第4部
第33話 春、迷いと微熱と
瞳の奥の聖域。
それをカシラギから耳にして、一月半が経とうとしている。
神樹の森はすっかり春色に染まっていて、肌に感じる風や香る匂いも冬のそれとは違う。私はそれらに包まれながら、冬に取り残されてしまった心持ちだった。
「不安そうな顔をしないで、リラさん」
丸くてつやつやとした机を挟んで座っているエルダがそう言う。
エルダの部屋で二人きりでのお茶会。窓の外、真昼の景色は春の盛りだ。
ユウはというと、医務室で寝込んでいる。
昨日の朝から微熱があって、それでも日中は本人が気にせずにいつもどおりに過ごしていたのが、夜になってふらふらとしてきて、今朝は鼻水を垂れ流し、咳き込むに至った。
看病はすべて医務室の職員に任せている。症状が落ち着いた頃に見舞いに来るのがいいと言われた。ようするに、風邪をうつされないように今は距離をとっておけということだ。私はユウ相手に売る恩はなく「早くよくなってね」と無責任に言って医務室を離れたのだった。
「何度も言うけど大丈夫よ。ユウさんはただの風邪。二、三日も安静にしていれば元気いっぱいになるわ」
「うん。そうだね」
「……他に何か心配事?」
「そう見えるかな」
「さあ。とうとう第三位にまでなった貴女がそう浮かない顔をしているのを見るのは、同じ候補生としても、友達としても面白くないわね」
先日の課題――「冬の夜の夢」の次に与えられた課題だ――の講評会にて、私の作品はカルメンの横に並んだ。当然、そのさらに一つ横にはユウの作品があった。
ちなみにエルダは七位から九位のあたりに留まっている。これはつまり、神彫院における二つの有力派閥の次点に位置しているということだ。
彼女は自身の成長に関して「貴女たちのおかげね」と大真面目に口にしたが、私もユウも彼女のひたむきな努力を知っており、それを助けた覚えはなかった。
「カシラギ先生がいないのと今の貴女の表情は関係しているの?」
「だとしたら、私ってこの一ヶ月ずっと暗い顔していた?」
質問に質問で返す。
王家との定期的な付き合いでここ一ヶ月ほど、カシラギは神樹の森の外にいる。あと一週間もすれば帰ってくる予定だ。
最後に話したのは彼女がここを出発する直前で、その時に私は彼女たちの真実の一部を聞いたのだった。
「明るい時のほうが珍しいから何とも言えないわ。彫っている時はあんなに情熱的で、こっちまで心が奮い立つことがある。なのに、普段はその炎を上手く隠しているわよね」
「隠しているって言い方は好きじゃない。それは事実と違う」
「そう、悪かったわ。……暗い顔の理由、話してくれる? ユウさんには話した?」
「迷っている、とても迷っているんだ」
私から言う資格はないのだと実は一度、結論づけてみた。しかし、私が知っていて彼女が知らない今の状況に後ろめたさがあり、つまりは私のために打ち明けたい気持ちが渦巻いている。どうも私は生来、秘密を抱えるのに向いていない性格みたいだ。
「前に、ユウさんが言っていたわよね。私の彫る姿が貴女が彫る姿の次に好きだって」
かぶりを振ってみせたが忘れてなどいなかった。ただ、突然の話題転換には驚く。それとも彼女の中では繋がっている?
「――私も好きよ。彫っている時の貴女には、その手の動きや息遣いには、ユウさんの歌とは違う魅力がある」
そう言ったエルダはティーカップの取っ手に指を絡ませ、私から顔を逸らしてカップの縁に唇を優しげにつけると音なく優雅に啜った。返答に困った私が「でも」と逆接から始めると、彼女は緊張感がうかがえる横目をこちらにやる。
「出来上がった作品からは、私がどう彫ったか、ううん、誰がどんなふうに彫ったのかはなかなか伝わってこないものだよ」
たとえばユウの作品を観て、彼女の歌を思い出すことはできる。けれどそれは私が彼女を、その歌声を知っているからだ。
作品が鑑賞者に喚起させるイメージに、作者個人、その制作風景が前面にあるのは作品として成功と言えるだろうか。
私だったら言わない。
その作品がまさに、ある木彫り師の彫り姿を模してでもいない限り、彫り上げたものには鑿の影よりも木に宿った命が色濃くあるべきだ。
「少しは照れなさいよ」
「えっ?」
「なんでもない。わかっているわよ、私たちは楽器を演奏しているわけじゃないって」
「……そういえば、ベルナルディ嬢とは最近どう?」
「どうってなによ」
エルダはカップをソーサーの上に戻すと、その髪を撫で始めるのだった。
彼女とユウとの間にあった事件は、私とエルダが立ち会いを行った場で、いちおうの和解を迎えた。一途に謝るユウを対面で許したベルナルディ嬢の安堵した顔が記憶にある。
それはヴァイオリンを突如壊された側の人間とは思えないものだった。
何はともあれ、彼女との交友が続いているのは私たち三人の中で専らエルダだ。近頃は名前で呼び合っている。一方で、私とユウとは、知人以上友人未満程度の距離感を維持しているベルナルディ嬢だった。
残念ながらユウの歌についてはあまり解明が進んでいない。
いや、いなかった。
ベルナルディ嬢たちの調査では、ユウがなぜ何百年も前の歌を木を彫る際に歌うのかはわからずじまいだったが、今の私はそれについてカシラギから情報を得ているのだ。
しかも予想だにしなかった形で。
これはまだユウやエルダ、ベルナルディ嬢にも共有していない。
一つ言えるのは、ユウはその身に神を降ろしたわけではないということか。……神をどう定義するかによるかもしれないが。
「ツェツィーリアさんとの仲は良好よ。貴女たちほど仲睦まじくはないけど」
「どうして比べる必要が?」
「ないわね。そうやって、しれっと返してくるのは貴女らしい。だから迷っていないで決めなさいな。それをユウさんも望んでいる」
一周して話が戻ってきた。
「あの子は純粋だけど愚鈍ではない。察しているわよ、貴女の迷いを。貴女のことが誰よりも大好きなんだから」
エルダは髪を撫でながらも、私がどんな反応を示すかを待っていた。
私はつい手元のカップを見やる。ああ、いつの間にか空になっていた。喉はあまり潤った気がしない。
そして顔をあげた。目を合わせて話す。それが礼儀だ。
「エルダさん、いつもありがとう。あなたに背中を押されるのはこれが最初でなくて……願わくば最後でもないといいなって」
「ええ、私もそう思うわ。わがままを言わせてもらうと、私にも話せることは話してちょうだい」
「約束する。友達として」
「……ちなみに近い将来、私がナパボルトではなく、パンフィーネ家の屋敷に帰ることになったとして」
唐突な想定。
帰るとしたら、それが許されるならパンフィーネ家こそが帰る場所だと前にもエルダは口にしていたはずだ。
「なったとして?」
「仮に貴女たちを招待したら……来てくれるわよね?」
「喜んで。エルダさんが望むなら何か彫って献上するよ」
「献上だなんてそんな、堅苦しい。でも、それは面白そうね。考えておくわ」
それからしばし私たちは二人でのお茶会を楽しんだ。
空に月のない夜は暗い。
満ちては欠けてを繰り返すあの天体を幼い私は欲しがりはしなかった。今になって欲しがっている。届かないとわかっているのに。
オイルランプが淡く灯り、私とユウ、互いの顔を一部分だけ照らし出していた。医務室には他に誰もいない。職員も、候補生も。忍び込んで入ったのだ。
ベッドで上半身を起こしているユウのそば、丸椅子に腰掛けて私は彼女と密やかな声で話す。朝から晩まで浅い眠りを繰り返した彼女が次に長い眠りに落ちるのが先か、私が睡魔に負けるのが先か。
「ねぇ、リラ。子守唄は知っている?」
「有名なやつなら。誰かをあやし、寝かしつけたことはないけれど」
「そっか。わたしもない」
「ひょっとして歌ってほしいの?」
「ううん、まだ早いよ。あのね……もしかすると子守唄なのかもって」
ユウの呟きは暗がりに落ちていく小さな光の粒みたいだ。私はそれを手で掬う術を持たない。けれど訊ねるべきことがある。
「思い出したの?あなたがまだ赤ん坊だった頃の何か」
「やっぱり」
「……何が」
とぼけても無駄だと理解していた。恐れはない。彼女に話すために来たのだ。
「知っているんだね、リラ。きっと教えてもらったんだね、あの人から。わたしの歌のこと……わたしの、お母さんたちのこと」
私は返事代わりに彼女の手に触れた。
それは一人の木彫り師の手であり、少女の手でもあった。
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