第32話 解なし

 女子修道院を追放された少女、ソレイユ。

 神樹の女神像の代替わりに間に合わないのが明白な年齢なのに、神彫院へ迎え入れられた彼女。修道院を出てからいかにして木彫りの腕を磨いたのだろう?


「勝負に完敗したダフネは貴族という身分が嫌悪されていると知りながらも、ソレイユに近づくことにした」


 そこまで言うとカシラギは黙り込んだ。暖炉に焚べられた薪がぱちぱちと鳴る音だけが耳に入ってくる。今こうしている間にもこの神彫院では何人もの少女たちが木を彫っている。けれど、その音はいくら耳を澄ましても聞こえてはこないし、あの子の歌だってここには届きはしない。


 ヴァイオリンの演奏、聞いてみたかったな。ふとそんなことが頭によぎる。叶うことなら、ベルナルディ嬢を伴奏者としてユウが歌うのを聞きたかった。

 伴奏なしでも歌声に淀みない確かな調べを生むユウの音感はかなり秀でているのだと、前にエルダが言っていた。

 その気があれば木彫り師をしながら歌手にもなれると。「でも、わたしが歌えるの、鑿や槌をもって木を彫っているときだけだよ?」とユウは返していたっけ。


「それから一週間か二週間か、私がダフネを追い、ダフネがソレイユを追う日々だった」


 物思いに耽っていたカシラギが話を再開し、私は耳を傾ける。


「転機はソレイユの風邪によってもたらされた。後で知ることになったがソレイユはそれまで病気とは無縁の健康体質と言っていい人間だった。だというのに、彼女は発熱し、まともに歩いたり自力で食事を摂ったりするのが困難な状態に陥ったのだ」


 当時の神彫院にも医務室は存在し、怪我の手当や看病の心得がある職員が配属されていたそうだ。でも、ソレイユの看病を率先して行ったのはダフネだった。


「恩を売るのだとダフネは私に言った。貴族が平民に施すべき慈善行為ではなく、個人的な借りを作らせるためだと。私は手伝った。どうにも彼女の看病は危なっかしく、思いやりや労りが欠けていたからな」

「回復してからソレイユさんは、ダフネさんたちと仲良くなったんですか」

「そうだな……。貴族の令嬢に振り回されている不憫な少女。私のことをソレイユはまずそうみなした。だが、どうもそうでないとわかってくると、なぜダフネと仲良くしたがるのかと訊ねてきた」

「どう答えたのですか」

「綺麗な笑顔をまた見たくて」


 寸分も恥じらわずに、きっぱりと。

 この前、カシラギはダフネが大鷲を彫ったときの話、そしてその理由を聞くために近づいた日のことを教えてくれた。笑って話すダフネを美しいとも言った。

 それをふまえてなお、ソレイユへの返答を聞いてなんだか小恥ずかしかった。


「リラは笑わないのだな。あの時、ソレイユは私の答えに笑った。『あのお嬢様に惚れているってこと?』と訊かれて、私がわからないと返すと笑い声を益々大きくした」

「今なら答えは違いますか。つまり、ええと、その頃の先生はなぜそうもダフネさんの笑顔に惹かれていたのでしょうか」


 カシラギはその右手の指を口許に当てて、考える素ぶりをした。その眼差しは一旦は床へと沈んだが、やがて私をまっすぐに射抜くものと変わった。


「たとえば」

「えっと……?」

「一人の未熟な木彫り師として、自分の知らない技と心構えを持つダフネと関わることで、己の技量を高め、神樹の彫り人へと近づきたかったから。こういった答えは簡単に言える。それにあなたが予想しているのも似た答えではないか?」


カシラギの表情は読めない。私は「はい」と言って、それから「もしかして」と思いつきを口にしていた。


「ダフネさんの造形、特にその顔立ちは、彫刻のモデルにしたいと先生の心を強くかきたてていたのですか」

「それはどちらとも言えない。ただ、その答えから察するにあなたは物質的に事を考え過ぎている」

「物質的?」


 それが今の会話において何を意味しているかが掴めずとも、肯定的な評価ではないのは察した。


「もっといい言葉があるかもしれないが、どう表現するかはあまり重要ではない。しかしながら、私がダフネへと向けていた想いについてはやはり言葉を選ばねばならないな」

「簡単には言えない答え、ですか」

「ああ」


 だとすれば。それだったら。

 私はカシラギが話してくれるのを待ちつつも、もう一つの答えを頭に浮かべた。そして同時にそれはあり得ないと打ち消す自分もいる。だって、それは……。


「認める。今、認めてしまうことにする。あの頃の私は、ダフネに恋をしていた。あれが恋でも愛でもないのなら、世の中にそんなものはじめから存在しない」


 カシラギは明かした。心の奥底、暗い部分に長らく居着かせていたであろう、それを。


 私は今度も笑わなかった。笑えなかった。

 微笑み一つあれば、部屋の空気はまた変わったはずだ。せめてカシラギの声に、私にどう言って欲しいのか、この告白は彼女なりの懺悔なのかそれともまったく別の何かなのかを伝える色や音があればよかったのに。

 私にはそれまでと同じ声に聞こえた。それは私の倍以上生きている美しい女性の、淡々とした声だった。


「ソレイユはダフネ一人ならただの憎い相手でも、私とダフネの二人には興味があると言い、やがて私たちは友人と呼べる関係となったんだ。思えば、私の心を見透かしていたのか、もしかするとあの時の私以上に理解していたのかもな」


 季節が秋、そして冬に変わる頃には三人はより仲を深めていた。

 ダフネはソレイユに挑み続け、ソレイユは勝利し続けた。それは講評会における順位のみならず、というよりむしろ、そんな会など気にならない勝負となっていった。


 三人が互いの木彫りを、完成したその作品を目にして、時によくよく触れてその手触りを確かめれば、自ずと三人の中で勝者と敗者が決まった。


「勝ち負け。好き嫌い。良し悪し。神彫院での講師という立場を得た今でも、私は芸術というのがいまいちわからない。私たちが最も低く評価した彫刻に、何にも代え難い価値を見出す鑑賞者がいても何らおかしくない。そうだろう?」


 精巧な動植物の彫刻を厭う人がいる。木に吹き込まれ、宿る命を紛い物どころか魔物だと捉える人がいる。女神像が腐り、朽ち果てるまで待たないのを罪悪だと主張する人がいる。

 ――カシラギの話が、三人の過去に再び戻ってくるまで時間がかかった。いつしか彼女は目の前いる私を見ずに呟き続けていた。


「……すまない。心に湧き上がったことをそのまま長々と声に出していたみたいだ。私たち三人はあの頃、こうしたことを、とめどなく話し合ったんだ。木を彫ること。女神とは何か。生きるとは」


 そんな、答えが出なさそうな問いを皆で考え続けるのが、候補生の義務だとさえ思っていたという。

 カシラギはようやっと穏やかな表情をする。終わりのない思索と回顧を抜けた先にあったのが安らぎなのは幸せだ。


「いくつか質問してもいいですか」

「今日はあと一つにしてほしい」

「わ、わかりました」


 誰のために何を問うか。

 ユウ。彼女を想えば、ユウの両親についてカシラギが何かを知っているのか、そしてそれを話してくれるかどうかを訊ねればいい。

 あの新年祭の夜、ダフネがあの家で話していた相手はこの人かもしれないのだ。


 私やカルメンたちと合流したとき、あの時は去っていったカシラギが後になってダフネの居所を知って訪れた。話をするために。その時にユウの両親、とりわけ父親の話になった。

 

 これが見当はずれの推察かどうかを確かめるのが一つの選択だ。ユウのために……。


 けれども、私の心のもやもやは別にある。それはあまりに強く、心をかき乱すので放っておけそうにない。


「先生は……その恋心を抱えたのを悔やんでいますか。それは神樹の彫り人へとなるうえで越えるべき障害にならなかったのですか」


 二つであり一つの質問だ。カシラギは咎めずに考え込み、そして言った。


「あなたにとって女性同士の恋愛は誤りで、道徳に背くような、歪みある感情なんだろうな。そして私にもそういった気持ちが少なからずあるからこそ、言い澱み、今まで打ち明けられずにいたのだと思う」

「――いいえ」


 私の短い、揺るぎない否定にカシラギは口を閉じた。


「そこまで考えが及んでいないんです。信じられないだけ。もしくは恋を知らないだけ。相手が女だろうと男だろうと。恋愛というのがこれまで男女でのみ成立するものだと、そういうふうにしか思っていませんでした。いえ、今だってわからずに、戸惑っています」


 私と同年代だった頃のカシラギが、同じく少女だったダフネを特別に想っていた。それをどう受け止めればいいのか。


「……そうか。そうだな、あなたはまだ、いいえ、それでこそ神彫院の候補生と言うべきか。すまない、早とちりしてしまった」


 カシラギは軽く頭を下げてから、私をどこか懐かしげに見つめた。


「不思議だ」

「えっと……」

「あなたのその瞳はソレイユを思わせる。私は彼女の――――灰色の瞳の奥に聖域を目にしたのだ」

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