第28話 好意とその先
毒蛇とでも遭遇したのでは。
毒の牙を剥き出しにして飛びかかられる前に、ユウが踏んづけてその蛇を殺そうとしている。そんな錯覚、むしろ幻覚がまずあった。それに対して足元を見やる彼女の顔に浮かんでいる敵意は本物だ。
彼女の足元――ひしゃげて原形を失っているその何かが、楽器だと考えつかなかった。
「あれって……まさかヴァイオリン?」
私と同じく、部屋に入ってすぐ固まったエルダが愕然とした声を漏らす。
そのおかげで私はユウが何度も踏みつけて壊している物の正体が毒蛇でないと察したのだった。後になってエルダから聞いた話だと、ユウから少し離れたところに、無残に折れ曲がった弓が転がっていなければヴァイオリンだとは思わなかったそうだ。
「ユウ? ……どうして、そんなことを」
呼びかけに答えない。
そもそも、私たち二人が部屋に入って来たことにユウは気づいた素ぶりがない。ただ、その右足で一心に楽器の残骸をより細かく砕いて、この世から消し去ろうとしているのだった。室内に響くのは心地いい旋律にはほど遠い、不規則で歪な音だ。
エルダが「あっ!」と小さく叫んで部屋の隅へと駆け寄る。そこに見覚えのある少女が体を丸めて座っていて、両目を瞑り、耳を両手で塞いでいた。明らかに恐れ慄いている様子だ。彼女がヴァイオリンの持ち主にして演奏者。おそらくそうに違いない。他に人影はなかった。
「ユウ! やめて、そんなことしないで」
私はユウへと近づき、その肩に横から触れた。覚悟していた抵抗や反発はなく、動きが止まる。そして徐ろにその顔が私へと向く。
「リラ……? なんでここに?」
「何があったの。いったい、何が」
「わたし――――」
泣く。この子はきっと泣き喚く。
しかし、予感は裏切られる。灰色の瞳は乾いていた。
彼女はヴァイオリンだったものから足をどけ、私の脇を通り過ぎ、出入り口へと進んでいく。自然と私の手は彼女の肩から離れたけれどしばらく私はその手を宙に浮かせたままだった
開けっ放しになっていた扉の向こう側へとユウが一歩踏み出したそのとき、駆け出す予感がした。そして今度は当たった。彼女は全速力で走り出したのだった。
「リラさんっ、追いかけなさい! この子は私に任せて、早く!」
エルダの声で私は、遠ざかっていく彼女が私の知る少女、たとえばつい今朝も同じ寝床で起きた、友達であるのを再認識して一歩を踏み出した。これは現実なんだと自分を鞭打った。
追いかける。でも距離は縮まらない。
幸い、神彫院の敷地内に複雑な構造を持った区画はないから、そう簡単には見失わない。ただ、走る体力に自信はまったくないから、このまま追いかけっこを続けたのなら、先に私が倒れそうだ。
「待って! 止まってよ、ユウ!」
走りながら絞り出す声。彼女は振り向きすらしない。
本館に入ると、他の候補生たちや職員が何事なのかと怪訝そうな目つきをしている。
一瞬で通り過ぎる面々に構っている余裕はない。その子を捕まえて、と叫んだなら誰か協力してくれるだろうか? そう思った矢先にユウは人気のない区画へと入り込む。
彼女の名前を叫び続ける。足がもつれるのが先か舌がもつれるのが先か。
長い廊下に出た。
心臓が悲鳴を上げている。いよいよ彼女との距離がどんどん離れていく。
私は賭けに出ることにした。
思い切って「きゃぁ!」とそれまで以上の大きさの叫び声を上げて、勢いよく床に転がる。かなり痛い。転倒時の受け身は教会で習わなかった。教義にもないはずだ。往々にして、いかに転ばない人生を過ごすかを教わるものなのだ。
心音がけたたましい。最後にこんなに走ったのはいつだったか。
記憶にない。
兄には、村にいる頃にも友達が何人かいてよく遊びに出かけていたが、私を彼らの仲間には加えなかった。泥だらけで家に帰ってきたときに母は兄を叱り、それを聞いた父は半笑いでたしなめていた。リラを見習って静かに本でも読みなさい、なんてことを母が口にするのを何度か聞いた。
ユウに止まってもらうために、転んで気絶でもした振りをするつもりが、本当に意識が朦朧としている。思い出に浸ってしまう程度に。すぐには起き上がれそうになかった。
「リラ、大丈夫?」
息がまだ充分に整っていない段階で、声が降ってきた。最初はうつ伏せ、それから横になっていた私はごろんと仰向けになって、彼女を見上げた。
不安げな表情。これなら見たことある顔。彼女がしゃがむと、その顔がぐっと近づく。
「ねぇ、一人で起きられないの?」
私は小さく首を縦に数度振る。やっと息の乱れがなくなってきた。
「ごめんね、わたしのせいで。……起こしてあげるね」
「ありがとう」
掠れた声が出た。私は彼女の手を借りてひとまず上半身を起こした。
「ユウは全然まだまだ走れそう。よく走っていたの?」
「そんなことないよ。一時期、近くの森を駆け回って、木彫りの題材を探していたことはあったかな。けど、そんな走っていない」
「近くの森……。それはあなたが、ダフネに拾われたっていう、森?」
「さあ。ダフネ、嘘ついてるかも」
ぽつりと呟かれたのは無垢な彼女には似合わない猜疑心。
「会って確かめるべきだと思う。新年祭の日以外で、ダフネさんと会う予定はないの?」
さっきあの部屋で何が起こったか聞きたい。その気持ちを一旦抑えて、私は彼女に訊く。一つずつ、聞いていこう。
「なんだったかな。夏にある催し物のついでに来るかもって話していた」
「それじゃ遅すぎる。居所は知っている? 手紙なら私が代筆するから」
「二人で暮らしていた家の住所だったら、書き留めたのが鞄の中にあるよ。でもね、ダフネは前々から、わたしを神彫院に送り出したら、ひとり旅を楽しむって言っていたの」
現に神樹の里で別れて新年祭の日に会うまでの期間、ダフネは家に帰っていないそうだ。
「リラ、あのね……」
「うん」
「わたしのこと、嫌いになった?」
涙目だった。潤んだ瞳が綺麗だ。
「もしもヴァイオリンを踏み壊した理由が、あの子を傷つけて悲しませたいってものだったとしたら……」
「ちがうよ!」
即座に否定してくれてほっとする。
この分なら、あの子が何かユウに悪口を言って、それに立腹したユウが起こした破壊行為でもなさそうだ。わかっていた、そんな普通の光景ではないって。あれは異様だった。
「うん、信じているよ」
「リラって時々、すっごく意地悪」
「……私のこと、嫌いになった?」
「なっていない!」
ふくれっ面をしたユウの頭を私は撫でる。期待以上に大人しくなる彼女に私は言う。
「ええと、どう言えばいいんだろう。私は――全部、教えてほしいんだ」
「ぜんぶ?」
「そう。ゆっくりでいいから。今日あったこと。今日まで考えたこと。ユウの悩み事や好き嫌い、そういうの全部」
薄っすらと赤みを帯びた頰、その片側をユウは私の左頰へと擦り寄せた。そして耳元で囁く。今朝の囁きとは違う、熱のこもった声。
「知りたいの?」
「うん、知りたい」
迷わずに出てきた返事に私自身が驚いていた。私の返事を受けて頬擦りをするこの少女の心を解き明かした先に、木彫りの真髄や神樹の彫り人の本質を望むのは筋違いだろう。
けれど、彼女と道を重ねて進んでいけば、必ず特別な樹ひいては森と出逢うと確信があった。
「わかった、話してみる」
「ここではなんだから部屋に戻ろう。エルダさんたちも気がかりだ」
「もう少しだけこうしてていい?」
「うん、いいよ」
ユウの隣に立ち、心を通わせ、木彫りをする。そうしていけばいつしか、どんな深き森を棲家とする、どんな狼をもこの手で造れるようになるのではないか。
「ねぇ……今、何を考えているの? わたしに教えて」
「もちろん、ユウのことだよ」
「ほんと? 嬉しいな」
それから、ユウが大きなくしゃみを一つするまで、私たちは抱き合ってとりとめのない話を続けたのだった。
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