第38話 罪と……

 ――――広い世界を見たいから。

 誰も自分を知らない場所で新しい人生を歩みたいから。スクルトラでは諦めていたいろんなことが叶えられるかもしれないから。でも……うまくいかないってわかっていた。


 かつてソレイユは密航を試みた理由について、そして本心をカシラギとダフネにそう語ったという。


 島への漂着というのは、十四歳の身寄りのいない少女がたった一人で外国への密入国を企んだ時に、迎えるであろう結末の中では比較的、平和と言えるはずだ。


 彼女は島で木彫り師として生き残り、そして神彫院の門を叩くこととなった。

 そこで二人の友を得たがそのうちの一人、貴族令嬢は忘れ得ぬ過去であった家族の死を突き止める協力をしてくれ、貴族に対する憎悪を取り払った。

 それだけで終わらず、神彫院を出てからは公爵家お抱えの木彫り師という並々ならぬ職に就いた。彼方の島民たちでは訪問すら許されないような屋敷の片隅で過ごした日々はどんなものだっただろう。


 公爵家の子息と子を成した時、屋敷を離れなければならないと悟った時、森で病に冒され、子が大人に成長するのを見届けてやれないと理解した時、その時々でどんな思いが彼女に生まれたのだろう。それを木彫りとして残しはしなかったのか?


 こういったこと、カシラギから話を聞いて私の頭に渦巻き続けていた事柄、その全部が弾け飛んだ。


 狼。

 一匹の、美しい、狼。

 その存在のせいで。


 なぜここでそれが出てくる? 私の木彫りの原点であるその動物がどうして……。


「その狼というのは比喩ではなくて、そのままの意味ですか」


 震えた声で私はカシラギに訊ねた。

 ちらりと横目で見たユウの顔にはわざわざ確かめなくてもと書いてある。


「そうだ。美しいというのは主観的表現であるがな。あの時のあの狼を修飾する形容詞において、最も単純で最も的確だと私はみなしている」

「ねぇ、それでどうなったの?」


 堪らずにユウが訊く。

 島の人たちに追われ、幼いユウを抱いて崖まで逃げたソレイユ。そしてどうやら彼女たちを追いかけたダフネとカシラギ。そこに現れた狼。


 何が起こる、いや、起こったか。


 俯いていたカシラギが顔をあげる。


「ありのまま話す。いいな? ユウ、それでいいんだな?」

「早く。お願い」


 二人の間で交わされる短い受け答えにはそれまで以上の緊迫感が滾った。


「ソレイユは……幼子をその狼へと捧げるような素振りをした。追っ手である島民は二人組だったが、一人が叫び声をあげながら母娘、そして狼のもとへと駆け出した。そしてもう一人……ダフネもまた、硬直してしまった私にかまわず動いた」


 もちろん、捧げるような素振りというのもカシラギの主観だ。


 私は反射的にその主観が誤解だと否定したくなった。私は、追い詰められた母親が三歳の娘を狼に差し出す光景を納得のいく形で想像できる人間ではないからだ。


「今なお私は夢に見る。現実と同じく、傍観者の立場で。私は事の一部始終を少し離れた場所から見ているのだ。ただ、見ているだけだった」

「……教えて。お母さんの最期を」

「ソレイユは向かってきた島民に襲いかかって、最終的には崖の下へと二人で姿を消した。落下のその瞬間、ソレイユの表情は安らかだった。嘘ではない。記憶の美化だとは思いたくない。そのうえで、あの時の安らかな表情は場違いで、とても娘を狼に捧げた人間がしていいものではなかった」


 希望ではなく絶望ゆえの安穏。

 母娘で未来を生きられないなら、二人揃って死んでしまおう。それがソレイユの選択だったとカシラギは考えているのだ。正解、不正解は誰もわからない。生きている誰も。


「ダフネがわたしをかばってくれたんだね」

「ああ。狼が喰らいつき、奪い去ったのが彼女の右手だけでよかったと言うつもりはない。私はあの狼が最初からダフネの利き手、木彫り師の命を喰らう気でいたと信じている。それがあの混沌とした場を鎮める対価だったと」

「もう一人は? 島から来たっていう」

「――私が殺した」


 そう言い放ったカシラギの顔つきは狂人のそれではなかった。良心の呵責に苦しめられてなどいない、毅然とした物言いだった。


「狼が駆け去った直後のことだ。私と同じく無傷で傍観者であった奴はまず私の顔を見た。傍観者同士の視線が交差し、それから……奴はその場から去らずにダフネに近寄った。激痛で身をよじらせ、傷口を抑えても地面を赤く染めている彼女に。奴の顔にはダフネに害をなそうとする気配があった。信じてくれなくてもいい……だが、それがはっきりと、確かな敵意が感じ取れたんだ。だから私は」


 そこまで口早に言ってから、にわかにカシラギは吐き気を催したようだったが、吐瀉物や胃液をぶちまけはしなかった。


「殺したんだ。手頃な石を拾い上げて近づいた。片手には収まらない大きさ。頭を何度も殴打することができれば、人を殺害するのに充分な石。私たちが彫らない、街の男たちが彫り上げる石。ああ、いや、そんな綺麗な石じゃない。わかっている。ただ、そう思いたくてな。あの石は、そういう石だったと」


 それからカシラギはダフネの止血を手伝った。ダフネはカシラギの行為にその時は何も言わなかった。後日、生き残った彼女たち二人が三人分の死体を埋めるべく戻ってきた際に初めて、ダフネは「後悔している?」と漠然と訊ねたそうだ。

 カシラギは否定した。後悔はしていないと。ダフネを暴漢の手から救った。そう信じることでカシラギ自身もある程度は救われたのだろう。


「言うのを忘れていたが……あの事件は夕暮れ時に起きたことだ。私は意識を失いそうになっているカシラギに肩を貸しつつ、泣き続けるあなたをどうにか連れて下山した。その崖から私たちが暮らしていた小屋までそう距離はなかったが、二人を連れて帰るのには苦労した」

「わたしを置き去りにしようとは思わなかったの?」

「それができる人間だったら、最初から武器を携帯して、奴らにソレイユを追わせなかった。病床にいた彼女とやってきた島民との話し合いがこじれて、彼女があなたを抱えて必死で逃げ出した時になって私はようやく事の重大さに気づいたのだ」


 カシラギの返事にユウは何も言わなかった。


「夕焼け色に染まる木々の間を抜け、道なき道を重い足取りで進んだ。ダフネのことがあったから、あなたにはなるべく歩いてもらわないといけなかった。ユウ、あなたは泣き続けたが立ち止まらず、蹲りもしなかった」

「置いていかれるのが怖かったんだね」


 三歳児であった彼女がカシラギたちの後を追って森を歩く。母親を失ったばかりの娘が夜から逃げるように進んでいく。そんな体験をしたら嫌でも記憶に刻まれそうなのに、ユウは覚えていないという。

 忘却というよりも封印と捉えるのが適切かもしれない。


 話し疲れたのがカシラギの顔に出ていた。罪ある過去の告白をもって、清々しさを手にした様子は微塵もなかった。言わずもがな私たちは裁きを下す人間ではない。


「ダフネはどうしてわたしを育てることにしたの?」


 カシラギの話を聞き終わって、ユウは記憶にない母親のことを掘り下げて聞くのではなく、育て親について聞くのを選んだ。そればかりか、ユウはさらにこう続ける。


「どうしてあなたはいてくれなかったの?」

「すまない」


 虚ろな謝罪。

 カシラギはひどく疲れている。


「ダフネが拒んだの?」

「それは……少し、違う。彼女と私とで、実母を喪ったあなたの未来に意見の相違があったんだ。私はあなたを孤児院に預けるのを提案したんだ。それは一度だけソレイユにも話したことだった」


 カシラギは神樹の彫り人の役目を終えて各地を転々としている間に、いくつかの孤児院を訪問していた。貴族の誘いから逃げる口実の一つとして、慈善活動を掲げて行動に移していたらしい。

 神樹の彫り人ともなれば、木彫り一筋の人間でもそれなりに孤児院側から歓迎されたようだ。こうした経験があってなされた提案だった。


「でもダフネは断ったんだね」

「ああ。彼女はあなたを木彫り師に育てたがった。それが運命なのだと頑なに主張したんだ。でも、ソレイユは歌をあなたに伝えはしても、木彫り師にしたがっているふうではなかった。それはダフネもわかっていたはずなのに」

「もういい」


 ユウが立ち上がった。あのカシラギの顔に驚きがありありと貼り付いている。


「あとはダフネから聞く。そうする。それがいいって思うから」


 ユウはこちらを見て「だよね?」と言う。私は突然の話の打ち切りに困惑したままだ。ただ、今日はもうカシラギに話させるのは酷だとは感じていたところだった。


「すまない」


 カシラギがまた俯いて吐き出したその呟きは私の、そしてユウの耳にも届いたはずだが、私たちは何も応えることはなかった。

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