第19話 残響、姉心、願い

 資料に記されていた九頭の聖獣の言い伝えは、いたってシンプルだ。

 海と陸、そして空の三つにそれぞれ三頭の聖獣、それで世界全てを護り、治めている。


 王家の所有する一体の女神像が、一国の安寧を維持する役目を担っているのだと幼子に信じ込ませるよりも、まだ説得力があるのではないか。


「リラさん、私の話を聞いてくれる?」


 にわかにエルダが深刻な声でそう言ったのは、三人で新年祭課題の制作を始めて四日目、その昼食後のことだった。


 今は休憩中で、昼寝をしに部屋へと帰ったユウが起きて戻ってくるのを作業場で待っている。つまり、私とエルダの二人きりだ。

 ちなみにユウは「リラもいこ?」と人を枕代わりに誘ってきたが、あいにく一睡もできそうにないので断った。


 実際に木を彫り始めてからは二日目だが滞りはない。

 下絵の準備、それは予定どおりエルダを中心にした作業だったが、二日間かけて九体分が揃ったのは僥倖だった。

 思いのほか、ユウが私やエルダの意見に同調してくれて、聖獣の造形に無謀な斬新さや余計な奇抜さを加えず、一体目、二体目、三体目と話がどんどんまとまったのである。


「もしも、三体目からは一旦、下絵を白紙に戻したいって言うなら、私は反対」


 私はエルダにそう返す。

 

 陸の聖獣から取り掛かって、今は二体目の途中まで彫り上がっている。

 順調に行けば今日中に二体目が完成し、私が三体目の荒削りを終える段階まで進む。そしてエルダが四体目以降の数体分の木取りを完了させるのだって望めるのだ。


「違うわ、全然違う。そういう話でないの」


 渋い顔をしたエルダに私は「ごめん」とすぐに謝った。


「早とちりだった」

「このまま彫り進めるのは不安かしら? 私が描いた下絵は……」

「ううん、そうじゃないんだ」


 私はさっきからずっと握っていた一本の仕上げ鑿を指で軽く弄ぶ。

 細部の仕上げは専らユウの担当なので、持ってきたはいいが使っていない代物。

 でも、触っていると落ち着く。むしろ今はこういった私だけの道具に触れていないと落ち着かない。


「私で描いた下絵に不満なんてない。ユウだってそう。えっと、エルダさんの声が重々しかったから、ひょっとしてと思っただけ」


 拙い弁解にエルダは「杞憂よ」と小さく溜息をつく。


「ユウさんの歌に、思うところがあるのよ」

「……教えて」

「ちょうど彫っているのが聖獣だからかもしれないけれどね、傍で聞いているとあの歌がまるで――」

「聖歌みたいに聞こえた?」


 エルダがはっとする

 そろそろ見慣れてきた彼女の驚く表情には不思議な魅力がある。もっと驚かせてやりたいと考えてしまうような。本人に言ったら、怒るよりも恥じ入って機嫌をひどく損ねそうだから言わない。


「リラさん、貴女も?」

「どうかな。ただ、神樹の里の長もそう喩えていたんだ、聖歌だって」


 木彫り職人に限らず職人たちが持つ、技の質を高める儀式的行為、その一つの終着点。たしかそんなふうに話していたはずだ。言うなれば神業の証明。


「そう……あの里長さんが、そんなふうに」


 エルダもまた入学試験時にはあの屋敷にお世話になっていた。なんでも、彼女の祖父と里長はどことなく雰囲気が似ているのだとか。それで彼女も緊張が和らいだという。


「前に聞いた話では、リラさんは村の教会で聖歌を聞いたことがあるのよね」

「記憶に強く残るほどではないよ。エルダさんは?」

「讃美歌を毎週聞いていた頃があったわ。領地に名の知れた大聖堂があるの。国内でも屈指の聖歌隊がいて、お母様のお気に入りだった。私ね、ナパボルトに入る前は、そこの聖歌隊長から音楽の授業を受けていたのよ。その流れでピアノ、それにヴァイオリンが少し弾けるわ。ああ、でもヴァイオリンはもうまともに音を出せないかもしれない」


 流暢な話ぶりだった。

 その眼差しは遠い日々に向けられ、それを愛しげに想っているのが柔らかな微笑みでわかった。彼女がこんなふうに昔話をするのは新鮮だ。黙ってその姿を眺めていると、エルダは急に気まずそうにした。


「ごめんなさい。気に障った? 身分をひけらかすようなことを言って」

「ううん、全然。それよりもエルダさんは、ユウの歌で故郷を思い出しもしたんだね」

「ええ、そうなるわね。貴女なら気づいたと思うけれど、聞き惚れてしまって手を何度か止めたわ。申し訳なかったわね。貴女は一心不乱に彫っていたのに」

「まさか」


 そう言って笑おうとしたが笑えなかった。

 エルダは皮肉で言っているのではないだろう。けれども、私は自分の作業に、自分に課せられた役割を全うするべく、他の何事にも心をかき乱さずに鑿を動かせていたかと言えば……。


「リラさん? またそうやって気負いすぎた顔しないで。お願いだから」

「え? あ、はい」


 エルダの真剣な面持ちに気圧される。


「ほら、貴女も口に出しなさいよ。ユウさんの歌をその耳に入れながら彫り進めていて、その心に浮かんでいたもの。感じたこと。私ばかり不公平よ」

「そう言われても。言葉にできなくてもどかしいよ、いろいろ」


 鑿をぐっと握り込む。

 こうした道具を自分の手に馴染ませて一体感を得るのが、つまり指先を鑿の刃にする境地こそが一つの極みだろう。でも、振り返ってみればミカエラは私にそう教えてくれただろうか。


 ミカエラはどうやって木に命を宿していたっけ?


 そこに思い至ると、手の力が抜けた。

 もちろん、鑿を落としはしない。なんだか前にもこんな感覚あった気がする。


 そして私は試しに心の内を外へと、エルダへと出してみる。


「ユウの歌は……私を迷わせるんだ」

「続けて」

「それはまるで、深い森を夜に一人きりで当てなく彷徨うような気持ち。今回の課題では、エルダさんの下絵が灯りになってくれているのかも。だから足を止めずにいられる」

「それは褒めてくれているのよね」

「ううん、賞賛じゃないよ。信頼。それじゃダメかな」


 エルダは考える素振りをした。やがてまたその顔つきに柔らかさが戻ってくる。


「神樹の彫り人を目指す上で私たちは争いを避けられない。――でも、今回の課題では三人が互いを信頼しなくてはならないわ」

「たしかに」

「三人ともよ、当然。そうね、たとえば……貴女、ユウさんともっと話しなさいよ。それともあの子に素っ気ない態度をとるのは私もいる時だけ?」

「今日のエルダさん、とてもおしゃべりだ」

「怒るわよ?」

「それに優しい。私たちのお姉さんみたい」


 何気なく出てきた台詞だったが、エルダの反応を見るに彼女の深い部分に響くものだったみたいだ。

 さっと赤らんだ顔が可憐だった。姉とみなした直後というのに、その顔があどけなく見える。


 それはそうと彼女の言葉には一理ある。迷いから抜け出す方法は鑿を手に取り木に向かうだけではなく、ユウ自身をよりよく理解することなのだと。




 課題の締め切りまで、残りわずか三日となった。


 日に日に外気が冷たくなっているのを感じる。土地柄からすると風に凍えはしても雪は降らなさそうだ。ユウがダフネといた北方の村では毎年そこそこ積もっていたらしい。


「ダフネ、今年は何かくれるかなぁ」


 ユウが作業場の窓に彼女自身を映しながら呟いた。夜の帳が下りる頃にいよいよ七体目の聖獣が完成して、疲労をとるために今日の作業は終わりとなった直後のことだ。エルダはお手洗いへと行き、今はいない。


「あのね、新しい一年の始まりを祝って、これまでは手袋や靴をくれたんだよ」

「そうなんだ。ダフネさん、里の新年祭に来る予定なの?」

「ここに入る前からの約束なんだ!」


 神樹の里の新年祭は、神彫院にいる候補生も参加していいことになっている。

 ちなみに手紙や荷物と違って候補生自身の頻繁な外界との行ったり来たりは原則的に許されていない。厳しい罰則があるのではなく、神樹の彫り人に選出される乙女にとっての不文律なのだ。


「ユウは何か欲しいものがあるの?」


 私も窓際へ近寄り、彼女の隣に立つ。

 作業場の窓は大きく、そこに二人を映し出す。


「えーっと、そうだなぁ。うーん、悩んじゃうね。なんだろう。あっ、小さい時にね、お星様をとってよとダフネに泣きついたことがあったなぁ。あんなにあるんだから一個ぐらいって」


 窓に映った少女が二人とも笑顔を見せる。


「ねぇ、リラは?リラは何が欲しいの。わたしがあげられるかな」

「どうかな。今より暖かい毛布があったらいいかも」

「えー、わたしがいるのに?」

「ユウは毛布でも枕でもない。私も違う。知っていた?」

「うん!」


 満面の笑みだ。

 私は自然と彼女の髪に手を伸ばしていた。私が撫でるのを彼女は受け入れてくれる。

 これは決して狼の毛並みではない。当たり前だ。でも、もしかしたらとも思う。夢想してしまう。


「わたしね……歌が欲しいな。わたしだけじゃなくて、みんなで歌えるの。みんなで歌いながらね、みんなの願いを彫るの!」

「願い?」

「うん。たとえばね――――女神様なんていなくたって、この世界がずーっと平和でありますようにって」


 それは星を求めるのと同じく、あまりに無邪気に口にされたから、私はその願いが持つ意味をその時はろくに考えもしなかった。

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