第37話 島

 カシラギの表情には疲れがあった。

 例の噂のせいなのか、神彫院に戻ってきてからゆっくりする時間が得られていない様子である。けれど私とユウが彼女を訪ねたのは神彫院の閉鎖云々について真偽を確かめたいからでなく、あくまで過去を知るためだ。


「リラ……あなたにもまだ、ソレイユがユウに遺した歌について詳しくは話していなかったな。そのことでこの一ヶ月間、混乱させていないといいのだが」


 カシラギが隣り合わせで座った私たちの顔を見やって言う。

 

 たしかにあの日、「遥か古の、女神を讃える歌」とカシラギは口にしたが説明はしなかった。今更ながら私は、ベルナルディ嬢のおかげで知っている情報、すなわちあれらの歌というのが王家がかつて主催し、多種多様な芸術家たちが行なっていた祭祀と関連しているのを伝え、それで間違いないかとうかがった。


「そのとおりだ。しかしその歌を何ゆえ、ソレイユが歌えたかまでは知らないはずだ」

「わたしと同じように小さい頃に聞かされて育ったとか?」


 幼いソレイユを遺して亡くなった家族の誰かが、祭祀を語り継いできた人間、もしくは芸術の技そのものの継承者であった線もなくはない。だが、カシラギは首を小さく横に振った。


「そうではない。彼女曰く、修道院を出てから習ったのだ」

「神彫院へと至るまでの空白の数年間で、ですか」

「ああ。そして、その歌を知る者たちとの出逢いが彼女を卓越した木彫り師に育てたと言っていい」


 それはちょうど私やエルダが、歌い彫り刻むユウのそばで日々を過ごしていくうちに、短期間で作品の洗練度が高まっているのと同じだろうか。無論、こちらには神樹の森という場所の特異性もあるけれど。


「おそらく今あなたたちが想像しているような修行ではない。たとえば……修道院を追い出されてから、最初に寄った町で熟練の木彫り師に偶然出会って、弟子入りしたなんて事実はない」


 仄暗さがカシラギの声色に帯び始める。

 積極的に話したいことではないのがわかる。でも、それはユウにとってかえって興味を引く態度であった。


「お母……、ソレイユはどこでどんなふうに歌を知っている人に会ったの?」

「島だ」

「島? 船に乗ったってこと?」


 カシラギが肯く。

 スクルトラのどこに住んでいようとも、神彫院へと向かうのに海路を使いはしない。

 私が知識として知っている島は、国の西岸の向こうにある、いくつかの大きな島だけだ。うろ覚えだが、その一つは重罪人が収容される監獄島で、その一つは貴族たちの別荘地で、その一つはほとんど未開の地だという。どこまで正しいかはわからない。昔に読んだ本の中の話かもしれない……。


「ソレイユは海向こうの他国へと単身渡るべく、商船に密航したのだ」

「ミッコウ?」

「正しくないやり方で、人から隠れて船に乗るってこと。たしか」


 聞き慣れない言葉であったから自信はない。カシラギの反応からするとおおよそ合っていたみたいだ。


「じゃあ、島ってのは外国の島?」

「いいや。彼女は見つかって海に投げ落とされた。そして運良く辿り着いた島に、あなたが先に話してくれた祭祀を独自に続けている人々が暮らしていたのだ」


 さらりと言ったが、海に投げ落とされるという状況はとんでもない。

 見つかってそのまま拘束されてどうこうではなく、船員はソレイユをすぐさま殺そうとしたわけだ。彼女自身の意思で海に飛び込んだのであれば、そうカシラギたちに言うはずだから。


「その島での日々はいわゆる修行というよりも、試練の連続だったとソレイユは私たちに話してくれた」


 一人前の木彫り師になるのを目的ではなく、生きるために、生き続けるためにその島でソレイユは木彫りという道を与えられたのだという。

 まるで物語の出来事だ、と思ったが口にしなかった。ユウがその島での試練の内容を詮索するも、カシラギの答えは曖昧だった。


「すまない。正直、どこまでが本当だったのか不明なのだ。当時こそ、ソレイユの木彫りの腕が彼女の話が真実である裏付けだと信じていたが、今となっては懐疑的だ」

「それはつまり、もしかすると密航や島の存在自体も怪しいと?」

「いや……実は歌以外にも彼女が特別な島の特別なコミュニティに属していたのを示す根拠がある。彼女を神彫院へと導いたのはその島出身の職員だったんだ」


 現在は在籍していない職員だそうで、しかもソレイユがそこまでの背景をカシラギとダフネに告白したのは北の森で暮らし始めた頃であったから、神彫院内では島について話を聞いていないらしい。


「ええと、その職員の手引きによってソレイユさんはここへと辿り着き、先生たちと出会った。目的はやっぱり、他の候補生への刺激ですか」


 ソレイユが彫り人に選ばれない年齢に達していたのはもう何度も聞いた話だ。


「刺激なんて生温いものではない。職員の狙いは候補生たちを絶望させることだった。ソレイユが力量を見せつけることで候補生たちにその立場を辞退させようとしたのだ」

「でも……」


 そんな人たちがいたとは聞いていない。


「ああ、察しのとおりだ、リラ。目論見は中途半端な結果となった。自信を著しく失う候補生たちは少なからずいても、それで神彫院を去っていくことはなかった。選出課題の選考途中で出て行ったダフネを除いてな」

「みんな、そこまで木彫りに真剣じゃなかったんだ」


 ユウが遠慮がちに呟いた。

 目の前にいるカシラギ含め、当時の候補生たちを責める意図はないのだろう。

 それに今の発言は、彼女の母であるソレイユの作品の出来については中途半端でなかったと考えていることも示していた。


 昔々、彫り人に選ばれなかった乙女たちが死へと自ら進むのが珍しくなかった時代、彼女たちの絶望は、選ばれなかったという運命に加えて、自分たちが決して辿り着けない領域にある作品を鑑賞してもたらされたのかもしれない。


「ソレイユさんを使って篩にかける、そうして最高の神樹の彫り人を誕生させようとしたのですか」

「ちがうよ」


 私の問いにユウが応じる。

 カシラギは黙り、ユウに続きを話すのを促す視線をよこした。


「きっと逆だよ。誰にも彫り人になってほしくなかった。女神像を彫ってほしくなかったのかなって、そう思うよ」

「どうして?」

「それは……なんとなく」


 自然と私たちの意識はカシラギへと向かう。答えを求める。


「さっき、ソレイユがいた島ではかつての祭祀を独自に続けている人々がいたと話した。彼らが祀っていたのは王宮の女神の間にある像ではない」

「どういうことですか」


 一瞬、邪神という語句が頭をよぎる。

 けれど、それは存在しないと前にカシラギは断言した。だとすれば、島の人が祀っているのはまったく別の像? それとも……。


「燃やしてなかったんだ?」


 ユウがぽんっと弾き出した台詞はカシラギの面持ちの驚きを生じさせた。


「この話をソレイユが私たち二人にしたとき、ダフネもそう言った。島にいる人たちが祀っているのは、代替わり直後に焼却されていなければならない、古い女神像ではないかと。ソレイユは笑って『ご明察』と答えた」


 どんな方法でその女神像を王家から奪い取り、島まで運んだのか。

 あるいは女神像は燃やされていないのか。島の人たちが信奉する古い女神像はいつの時代のもので、強く執着するほどに素晴らしい出来なのか。


 ――疑問がいくつも浮かぶ中、カシラギはようやくこの前の話を前へ進めた。


「あの日…………病床に伏していたソレイユのもとに、島から人が来たんだ」

「えっと、それは彼女を呼び戻しに?」

「ああ。彼らは、彼らの女神像の新しい御殿、その装飾類を彫るに相応しい木彫り師を探し求めていた。島の人たちはソレイユこそが適任だと考えた」

「でも、いけないし、彫れないでしょ? 病気だったんだから」


 ユウの言葉にカシラギは沈黙して、宙にその眼差しを漂わせてから「ああ」とまた短く言った。


 悪い予感がした。でもそれを聞きに私たちはここに来たのだとも感じた。


「奴らは代わりを連れて行こうとしたんだ。なかなかに気の長いたちでな、奴らが選んだのはソレイユの血を引いているとは言っても、まだ三歳の女の子だった」

「――――わたしだ」


 私が何も言えなくなったのに対し、ユウは確固たる意志をもってそう言った。


「そうだ、ユウ。あなただ。ソレイユはあなたを手放したがらなかった。文字通り、死に物狂いで森の奥へ奥へと逃げた。私とダフネは追いかけた。穏便な解決を望んでいたのは私だけだっただろうか。いいや、ちがうに決まっている。ダフネだって、あんなふうには…………」


 カシラギが俯く。

 あたかも後ろから堪え難い重圧をかけられたように、彼女のこうべが垂れる。


「神樹の森になくて、北の森にある。ユウ、何かわかるか」


 低く小さな声で訊ねる。ユウは「山?」と怖々と返した。スクルトラ北方に連なる山脈その麓に位置するのが北の森だ。それは私も知っている。


「そう、そして崖だ。ソレイユはあなたを抱きかかえて逃げて、逃げて、そして……一匹の美しい狼に出会った」

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