第9話 試験

 神樹の里での滞在五日目。

 

 里長に連れられ、試験会場に到着した。

 作業場と聞いていたが、里長の屋敷ほどではないにせよ、それなりに大きな平屋の建物だった。午前九時きっかりに入場したのが柱時計でわかる。ごおんごおんと、年季を感じさせる音が室内にこだましていた。


 神彫院からやって来た二人の試験官はどちらもお面をつけていた。それも木彫りであり、彩色されていないが浮雲のように白い。目的はあくまで顔を隠すことで、お面そのものに表情らしい表情はなかった。その無表情ぶりが威圧感を与えはしている。

 黒いローブを纏っていて身体の輪郭は不確かであるが、手は職人のそれだった。髪や声、そして神彫院という場所の性質を考慮しても両者揃って女性だろう。


 会場には、試験官たちと私とユウ以外は、里長とそのお付きしかいなかった。

 どうやら家族や師匠であっても部外者とみなされ、同席が許されていないみたいだ。ダフネがユウにとってそのどちらでもあるのは以前に聞いたとおりである。


 私たちはまず簡単な自己紹介をさせられた。里長が作成した書類と合致するかの確認だ。それから、木彫り師としての力を示す作品を提出する。

 私であれば果実を啄む小鳥たちであり、そしてユウであれば山に巻きつく蛇だ。


 試験官が品定めしている間、私は二つの作品をなるべく視界に入れないようにしていた。思い切って床を見やったぐらいだ。半端に逸らそうとすれば、かえってユウの作品に目が引き寄せられると思ったから。

 それに私と彼女の作品を見比べた試験官に、そのお面が役割を失うほどの反応があったら……と恐れた。


 ユウとはあの日、すなわち彼女が歌い彫り刻む様を目の当たりにした日からまともに話していない。

 

 私は――あの場から逃げ出してしまった。

 

 なんとかベッドから立ち上がって、さながら溺れて水底に沈みまいと必死にもがき足掻くように部屋を出たのだ。

 そんな私の背中を呼び止めたユウには「試験に集中したいから」ともっともらしい言い訳を、彼女の顔を見ずに叫んで駆け出したのだった。


 そうだ、だから私は実のところユウが彫り上げた蛇が何に巻きついているかは知らない。山から何か別のものに変えている可能性だってある。

 ユウなら空でも海でも彫れるのでは、そんなことを考えてしまう。


「二人とも合格だ。次の試験をすぐに始めるのでこの場で待機しているように」


 試験官の声で私は顔をあげた。

 その抑揚のない声の主がもう片方の試験官を見ると、そちらも頷き、異論がないのを伝えたようだった。そして二人は試験の準備をしに別室へ向かう。


 ユウに気取られないように彼女の顔を盗み見る。けれど彼女もまた私に目線をやっていて、図らずも交差する。


 そして彼女が微笑む。

 そこにあるのは喜びや嬉しさ、誇らしさ。それらが彼女の笑みを作っていると頭でわかっていても、まるで私は彼女に許された気にもなって、熱いものが胸にこみ上げた。

 たった微笑み一つ、けれどユウのそれは特別だった。


 里長が「さぁ、道具をいつでも使えるようにしておくといい」と声をかけてくれ、私たちは揃って「はい」と応じた。




 試験内容は殊の外、単純だった。

 図案が渡されて、そこに描かれている模様を一つも欠かさずにすべて彫り込まれた球体を造るというものだ。


 あの広間の絨毯に編み込まれていたような、スクルトラの伝統的な柄をいくつか組み合わせた模様だ。難所が数箇所ある以外はこれまでに何百と彫ってきた模様と大差ない。

 ミカエラの課題の中には球体の制作はもちろん、球面上に模様を刻むものもあった。

 つまり、いつもどおりに彫ることができるのなら、この試験を突破できる自信がある。


 しかし私の平常を壊す二つの要素が今回は存在していたのだった。


 一つは、ユウの歌声だ。

 あの歌声を試験官は止めるだろうか。木彫りをする上で歌ってはならないという掟が定められていない限り、あの歌をいたずらに中断するのは無粋で、冒涜ではないか。

 さすがに過剰な解釈かもしれないが、とにかく私は試験においてユウの歌を聞くことになる状況を想定していた。


 あの歌を耳にしながらでは、彫れる自信がない。手元が狂い、止まりそうだ。


 ゆえに対策を講じた。

 私はまず試験官に、できる限り集中して取り組みたいことを理由に、別の受験者すなわちユウと別の部屋で作業するのは可能か否か訊ねた。距離を取る、それが最も簡単な解決法だった。


 けれども試験官は認めなかった。

 神樹の彫り人の素質が真に備わっているならば、他者に惑わされて彫れなくなるのはあり得ない、というのが言い分だった。

 

 それに対し、反論しようとしたのはユウだ。でもそれを私が止めた。

 あのユウ本人から歌がどうのこうのと、試験前に話しても試験官たちを混乱させるだけだ。ユウが何か言おうとしたのを遮って、事前に考えてきたとおりに言う。


「それなら耳栓をするのはかまいませんよね。かつて耳が聞こえない神樹の彫り人もいたのですから、禁じられていないはずです」


 はったりではなく、旅の途中で得た情報に基づいた申し出だ。


「ああ、かまわない」


 即答だった。

 過去にも同様に耳栓をして試験に挑んだ少女がいるのは想像に易い。

 おそらく一時期は聴覚を敢えて遮断して彫るのが流行りもしたのではないだろうか。


 そうして私が前日に里長に頼んで、ありがたく貰っていた蝋でできた耳栓をまずは右耳に注意深くはめ込む。

 ユウはまた何か言いたげな面持ちを見せてきたが、やがて彼女のほうから顔をぷいっと背けた。


 そして試験官が木材を台座に乗せて運んできた。その木材が二つ目の要素、私にとっての難関だった。


 直に触れ、匂いを嗅いで私は記憶が正しかつたと悟る。例の木材図鑑で読んだ中にあった木材だ。柔らかくて彫りやすいが木目に癖があるので初心者に向かない木である。

 

 淡い黄色の木地に薄い木目。伐った後でもその強い香りはしっかりと乾燥させてなおまだ残っている。そして乾燥が不十分だった。

 伐られて日が浅く、その分しか天然乾燥を施していないと思われる。それが意味するのは、繊細な彫り物をするには柔らかすぎるということだ。


 球体をひび割れさせては減点になるだろうし、細かい線で組まれた図案を彫っていく際に力が入れすぎては模様が崩れてしまうだろう。なるほど、たしかにこれは木彫り師としての腕を短時間で把握できる試験だ。


 私とユウはそれぞれ配置につき、道具を用意する。

 試験時間は最大で六時間。それまでに完成すれば提出していいが、撤回して彫り直しは不可だと説明される。それを聞いた後で私は左耳にも耳栓をした。


 試験開始の合図は声だけではなく手振りで与えてくれた。

 上げられた手が振り下ろされ、私は私のやり方で木と心を通わす。


 ユウを見ない、聞かない、意識に入れない。彼女が持つ特別を今は忘れる。

 あの日から丸二日間空いていてよかった。昨日の今日だったらまだ立ち直れていなかったかもしれない。打ちのめされっぱなしだったかもしれない。

 

 でも今は……彼女との出会いも私が村を出てここまでやって来た意義の一つだと思っている。

 だから、この試験を終え、二人揃って神彫院へに入学が認められたら、あの日の逃亡をまずは謝って、それから……。


 私は首を横に振る。

 はたから見れば奇妙だったが、そうやって今度こそユウを意識から追い払う。


 私は木材の六面すべてにじっくりと触れて、そっと置き直すと、いざ木槌を手に取った。ミカエラは私に、旅へと持っていく道具を私自身で選べと指示したが、その中でこの木槌だけ彼女が「使わなくてもいい、こいつを連れていってくれ」と言って渡してくれた。その時まで一度だって私に握らせなかったミカエラ専用の木槌だった。

 それがどれだけの回数、鑿を叩いてきたのかわからない。

 こんこん、かんかん、がつんがつん。そんな容易く表現できる音ではない。


 村での日々を思い出し、師匠の木槌に背中を押され、いやぶっ叩かれて私はこの試験の場にいる。


 私は叩き鑿をここだと決めた部分、ここが私のはじまりだと思った部分にあてがい、それを師匠から託された木槌で叩いた。


 この一撃が、私とユウとの間を詰める最初の一歩だ。歌えなくても、彫り刻んでいけばいい!

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