第10話 和解
試験開始から四時間後、私は図案に記された模様を球体に彫り終えた。
直方体から球体を彫り出す段階で、与えられた木材の柔らかさを刃の手応えで十二分に思い知ったので、仕上げ鑿で模様を刻んでいく際には丁寧に、焦らず急がずを心がけて作業を進めていった。
模様を彫る前にその表面すべてを滑らかにしてしまうと、彫り進めにくい。敢えて大きく角ばった部分を残して支えにし、最後にそれを削ぎ落として全体を滑面に仕上げた。
これが硬く割れにくい木材だったのなら模様をかなり深く刻んで、シルエットは球体でも手触りは別物にできたが、今回は線がしっかり見え、柄を読み取れる程度の浅い彫りだ。
試験官へと完成品を提出するべく、そして合否を聞くために耳栓を外した。
耳に入ってきたユウの歌声で、まだ彼女が作業中であったのを知る。しかもそれはあの日聞いた歌ではない。
彫る作品あるいは作業段階によって変わるのだろうか。その歌詞が古スクルトラ語を思わせる響きを持つ言葉たちで構成されているのは同じだった。
しばし私はその歌に引き込まれた。
それを咎める者はいない。お面をつけた試験官たちは二人揃って、ユウへとその体が向いていて、彼女の歌に意識をもっていかれているふうだった。現に、私が歌声を振り切って試験官のうちの一人に作品を提出した時には、試験官は私の存在がどこからか湧き出たように驚く素ぶりをしたのだ。
ユウは深々と模様を彫っている。球体を転がしながら模様を球面全体へと広げ、最終的には模様のない部分がない作品になりそうな勢いだ。
勝ち負けを決めるのなら、私の負けだろう。第三者ではなく私自身がそう認めてしまっている。私のは模範解答じみた無難な仕上がりで、ユウのは挑戦的な技の集結だったのだから。まだ完成していないうちにそれがわかった。
さすがに試験官たちの意識も、私の作品を鑑定する時にはそれへと向けられた。
やがて、またも抑揚のない声で「合格」という声が発せられる。私は二人に頭を下げて礼を言い、そして「彼女が彫り終えるのを待っています」と苦笑して、少し離れたところにいる里長たちのもとへ向かった。
神彫院への案内を彼女たちが今、説明する気にはならないだろう。
「おめでとう、リラ」
合格を伝えると、里長がそう言ってくれ、私はやっと合格した実感を得た。
ミカエラが叩き込んでくれた私の技が神彫院に認められたのだ。それを喜ぶとともに、今のうちに里長に訊ねておくことにした。
「あの……ユウの歌が、一体何なのかご存知ですか」
つい昨日に耳栓を貰った時には、はぐらかされた問いだ。
里長は豊かな白髭を揉み、にやりとした。この人はいつもどおりだ。今いるこの地点はあの子の歌は必死で聞こうとしなければ聞こえない距離である。
「ふむ。歌は歌だ。それではいかんかな」
「ええ、いけません。あの子は歌手ではなく木彫り師でしょう。はじめに歌があって鑿を振るう手があるのではなく、鑿を振るいながら彼女は……なぜか歌うんです」
「職人それぞれに、自らの技の精度を向上させる儀式的行為があると聞く。その一種、もしくはその延長線上を超えた……言ってしまえば、聖歌かもしれんな」
聖歌。
私が知っているそれは、村の教会で年に一度、大勢の村人たちが集まる中で何名かが体を左右に揺らしながら高らかに謳い上げるものだ。
「神樹の彫り人に選ばれるには、あれを超えねばならんぞ」
「……実は女神像に対してそれほど執着心はありませんが」
そう前置きし、疲れた指を揉み始める。
「神彫院で、ユウやまだ見ぬ木彫り師の女の子たちと技を競う日々。それが私を一人前の木彫り職人へと近づけるのだと思うと、弱気になっていられません」
今となってはダフネに感謝すべきかもしれなかった。もし仮に今日この場でユウの歌声に何の対策もなく晒されていたら……。
ふと、私のお腹の音が鳴った。
里長が「食事休憩も許されていたんだがのう」と言って、使用人に目配せをする。なんと、昼食用にハムと野菜のサンドを数切れ用意してくれていた。
「神彫院の食事はあまり肉が出ないと聞くが……おぬしは肉に限らずもっと食べたほうがいい。その細身では他の候補生たちに押しつぶされるぞ」
「ですが里長さん、国教は節食が美徳であると説いています。それに村ではこのようなハムには、そうそうありつけませんでした」
「では、年長者の助言は素直に受け入れるべしと教義になかったかな?」
「どうでしょう。……何はともあれ、ありがたくいただきます」
「ユウの分も残しておくのだぞ」
「もちろん」
彼女との和解なしに、神彫院へと入るのは避けたい。
私は空腹を満たしながら遠目でユウを眺めて時を過ごした。彼女は楽しげに歌い、彫っていた。たとえお腹が鳴ってもきっと新しい旋律を導く起点になるに違いない。
私が食べ終わり三十分して、ユウの作品が完成した。真昼をすぎて一時間余り、気温が一日の中で最も高まる頃合いだ。
「なぜ、そなたは歌いながら彫るのだ」
三人がいるところへ私が近づくと、試験官がちょうどユウにそう訊ねていた。
「わたしは、えーっと、なんだっけ……ん、ん。わたしが彫っていると女神様が優しげに愛を囁き、やがてその慈愛を歌にするので、それにつられて歌っているのです」
十中八九、ダフネに吹き込まれた回答だった。そしてこの推測は私ばかりではなく試験官もしたようだ。
「それは、ダフネ・スフォルツァから授かった言葉ではないのか」
「ああ、ひどいですわ! 信じないと言うのならそれでかまいませんわ、試験官様」
即座にそう答えたユウに、試験官二人が顔を見合わせる。私はというと、口調まで無理に覚えこませることはなかったのではと呆れていた。
ユウは、試験官が予定通り押し黙ったのだとみなして、得意げな顔をしている。淑女の顔ではなく可憐な少女のそれだ。
「重要なのは作品の出来ではありませんか。これほどの作品を彫り、不合格にはしないでしょう」
「口を慎みなさい、リラ。我々は歌う理由を訊いただけで、彼女を拒むつもりは最初からない。そなたら両方を神彫院に迎え入れる。よいな。……大工房の庇護下にない乙女が同じ日に二人もなど、奇特なことだ」
そして私とユウは、午後四時になったら神樹の森の入り口まで来るようにと指示を受けた。試験官たちは神彫院での生活に関してここで話すつもりはないみたいで、里長と短いやりとりをした後、会場を去って行った。
「ねぇ、リラ。今、お話してもいい?」
そう口にしたユウの目にはあの美しい輝きがなければ、深き森もなく、幼子めいた不安があった。
「できれば私から話をさせて、ユウ。……この前はあんな態度をとって、ごめん。あの試験官たちがどう受け取ったかまでは定かでないけれど、私にとってあなたの歌は……なんというか、特別に聞こえたんだ」
ユウは目をいっぱいに見開いてぱちぱちっとする。
「それを抜きにしても、あなたの木彫り師の腕はかなりのもの。だから、あの時はつい逃げてしまった」
「じゃあ、わたしが怖くなったり、嫌いになったりしていない?」
「えっと……今こうして鑿を持っていないユウのことは、怖くないし嫌いでないよ」
「ほんとにほんと?」
「ち、近いよ、ユウ。大丈夫、私たちは……友達でしょ?」
一度逃げ出したくせに調子がいいと自分をなじったが、ユウの目があの時みたいにきらきらとしたから、これでよかったのだと言い聞かせた。
「やったぁ! リラ! わたしの友達!これからもよろしくね!」
「待って、離れて。頰擦りしないで。それよりも、お腹空いていない?」
「すいてる!」
私は残していた昼食を彼女にあげる。
妙な感じだ。ああいう神秘的な歌声が出てくる口は今、食べ物でいっぱいになっていて、その顔はあまりに幸せそうで私もつられて笑った。
食べ終えたユウが「あのね」と唇に食べカスをつけたまま話す。
「ダフネがね、神彫院では王都の名工房から来た、まるで自分が女神かのように振る舞う高慢ちきで見栄っ張りなお嬢さんが何名もいるって言っていたんだ。言葉の意味はよくわからないけど、すごそうだよね!」
「……すごすぎるから、その言い方は向こうでしないほうがいいかな、うん」
「そっかぁ」
ぺろりと食べカスを舌でとるユウ。上機嫌な彼女に歌について改めて訊こうとしたその時、ダフネがふらりと会場に入ってきた。
「どこで道草を食っていると思ったら。……あなた、合格したのね」
彼女がその鋭い視線で刺したのは愛弟子ではなくその隣にいる私だ。
「はい。おかげさまで」
「本当にそう思っているなら、院内でユウの面倒を見てくれるかしら。私はこの子にあまり礼節や作法といったものを教えてこなかったから。そうね、人懐っこい狼とでもみなしてくれていいわ」
狼。
私にとって特別な獣にして、モチーフ。
この巡り合わせに、私はつい笑みを零した。そしてダフネに言う。
「――わかりました。友達として、そして神樹の彫り人を目指す同志として。私はユウのそばにいます」
ダフネは少し驚いた顔を見せ、それから左手を差し出してきた。そうして私たちは握手を交わす。
彼女の左手は……職人の手ではなかった。
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