第39話 夏のひととき
うららかな陽気と、真逆の嵐の両方をもたらした春が瞬く間に去り、夏を迎えた。
私とユウには神彫院で過ごす初めての夏だ。しかしエルダが前もってあれこれと話してくれた、例年の行事や課題傾向はあてにならなくなった。
なぜなら、神樹の彫り人候補生にとって木彫り修行の総仕上げにして、最後の試練たる選出課題の開始が半年前倒しとなるのが通達されたからである。
いよいよ神彫院の閉鎖が公的に決定された矢先の知らせだった。
そして当然、二つの出来事には関係がある。ようするに、次々代の女神像は遠い未来に造られるのだから次代の女神像はこれまでで最上級の仕上がりであるべきだと神彫院は考えた。
それを実現するために、選出課題を通年より早く実施し、女神像の制作にかける時間を長くする見込みなのだという。
「これはまだ噂程度のことだけど」
エルダは初夏にうってつけらしいハーブティーを三人分淹れながら、そう前置きする。
「神樹の彫り人の数も実質的に増える可能性があるそうよ」
「最後に選ばれるのが一人なのは変わらないが、選出課題を突破して女神像の制作に移るのは複数人かもしれない。――この認識で合っている?」
「理解が早くて助かるわ」
「ねぇ、それってうまくいけば三人で選出課題を突破できるってことだよね」
三人。
ユウが口にしたそれがユウ自身に私とエルダを加えた人数なのは疑いようがなかった。
「そうね。可能性は否定しないわ」
私たちへとティーカップを配したエルダがそう言い、私を一瞥してきた。
「けれど三人で彫り上げることはない」
「それはそうね」
「前例はないの?」
その場しのぎめいた私の意見はユウの関心を引いてそんなことを言わせた。そして私たちの視線はエルダに注がれる。この中で知っているとしたら彼女だから。
「気になるなら、資料室に行って調べてみなさいな」
素っ気ない口調。
でも、その表情はユウがどう出るのかを楽しんでいるふうだ。エルダがそういう振る舞いをするのはこれが初めてではない。
「えー? わたしが文字を全然読めないの知っているくせに」
「一人で行きなさいとは言っていないわ。貴女の隣に座っている方が、そこらの町の子や勉強嫌いのご令嬢よりもよっぽど、文字の読み書きが得意なのは今更よね」
「でもリラは調べたいって顔していないよ」
「……そう? 私にはいつもどおりに見えるわ。それに、調べたくないって顔でないのなら頼んでみれば?」
私はわざとらしく自分の顔を軽くぺたぺたと触れてみた。ユウといっしょに資料室に行くかは、どちらでもいいというのが本音だ。
「うーん……わたしなりにね、一人でできることを増やしていこうっていう気持ちがあるんだ。二人にべったり甘えてばかりじゃいけないって」
「まぁ……」
エルダのその声はどうも芝居ではなかった。それは素直な感心を示していた。
私にしてみれば、同じ内容を先日に聞いていたので驚きはない。カシラギから、生みの親と育ての親の過去を知ったことはユウの心に変化を与えた。ありふれた昔話でないのだから、そうならないほうが異常だ。
「たとえば、選出課題の息抜きに私とリラさんとで、貴女に文字の読み書きを教えることはできるわ。そうよね?」
エルダが明るい声を私へと投げる。私は今や気が置けない間柄である彼女だからこそ、思ったことをそのまま投げ返す。
「そういった勉強を息抜きにすることはたぶんできない。本を読むのは好きだよ。それだったら息抜きになる。でも、読み方そのものを誰かに教えるなんてのは難題だ」
「そう。息抜きと言っても私は、木彫りから意識を切り替えるのに適当な作業として提案したまで。ただ、そうね……貴女はそうしたい時って一人になるものね」
悪い意味で木彫りのことでいっぱいになった頭をすっきりさせたい時、私はエルダが言ったように一人の時間を作る傾向にあるそれは事実だ。
……エルダの目つきにはどことなく私への非難があり、居心地がよくない。
「ええと、一人になるだけではないよ。こうしてエルダさんの淹れてくれたお茶を飲むのも、えっと、とても気分がよくなる」
「リラ、そういうぎこちない返事、エルダは嬉しくないと思う」
「えっ? あ、いや、けれども、お茶会が私にとって癒しの場になっているのは嘘じゃない。信じて」
気づけばそんなことを言っていた。こんな話の流れになるとは想定外だ。
エルダがくすりと笑う。笑ってくれた。
「信じているわ、当たり前よ。ところでユウさん本人はどう。文字の読み書きを習いたい気持ちはある?」
「うん。ダフネと手紙のやり取りができたら、もっと手軽にいろんなことが解決できたのかなって」
新年祭ぶりのダフネとの再会。
それは現時点では、前にユウが話したとおり、夏の催事の時期になりそうだ。つまりは二ヶ月後で、さらに換言すれば選出課題が開始する直前だった。
その再会は特別なものとなる。
ユウはこれまで聞くのを、知るのを許されていなかったすべてをダフネに話させる気でいる。私も同行するよう頼まれていた。「あの時のエルダみたいに、ダフネに腕を掴まれても、わたしが守るから。リラのこと、傷つけさせないから」といつになく真面目な顔で宣言されたのが記憶に新しい。
「それじゃ、選出課題が始まる前に勉強方法を身につけてもらうことにしようかしら。そうすれば、あとは時間を作って覚えていくだけだから」
「ありがとう、エルダ。うまくできなかったらごめんね」
「……そのときは力になるよ」
「リラさん? そうなるまでは協力してくれないの?」
「す、するよ」
私がそう言うと、二人が笑う。つられて私も笑うともっと笑った。
嵐の前の静けさ。
そう表現するのがいいのか、その初夏から盛夏にかけての日々は、課題に追われていてなお、穏やかだった。
ユウと二人でカシラギのもとを訪れた日を最後に、私はもう彼女の部屋に行かないことも一度考えたが、彼女からの木彫りに関する助言は役立っていたので、訪問はやめなかった。
期待どおりにカシラギは私にそれまで同様に助言をくれた。一方で過去についてはダフネやソレイユが登場しない日々の話となった。主に神彫院の講師になってからの話だ。印象深い候補生や職員、ちょっとした事件や怪談話。
まるで友達同士のようにカシラギは私にそれらを語りきかせてくれた。
しかし、その口調が乱れることはほとんどなくなり、俯きなどせず、そして時折、話の途中で彼女自身が退屈してしまって、私を退室させた。
相変わらずカシラギは美しい女性であったが、その顔から疲れはとれていなかった。
それは私が見ようとしなかっただけで、出会った時から彼女に属していたものかもしれない。そう思うとやるせない。
「わたし、双子って会ったことない」
夏のある日、資料室にて例の資料を探し当てて、その内容を教えてあげるとユウはそう言った。そこには、神樹の女神像を複数人で彫った事例が記されていたのだ。双子の少女が彫り人に選ばれたと。
詳細は記載されていない。エルダ曰く、眉唾物の記録。資料のつくりが全体的に雑であったから、下手をすれば過去の候補生が面白半分で捏造した記録のおそれもあるとまでエルダは評した。
「双子ってね、スクルトラの一部地域では忌み嫌われているそうよ。かと思えば、王族にもいたという公的記録が普通にある。私は領内で見かけた覚えがあるわ。貴女は?」
「私もないよ。村にはいなかったし、旅しているときにも会わなかったんだ。……ユウ? どうしたの」
彼女は小さな唸り声を断続的にあげて思い悩んでいた。
「どんな感じなんだろう。自分とそっくりの人間がいるのって。自分自身を見失ったりしないのかな」
「まさか。そんなことないわよ、きっと」
「逆に自分を見出すきっかけになるんじゃないかな。外面が同じでも、内面に差異はあって、それが行いに反映されるとしたら。双子とのそういうズレによって自分の存在がより強調される。どうかな?」
「ねぇ、エルダ。文字をたくさん覚えたら、リラの言っていることがよくわかるの?」
「さあ」
このなんてことないやりとりが、あの出来事のきっかけだった。
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