第29話 ベルナルディ嬢

 エルダたちと合流する前に作業場に寄って、彫りかけの作品を回収した。

 部屋を出る前に、目立たないところに置き直して布をかけていたが、誰かに触れられた形跡はない。


 私はなんでもないふうを装って、ユウに感想を訊ねた。エルダのように講評会での順位を指標にした言葉は出てこないだろうと思って。


「やっぱりリラが彫る動物はすごいね。最初に見たあの小鳥たちもそうだったけど、生きたままを彫りだそうって気持ちがこの段階でも伝わってくるよ」

「『夢』は感じる?」


 今回の課題は「冬の夜の夢」という、これまた趣向が捉えにくく曖昧な、良く言うなら解釈しがいのあるテーマ設定だった。


 私が彫っているのは兎だ。無論、ただの兎ではない。


「夢……。耳と尻尾がとっても長いところがそうなのかな。それにこの背中の膨らみって、翼でも折りたたませるつもりなの?」

「そこまで見抜いてくれるのに、生きたままをって表現したんだね。あくまでこれは夢の産物だよ。私はその気で彫っている」


 冬そして夜という条件について、後ろ向きな解釈をした。冬は停滞と閉塞の季節、夜は暗闇と隠匿の時間。

 細部を彫り進めていく上でこの作品に、そうした印象を鑑賞者に与える工夫を凝らすつもりだ。ようは死の匂い。生とは逆に位置する。眠りと死のイメージが近しいのは言うまでもない。


「わたしは木に導かれてばかりだから、あんまり深く考えたことないなぁ。――こういうのって言わないほうがいい?」

「似たことはもう何度か聞いたよ。私は気にしない。他の子は……」

「リラがいいならいいの。あ、でもエルダはどうかな」

「エルダさんはユウのこと、わかってくれているはず。もしかすると私よりも」

「頭いいもんね。それに胸おっきいし」


 並び立てた知能の高低と身体的特徴は両方ともにユウなりの褒め言葉なのだろう。


「後からわたしが彫っているやつも、ちゃんと見てほしいな。エルダが時々言う、対等な関係ってそういうことだよね?」

「わかった」

「わたしがリラを好きな分、リラもわたしを好きになってくれないとだよ」

「それは今もまだわからないかも。どうやって量るの? 長さや重さで表せる?」

「うーん……後でエルダに聞いてみる」


 エルダが困らないといいのだけれど。




 作品を保管庫にしまい終わってから、本館と別館とを繋ぐ廊下をユウと歩いていると、後ろからエルダが声をかけてきた。彼女一人で、近くに例のヴァイオリン職人の娘はいない。


「ベルナルディ嬢なら部屋に戻ったわ」


 溜息交じりにエルダはそう言って、私たちを見比べた。二人揃って落ち着いているのがわかって、話を続ける。


「最初は医務室に連れて行く予定だったけれど、あの部屋で小一時間ほど話を聞いてあげたら顔色がましになったのよ。彼女自身がもう平気だと言ったわ。念のため、部屋まで送ってきたところ」

「謝りにいかなきゃ」


 そう呟いたユウは隣にいる私へと上目遣いを向けるが、その瞳は「そうだよね?」と言っている。


「エルダさん、彼女の様子は……」

「今日はやめておきなさい。訪ねるなら明日以降にすべきよ。行く前に私のほうから、会ってくれるか聞くわ」

「ねぇ、怒ってた?」


 ユウの素朴な問いにエルダは顔をしかめさせ、それから首を力なく横に振ってから、溜息を一つついた。堪えきれずに出てしまったような。


「夕食までまだ時間はあるわね。私の部屋に行きましょう。ここで立ち話する内容ではないから。いいわね?」


 そうして私たち二人が返答するより先に踵をかえして歩き始めるエルダ。私たちは顔を見合わせ、そして黙って後をついていった。


「ええと、私はまだユウからあの部屋で何があったかを聞いていないんだ」


 エルダの部屋の扉を後ろ手で閉めながら、私は彼女に訊かれる前にそう話した。ユウを追いかけて走り回り、結局は追いつけなかったのを簡潔に伝える。


「本来なら」


 そう短く前置きしたエルダは私たちより先に自分の椅子に座って足を組む。私たちも座ることにする。


「時間がかかってもユウさん自身から、何があったのか始めから終わりまでを説明してもらうのがいいわ。それを私たちは聞く。審問官ではなく友達としてね」

「そうする気はない?」

「ええ。ベルナルディ嬢から既にある程度聞いているから、それと照らし合わせて質問していくわ。ユウさん、正直にありのままに答えて。いいわね?」


 雰囲気が友達のそれではないが、口を挟む勇気はなかった。ユウは力強く肯いた。


「最初、ユウさんはベルナルディ嬢の演奏に、これといっておかしな反応を示さずに耳を傾けていたのよね」

「うん。わたしね、バイオリンの演奏を聞くの、初めてだった。バイオリン自体は、そういう楽器があるって知っていたけど、思ったより大きいんだね」

「メジャーな弦楽器の中では小ぶりなほうよ。王都の楽団では……っと、いけない。話が逸れかけたわ。ベルナルディ嬢が言うにはそれまで座って聞いていたユウさんが突如、立ち上がった」


 第三楽章の半ば。

 そう言われてもベルナルディ嬢が作った曲なのだから、エルダだってピンときておらず、音楽知識に疎いユウや私はさっぱりだ。


「立ち上がったのは、なんとなく覚えているの。じっとしていられなくなった。ううん、そうじゃなくて……止めなきゃいけない、そう思ったの」

「聞きたくないではなく、演奏を止めないといけないと感じた。合っている?」

「そうだと思う。でもね、わたしはあの子からバイオリン取り上げるつもりはなかったんだよ。近づいて頼もうとした。演奏を続けないでって、そう言わなきゃって」

「ベルナルディ嬢の証言では、近づいてきたユウさんの目は虚ろで、その時点で立ち上がる前と違ったそうよ。でも、彼女はヴァイオリンを鳴らし続けた」

「なぜ?」


 反射的に私が訊ねると、エルダは「超自然的な感覚に陥ったから」と答える。彼女自身が納得いっていないふうに。


「ベルナルディ嬢はこう思ったらしいの。ユウさんに神が降りてきているんだって」

「それはまた、とても……大仰な」

「虚ろな目つきは神に取り憑かれている証であり、その神がどんな預言や行為を授けるかを知りたかったために、彼女はヴァイオリンを弾き続けるのを選んだ。そう話したわ」

「その言い分に対するエルダさんの意見を聞かせて」


 ユウの頭の上に疑問符がぽんぽんと浮き上がっている以上、彼女には聞けまい。


「そうね……まず、ベルナルディ嬢はその音楽関連の才能を高く評価された経験なんて一度もないらしいわ。彼女の言葉を借りれば、人より音感が鋭いぐらいで、楽器職人の才能も音楽家の才能もない」


 ベルナルディ嬢はいわゆる大工房の所属ではなく地方の小さな工房で修行し、周りから期待されて神彫院への試験に送り出された人物だ。話を聞く限り、それはカシラギが語ったソレイユの旅立ちとはまったく別で、当時十七歳のベルナルディ嬢を安全にここまで至らせるのに家族や工房関係者が準備も用意も尽くしたという具合だった。


 残念ながら、先月に十八歳を迎えたベルナルディ嬢の作品はあまり高く評価されていない。


「彼女にとって、神彫院で生活する上でヴァイオリンを弾くのは諸々の不安を和らげるのに役立っていたみたいね」

「そんな彼女がユウの歌をあたかも啓示にして作った曲が、特別だったってこと?」

「いいえ、私の意見は違う。あくまで基にしたユウさんの歌が、その歌詞が特別なのだわ。作曲する上で彼女は調べたそうよ。ここの資料室に籠ったり、ご実家と何度も手紙でやりとりしたりして」

「ねぇ、それって!」


 ユウが大きな声を出す。

 私は思わずその瞳をまじまじと見つめた。虚ろではない。神なんて降りてきていない。……おそらくは。


「わたしが彫りながら、どんなことを歌っているのか。それがわかったの?」


 慎重な物言いだ。秘め事を明かすようにして、ユウは問いかけた。


「……ベルナルディ嬢はユウさんに何も言わなかったのね。きっと先入観を与えずに、反応を見たかったのだわ」


 結果、ヴァイオリンは壊された。まさかそれが期待どおりではないだろう。


「ねぇ、エルダ! どうなの? 早く教えてよ! 歌のこと、何かわかったの!?」

「ユウ、興奮しないで」


 彼女が椅子から立ち上がってしまう前に私は先に席を離れ、彼女を椅子越しに背後から抱きしめた。こうやって触れ合うことが、温度を分け合うことが彼女の心の乱れを鎮めるのに有効だと学んでいた。

 果たしてユウは「わかった……」と黙ってくれた。


「エルダさん、結論を教えてほしい」


 私はユウのうねる黒髪に指先を入れ、目の前で戸惑うエルダに訊く。


「――ベルナルディ嬢はユウの歌、たとえば歌詞の意味やその起源といった具体像を解き明かしたの?」

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