他にも人間の身体を題材にというのは、神彫院では基礎の部分にあたるようで度々課題になっていたそうだ。
「も、もちろん裸像ではないわよ。今回もモデルをやってもいいけど、脱ぎはしないから。それでもいいなら引き受ける」
「わかった。ユウ、私はエルダさんの厚意に甘えて今回はエルダさんを彫ってみる」
「えっー!? ずるいっ! わたし、まだ悩んでいるところなのに!」
「ユウも彫ってみようよ。ダフネさんが言った、しかるべき時がいつなのかはわからないけれど、選出課題前に肩の力抜いて、友達の像を造ってもいいかなって」
歌わなくてもいい、三人で軽くおしゃべりしながらでも。そう思った。
わかっている。ユウは亡き母親であるソレイユから継いだ歌を意識的にはコントロールできていないのだから、歌わなくてもいいとは真っ向から言えないって。だから心でそう思うだけ。
「……リラがそう言うなら」
「ユウさん? それはいけないわ。貴女自身に彫りたい気持ちがないと、私はモデルにならない。私とリラさんの二人きりで制作を進めていくわ」
「ええっ!?」
ダフネから禁じられていることを破る。それに関して、私が言ったから……という流れであるのはエルダだって承知している。
変にからかわなくてもいいのに、と私はエルダに目配せするが、彼女はあたかも小さな子供みたいにぷいっと顔を逸らす。
なんだ、どうした。
「わたしも彫りたい。ほんとだよ? あのね、昨日だってエルダが水浴びしているのをね、近くで見て、すごく綺麗って感じたよ」
「そ、それを言うなら、水滴が芸術的に伝う貴女の身体、贅肉がほとんどなくて、見るからにすべすべとしたそっちのほうが綺麗だったわ! そうよね、リラさん」
言われて私は記憶から二人の濡れた裸体を思い返してみる。
華奢な黒。豊満な金。
だんだんと心がむずむずとする。
結論として、どちらがより上質な美なのかは決められない。それはたくさんの花や空を駆ける鳥たちの中で一番を選ぶのとは違う。それよりは簡単で難しい。どちらともに当てはまる理由は、相手が自分と同じ人間だからだ。
「私にはまだ親しい誰かを彫るのはまだ早いのかもしれない」
そんな私の呟きにユウもエルダも興ざめたような顔をした。二人のどちらともが望んでいない答えで、発言で、論理の飛躍だった。
「えっと、けれどもというか、だからというか……私にもユウにも挑戦ってことだね。エルダさん、改めてお願い。モデルになって」
「はぁ……。いいわ、引き受ける。造るからには期間が短くとも手抜きは許さないわ。いいわね、二人とも」
「ありがとう、エルダさん。ところでエルダさんはモデルに当てはあるの?」
「平凡な発想だけど、スクルトラ史に比類なき美人として登場する王妃や姫君の誰かを、資料の絵を参考に彫ることにするわ」
王都ではあちこちに英雄像、美女像というのがあると聞く。屋外にあるのは専ら石像であるから男性彫刻家の仕事なわけだが、政治的に重要な施設内に飾られている、女性木彫り師が造った木像も少なくないようだ。
こうしたことを踏まえると、王都に構えるナパボルト工房所属のエルダらしい題材選びだった。
かくして私とユウは「高貴なる人物」としてエルダの全身像を彫ることにした。
彼女は幼い頃に肖像画のモデルになったことや、工房にいた頃にモデルの経験があったが、私たちの視線には最初、かなり気恥ずかしそうにしていた。
その頰の火照り具合や、青い瞳から離れない羞恥はひとまず放っておき、彼女の身体を何方向からか観察して数枚の下絵にしていった。最低限の下絵しか描かなかったユウはというと、木に触れ、エルダに触れを繰り返しながら作業を進めていった。そのうち歌が口から漏れ出た。
カシラギから過去を聞いてなお、ユウの口から歌は出てきたのだ。歌い始めると、もうエルダに触れることはなくなった。「でも、歌で触れられているようだったわ」とエルダは真顔でそんなことを私に言ってきた。
――――私は深刻に考えていなかった。
ポーズは違っても私とユウとでまったく同じ題材、生きている人間、共通の友人をモデルに彫ること。それがどんな結果を招くのか。ユウがどんな木像を造るのかを……。
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